No.316 バビロンの金の像

”テキスト:ダニエル3:1 ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。
2 そして、ネブカデネザル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に出席させることにした。
3 そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に集まり、ネブカデネザルが立てた像の前に立った。
4 伝令官は大声で叫んだ。「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこう命じられている。
5 あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。
6 ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」
7 それで、民がみな、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民、諸国、諸国語の者たちは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ。
8 こういうことがあったその時、あるカルデヤ人たちが進み出て、ユダヤ人たちを訴えた。
9 彼らはネブカデネザル王に告げて言った。「王よ。永遠に生きられますように。
10 王よ。あなたは、『角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞く者は、すべてひれ伏して金の像を拝め。
11 ひれ伏して拝まない者はだれでも、火の燃える炉の中へ投げ込め。』と命令されました。
12 ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」
13 そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。
14 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。
15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
19 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。
20 また彼の軍隊の中の力強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込めと命じた。
21 そこで、この人たちは、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。
22 王の命令がきびしく、炉がはなはだ熱かったので、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来た者たちは、その火炎に焼き殺された。
23 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
24 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」
25 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。
27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。
28 ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。
29 それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」
30 それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。”

本日は「バビロンの金の像
」という題でメッセージしたいと思います。有名なバビロンの金の像に関する箇所から学んでいきたいと思うのです。

順に見ます。

1 ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。

この日、バビロンの王は、その国に像を建てます。「高さは六十キュビト、その幅は六キュビト」
すなわち6の数字に関係した像を建てるわけです。

さて、この箇所と非常に類似している箇所が
黙示録にあります。
 

”黙示録13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。
14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。”
 
 

このダニエル書の金の像の話と黙示録の記事を見ると以下のように、両者が非常に似ている話であることがわかります。

1.どちらにも像が立てられ、それを拝むことが書かれている。

2.どちらも獣の国の権威の下で、像の礼拝が全ての人に強制される。

3. どちらも像を拝まない者は殺される。

4. どちらの像にも6という数字が関係してくる。

5. どちらにも「火」が関係する。

それで、実は黙示録に書かれているあまりにも有名な「獣とその像に関する話」の詳しい記事、説明は、
ダニエル書の金の像の話であることが類推できるのです。
このダニエル書の金の像の話を詳しく見ていく時、黙示録の語る666の獣の像を拝む時とは、具体的にどのような時なのか、類推することができるのです。

次を見ます。

2 そして、ネブカデネザル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に出席させることにした。”

さて、この時、バビロンの国は統一され、その国の王は、命令を出すだけで、「太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集」することができました。
これは終末のバビロン化した教会のたとえです。その時、教会は「統一」されていることが
想像できるのです。

この教会統一の動きは今、盛んに進んでおり、ルター派がカソリックの下に入ったり、
また、アメリカ福音派は、カソリックとの合同をするとの宣言書を出しました。エキュメニカルと呼ばれる
教会統一の動きはさかんに進んで、全てが統合される日は遠くないのです。

教会統一するということは教会間に争いがなくなることだ、いいことだなどという人もいますが、
この運動には悪魔的なわながあります。これは、カソリック、しるしを行う惡霊マリアを始めとする
あらゆる汚れた霊と法皇崇拝を始めとする誤りに満ちた教会と福音的な教会を合同させ、
カソリックのあらゆる偽りをそれぞれの教会に持ち込もうというのが、その大きな目的なのです。
この全教会統一は、信仰的に決して望ましいものではありませんが、しかし、ダニエル書、黙示録を見る限り、しかし、これはどうも実現されることのようです。我々はこれを「望ましくないが、しかし、終末の日に必ず起きること」として備えていくべきと思われます。

このダニエルの日、「太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集」され「像の奉献式に出席」させられました。同じように終末には、全ての教会の牧師、監督、枢機卿等が皆集まって像、すなわち、反キリスト的な働き人を拝し、その命を聞かなければならない日が来るのでしょう。

このダニエル書の金の像に相当する人物はだれなのでしょう?

詳しいことは私もわかりませんが、今、客観的にいって、その位置にもっとも近いのは、ローマ法皇でしょう。
何故なら、エキュメニカル運動を進める人々はおしなべてローマカソリックを「中心の教会」と述べており、この運動は、カソリックのもとに全キリスト教会を統一する運動だからです。
そうである以上、統一されたあかつきには、ローマカソリックの長、法皇が全統一教会の長となることが
自然に想像できるからです。現時点でもっとも反キリスト、金の像にもっとも近いのは、「ローマ法皇」ということになるのかもしれません。この日は、「(反キリストが)軍勢の長にまでのしあがった」と記されている日なのでしょう。

”3 そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に集まり、ネブカデネザルが立てた像の前に立った。”

前の節では、「太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官」に対して命令が出されたことが記してあり、この節では、その命令が完全に履行され、「太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官」が「像の奉献式に集ま」ったことが記されています。誰も反対するものも拒否する者もいなかったのです。
この日、統一された教会において、この命令が厳密に施行されることを覚えましょう。

4 伝令官は大声で叫んだ。「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこう命じられている。
5 あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。”

ダニエルの時代、バビロンの国の法律により、「金の像」を拝むことが強制されたのです。
終末にも全く同じことが起こることが類推できます。その日、宗教、何を拝み、何を崇拝するかということに国や、法律、権力、罰則が適用される日が来るでしょう。

この日のバビロン国は、 ダニエル書の中で、ライオンという獣にたとえられています。
同じ意味あいで、終末の黙示録にも「獣の国」が登場します。これらの獣の国は、
神の民に「礼拝を強制する」ということで一致しています。
かつての日、ダニエルの日に、金の像への礼拝は、獣の国、バビロン国の威光、権力、法律、死罪を含む罰則の中で強制されました。終末にも、同じく獣の国の中で、この「礼拝」が強制されます。
それが、黙示録に「獣の国」が記されている理由です。

終末の獣の国とは、すなわち、私達の理解では、アメリカのことであり、この国主導の宗教統一、世界秩序、統一の中で、この礼拝は強制されます。

「諸民、諸国、諸国語の者たち」との表現は、以下の「あらゆる国民、部族、国語、民族」に対応しているように思えます。
 

”黙14:6 また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。”

黙示録の表現が、実は、あらゆる種類のクリスチャンをさしているようにダニエル書の表現も
たとえとしては、あらゆる種類のクリスチャンをさしているのかもしれません。

この日、「伝令官は大声で叫んだ。」ように終末のその日、この教会統一、また、教会の像(恐らく教会の働き人、器)崇拝は大きな声で、また大々的に伝えられるでしょう。

角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音」

この像を拝む時には、楽器の音が聞こえることが記されています。
楽器は教会においては、礼拝の時、用いられるものであり、すなわち、これは礼拝のたとえなのです。
その日、礼拝の中で、「人の像」(すなわち、器)を拝することが強制されるでしょう。

6 ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」”

「火の燃える炉の中に投げ込ま」れたら、命がなくなるでしょう。他の箇所では、命令にそむくと、
ライオンの穴に投げ込まれることが記されていますが、これも命が失われてしまいます。
ですから、終末のバビロン化した教会において、真の神に仕え、背教を否定するものは、
「命を失う」ことを覚悟しなければならないことがわかります。

全ての人が殉教するとは、限りませんが、しかし、「私のために自分の命を失う者はそれを得る」と
書かれた時代がやって来ることをしりましょう。

7 それで、民がみな、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民、諸国、諸国語の者たちは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ。”

この日、バビロンの民は、皆、偶像を拝みました。「諸民、諸国、諸国語の者たちは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ。」のです。終末にも同じことが起こります。バビロン化した民が
皆、神ならぬ物を拝むようになる日です。これが聖書がかねてから語っている背教の日です。
このような恐るべき背教の日を主がたてたキリスト教会のどまんなかに起こそうと画策している人々があり、そして、悲しいことには、彼等の方法、エキュメニカルは大成功をおさめつつあるのです。
我々の外堀は埋められ、内堀も残すところ、わずかです。
私達が眠りからさめるべき時はもうすでにとっくに到来しています。主につく人は今の時を知らなければなりません。

”2テサロニケ2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。”

このテサロニケの記事が語っていることがらが、まさにダニエル書の金の像の記事なのです。
この日はかねてから聖書が語っていた、終末の試練の日です。

8 こういうことがあったその時、あるカルデヤ人たちが進み出て、ユダヤ人たちを訴えた。”

しかし、この日、多くの人々が背教に傾く中で、それに従わない小数のユダヤ人がいたことを聖書は述べています。同じバビロンの国の中に2種類の人々がいたことがこの記述からわかります。
1種類は、カルデヤ人、この異邦の国、バビロンに何の疑問も感じず、逆に主につく人々を訴える人々です。今の教会にもバビロンゆかりの神学や、霊に影響されている人々が多くいます。
もう一方は、ユダヤ人、すなわち、バビロン化された国、人々の中にあっても主に仕え続ける人々です。
彼等は訴えられ、非難されるでしょうが、それは、彼等が悪いからではなく、時代が悪く、
回りの人々が変質してしまったので、逆にまっすぐな道を歩んでいる彼等が「おかしく」見えるだけなのです。

9 彼らはネブカデネザル王に告げて言った。「王よ。永遠に生きられますように。
10 王よ。あなたは、『角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞く者は、すべてひれ伏して金の像を拝め。
11 ひれ伏して拝まない者はだれでも、火の燃える炉の中へ投げ込め。』と命令されました。
12 ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」”

ここで同じ国に住む一方の人が他方の人を訴えています。
これは、「兄弟は兄弟を訴え、死に至らせる」と預言されている日のことがらです。
カルデヤ人達は、「王の命令をないがしろにしたやつらはとんでもない」と義憤にかられて訴えているのです。同じように、主につく人々を訴える人々が「自分達は神に仕えている」と誤解する日がきます。
もうこのことの前段階は始まっており、あの憎むべきエキュメニカルのわなを気付いている人は少ないようです。今、この時ですら、彼等がこんなに盲目なら、「その日」どのように惑わされてしまうのでしょう。

13 そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。
14 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。”

この日、バビロンの王は金の像を拝むことをこの国の全ての人に強制し、従わない「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ」を呼びつけ、いうことをきかなければ命が危ないぞと脅しました。
この国の「宗教を規定する」圧倒的な権力と法律を理解して下さい。
これは終末の獣が支配する世界において、必ずやってくる日だからです。
今は「宗教の自由は憲法で保証されている」ことになっていますが、その日、そんな約束、保証は、
紙切れのように消えるようになるでしょう。
その日を虎視眈々と狙い、用意している人々がいるのです。

近代の世界歴史を私達が理解できるなら、それは、「獣の国」を地上に実現しようとの努力の歴史であることがわかるでしょう。18世紀に起きたフランス革命は、まさに反キリスト革命であり、
この革命の中で、カソリック司祭達は、公に「キリストへの信仰破棄」を宣言させられました。
また、多くの教会は閉鎖され、ノートルダム寺院においては、キリストの代わりに「自由の女神」ということで町の売春婦が崇められました。このギロチンと殺りくの革命は、この国からキリスト教を一掃したいと願った人々による革命だったのです。

それから100年ちょっと後に起きたロシア革命は、まさにフランス革命の再来だということを研究者は述べています。同じパターンで革命が起きたのです。この革命により、信仰あついロシアの国は、一夜にして、無神論の国、多くのクリスチャンを迫害、死に至らしめる国、すなわち獣の国になってしまったのです。このロシア、ソ連は、共産主義を輸出する国となり、東ヨーロッパ、またアジア、アフリカ
の国々をいくつも共産主義の国に変えていきました。これらの共産主義化された国で必ず、起きることは、
キリスト教、教会の破壊、クリスチャンの迫害です。

共産主義を発明した(ことになっている)マルクス、またソ連革命の立て役者レーニン(少なくとも、奥さんがユタヤ人)を始めとする人々がユタヤ系であることからわかるように共産主義とは、キリスト教を憎悪する
ユタヤ人がしかけた「発明品」であることをプロトコールは述べています。

ですから、近代史とは、獣の国が起こされること、その下でキリスト教が迫害されることの
くり返しなのです。そして、それらの「圧倒的な獣の支配」の国においては、「宗教の自由」「キリストを信じる自由」など、絵に書いた餅であり、実質そんなものはどこにもなかったことは、
ある程度知識のある人々にとってはよく知られたことがらなのです。

これらの個々の国々で起きた獣支配は、実は終末の本番の獣の国による「世界支配」の予備実験だったのかもしれません。

”15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」”

「どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」と大バビロンの王は高慢に語りました。
彼のこのことばは、根拠のないものではなく、誰もが認めるこの国を支配する彼の圧倒的な権力を裏に語っているのです。現在、世界のどの国もが認める世界唯一のスーパーパワーの国、獣の国アメリカが
突然仮面を脱ぎ捨て、多くのクリスチャンにこのように反キリスト礼拝を強要する日は遠くはありません。
この国のシンボル、自由の女神は、あの反キリスト革命の起きた国、フランスから寄贈されたものであり、この自由の女神こそ反キリストのシンボルなのです。獣がその本性を現す日はもう始まりつつあります。
 

16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」”

このような獣の国において、しかし、真の神に従う人々もいます。それらの人々は困難に合います。
これこそ、「かつてなく今後もない」という艱難時代のことなのでしょう。

ですから、どうぞ覚えて下さい。終末の預言に満ちているダニエル書は、「神に従う民の困難」について語っているのです。また、他でもないキリスト御自身が福音書の中で、「艱難の日」が来ること、備えることについて語っているのです。いいえ、彼等だけでなく、ペテロ、ヨハネ、パウロ達も口をそろえて、
世の終わりの困難な時代について語っているのです。

「その日は高みの見物よろしく天に挙げられて、艱難が終わったら、降りてくる」という
艱難前携挙説は、これらの聖書の明確なことばを真っ向から、否定する「空想話」、「偽りの教義」であることを知って下さい。

私達は困難に合いますが、しかし、このことを忘れてはいけません。「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます」神はこのような絶対絶命の状況から我々をどのようにして救われるのでしょうか?それはよくわからないのですが、しかし、「私たちの仕える神は、...私たちを救い出すことができます」

”19 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。
20 また彼の軍隊の中の力強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込めと命じた。
21 そこで、この人たちは、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。
22 王の命令がきびしく、炉がはなはだ熱かったので、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来た者たちは、その火炎に焼き殺された。
23 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。”

彼等は法律に逆らった者として、像を礼拝しないため、困難に会います。

24 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」
25 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」”

彼等は3人だったのですが、火の中でもう一人増えて、4人になりました。
この増えた人は一体誰でしょうか?「第四の者の姿は神々の子のようだ」とのことば通り、
神の子、世の終わりまで我々とともにおられるといわれた私達の主御自身ではないでしょうか。
かつてゲッセマネの園についていった、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと主キリストを合わせれば
4人になりました。同じように、ここでも「唯一礼拝されるべき方」とそれに従う三人の弟子を合わせて
4人になるのかもしれません。

さて、このあたりの箇所を70人訳で見ると「この火の中に投げ込まれた彼等が、その中で
「賛美、礼拝している」という記述が追加されています。

旧約聖書の記述は何故だか、いわゆる「ヘブル語原典からの翻訳」といわれる記事と「70人訳(ギリシャ語)」との記述が異なることがあります。どちらが正しいかということは、今は言いませんが、しかし、「ところどころ違う記述がある」ということは覚えておいて下さい。
くり返しますが、70人訳は新約聖書の「旧約からの引用」の記事に使用されている「翻訳」です。

もとに戻りますが、この火の中で彼等が賛美、礼拝していることと、
金の像に関連する「角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音」や
「金の像への礼拝」とは対照的です。
どちらにも「賛美、音楽」と「礼拝」があるのです。それで、この記事は2種類の礼拝に関する記事であることがわかります。

26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。
27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。

ここでいう「火」とは何のたとえなのでしょうか?やはり、他の箇所と同じように、霊のたとえととるのが妥当でしょうか。 もしそうなら、「火は彼らのからだにはききめがなく」
すなわち、終末の惡霊の働きは多くの人々を惑わし、盲目にし、席巻しますが、この主につく人々、また主の「からだ」、教会には何のききめもないということなのでしょう。

「その頭の毛も焦げず」

頭の毛は、聖書の他の箇所では、女性が権威に従うことと、関連して書かれています。
ですから、この火、惡霊の働きの中で、多くの惑わされた人々は主への忠実、権威に従うことから、
外されますが、主に従う人々においては、その「従順」においても変わりはなかったということなのでしょう。

「上着も以前と変わらず」

上着は「義の衣」というように罪や義と関係します。多くの人々が惡霊の惑わしの中で、罪を受け入れていきますが、彼等の義に変化はないということなのです。

「火のにおいもしなかった」

火のにおい、すなわち、惡霊の影響、効果は全く彼等に及ばなかったということなのです。この日、
主に命がけで従う人々は自分の命を得、たましいを救います。

”28 ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。
29 それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」
30 それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。”

さて、この記事が語っている預言は、終末の日
とは全てのクリスチャンに対する試験の日であり、
誰も例外はないのだということをかたっていることを覚えて下さい。何故なら、以下のように書かれているからです。

ヨハネの黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”

ここに「全世界に来ようとしている試練の時」と書かれているようにこの「金の像」の試練、テスト、試験、試みは「全世界に来ようとしている」ことを知って下さい。
すなわち、全ての人がこの試験を通ると言うことなのでしょうか。

しかし、その試練の中で、私達は、このシャデラク、メシャク、アベデネゴのように「このように救い出すことのできる神は、ほかにない」ことを見るようになるでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー