NO.314 聖所からの水

”テキスト:エゼキエル47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバ(砂漠)に下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。
10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディ(
子供の油壷)からエン・エグライム(
2つの穴の泉)まで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。”

本日は「聖所からの水」ということで終末の日に約束されている聖霊の大傾注について
見ていきましょう。

聖書は明らかに終末の日に聖霊の大傾注があることを述べています。この箇所もその一つと思われます。
順に見ていきたいと思います。

”1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。”

ここで、神殿から流れる水について書かれています。
水は、サマリヤの井戸の水、また「私を信じるものはその腹から生ける水が川がわとなって流れる」
といわれた水、聖霊に通じます。
ここで神の神殿から水が流れています。このことが非常に尊いのだということを覚えて下さい。
多くの人がリバイバルを求め、水らしきもの、リバイバルらしきものが来るとすぐ飛び込んでいくようです。しかし、水と名がつけば何でもいいというものではありません。逆に毒の水といわれる水もあるのです。現に今、起きているリバイバルと称する働きには、どう見ても毒水と思われるものが多いのです。

しかし、その日、神の神殿から、水が流れます。これこそ約束の御霊であり、真実の霊です。

”水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた”

さて、その水、約束の御霊、神の神殿からの聖霊の流れは、「東のほうへと流れ出て」いました。
この時、聖霊の流れが起こり始める時、東の方向に特別な意味あいがあることがわかります。
東とは何を、どこをさすのでしょう。私達は聖書によりエルサレムが世界の中心であることを知っています。ここが中心なら、東とは、そこから東の方面の国々、いわゆるアジア(このことばには東という意味がある)であることがわかります。その日、水は、「東のほうへと流れ出て」いきます。
すなわち、この日、東の国々に水、油、聖霊が注がれるのです。

「神殿が東に向いていたからである」

神殿は東を向いていました。学校が東向きであり、東側の門があいているなら、学校へ入りたい人は皆、東側のその門から入ることになります。
同じように終末の日、神殿は東側に向いており、神の神殿に入りたいと願う人々は東を通って、
そこに至ります。東が用いられるのです。この日、アジアの国々が主により用いられます。

”2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。”

この日、水が流れ出ます。当たり前のことですが、貯まっただけの水と流れ出る水とは異なります。
テーブルの上にポットに水が満々と溜められていても、そのままでは、他の器には何の影響を及ぼしません。
しかし、誰かがそれを倒してしまうなら、その溜められていた水は、テーブル上のナプキンやら、
スプーンやらを濡らして流れていきます。
流れる水は他に影響を及ぼすものなのです。それと同じように、この日、神殿からの水は「流れ」だすのです。これに触れる者は皆、聖霊により変えられます。この日は、ペンテコステの日の再来であり、聖書が終末の大収穫の日、後の雨として以前から預言していたまさにその日なのです。

”3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。

ここでも「東へ出て行き」というようにやはり東について書かれています。
「後なる者は先に」とは、このことに関しても成就し、かつて後なるものであり、
聖霊により、「アジアで みことばを語ること」を禁じられたこの東の地域は、その日、
後なる者から先なる者になります。

4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。”

水は、増え、そして、人の足やひざ、腰にまで達します。足首、ひざ、腰は、人が歩むのに
関係する部分です。これらに水が触れる時、人の歩み、クリスチャンの歩みは変わってきます。
聖書がくり返し語っていることは、人の歩み、祝福は、聖霊によるということです。
これらの溢れるばかりの水、聖霊の傾注の中で、多くの人々の歩みは変えられます。

6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。”

「川の両岸に非常に多くの木があ」りました。川は聖霊の流れであり、木は、ぶどうの木、オリーブの木というようにクリスチャンのたとえです。この日、聖霊の流れの中で、多くの人々が、主に立ち返るでしょう。

8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバ(砂漠)に下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。”
 

この時、この水は、アラバ、すなわち、砂漠、水のないところに流れます。水のないところ、
全く聖霊の働きにふれなかった人々も水により、その日いやされます。
それだけでなく、この水は、「海に注ぎ込」まれます。海に注ぎ込まれる?海はすでに水のあるところであり、大量に水のあるところです。そんなところにさらに水を流す必要があるでしょうか?

あります。何故なら、この水が注ぎ込まれると、「そこの水は良くなる」からです。

それで、私達は、水があるところ、海と呼ばれるところであっても、その水が悪い、そこに住む魚をちっとも生かすことのできない海なりがあることがわかるのです。
これは、今の教会の現状です。聖霊の働きがあるはずなのに、
ちっとも霊も肉体も心もいやされない、そのような状況は確かにあるのです。

しかし、「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。」のです。ですから、この2種類の水には、相違があることを知って下さい。
すなわち、今までは海があり、水があるけれど、いやされず生きていなかった、具体的には、
信者は罪に死んでいた。そのことが暗示されます。教会には、聖霊が働き、神のみわざがある「はず」
なのですが、実際は、今までの水では、よい働きはなかったのです。
しかし、この時、主の約束とおり水が流れ、その聖霊の働きの中で多くの人が生かされていくのです。
「今までの水」と「この川」との間には、明確な区分があるのです。

「この水がはいると、そこの水が良くなるからである。」とは意味深いことばです。この日、かつて福音書に記されたことがまた再現するでしょう。多くの盲人、足なえ、耳しいがいやされていきます。
これは、具体的に肉体のいやしが与えられることもあるでしょう。しかし、たとえとして、
霊的に盲人、足なえ、耳しいがいやされていくことが再現されるのかもしれません。

この働きは、かつて主イエスの働きがそうであったように、実際に霊がいやされ、霊の目が見え、また耳が聞こえる人々があらわれながら、しかし、律法学者、すなわち聖書専門家、宗教指導者の間では、賛否両論でしょう。というより、否定する人の方がずっと多くなるでしょう。

しかし、たとえ回りの評判がどうであろうとも、「この水がはいると、そこの水が良くなるからである。」と書いてあるようにこの聖霊の働きを受け入れ、その結果、その教会なり、個人なりに「この水がはいると、」その時、「水が良くなり」いやされることを知って下さい。
かつての日、主の時においても、イスラエルの全ての盲人がいやされたのでなく、この方を受け入れ、
この方に頼った人々はいやされました。彼等はこの水を受け入れ、その結果、「この水が入った」のです。

10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディ(
子供の油壷)からエン・エグライム(
2つの穴の泉)まで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。

ここで、エン・ゲディ(子供の油壷)という油に関係した名前、また、エン・エグライム(
2つの穴の泉)という泉に関係した名前が出てきます。油そして、泉ともに聖霊のたとえです。
ですから、確かにこれらの川の流れは聖霊の働きに関することがらです。
また、「網を引く場所」とは暗示的なことばです。網を引かれるとは、要するに「魚の争奪」が行われる、草狩り場となるということです。この水、川が流れるところでは必ず、魚、すなわち、クリスチャンの移動や、離散、集合があることが予想されます。
恵みを求めてこの川が流れる教会へ移動する人々があらわれるでしょう。私は別にそれを推賞しているのではありませんが、しかし、とどめてもいません。もし神のことばがそう書くなら、神のことばは書かれているように実現するでしょう。

「そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。」

魚の数が多くなる、すなわち、この終末の聖霊の大傾注の中で多くの人がクリスチャンになるということでしょう。また、種類も多くなる、すなわちあらゆる種類の働きが起きるのでしょう。
 


”11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。”

ここは何を意味するのでしょう。沼は、川のように水が流れていかないところです。
すなわち、この水、働きを受け入れないところは、水が良くならないということでしょうか。

12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。”

この水のほとりに「あらゆる果樹」また実も絶えません。実は聖霊の実、愛、喜び、平和、寛容に通じます。
また、御霊のたまものにも通じるでしょうか。これらはこの水の中で
与えられ、それは絶えません。また、「葉も枯れず」すなわち、その働きも途中で行き詰まったり、
崩壊したりしないのです。その理由は「その水が聖所から流れ出ているからである」と書かれています。
この水に関しては、「聖所」から出てきた水であることがここに特筆されているわけです。
このことには意味があります。
いわんとしていることは、同じ水でもその原産地に気をつけるということでしょうか。
多くの人は水なら、どこの水も同じと思うのでしょうが、聖書は、原産地、源が大事だと主張しているようです。同じ水でも六甲山の水やスイス、アルプスの水だったらおいしくて、清い水でしょうが、
しかし、それが下水の水だったら、大変です。病原菌がうようよしていて、一遍でお腹をこわしてしまうからです。

現代の多くのリバイバルといわれる現象の水は、まともなところからの水ではない、源が怪しいようです。
その結果、それを受ける人は、ちっとも道徳的に改善されない、逆に精神が破壊され、自殺してしまう人までいます。

しかし、主はこの終末の時代、聖所からの水の流れを与えるといわれます。ここにこそ、我らの希望があるのです。

さて、この聖所の水と似た記述が黙示録にもあります。以下の記述です。

”黙示録22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。”

ここにもテキストのエゼキエル書の箇所と同じように、「水、実、葉、いやす」等の同じことば
が用いられています。それでこの黙示録の箇所は、エゼキエル書の箇所と同じことがらを
描いていることが類推できます。ここを見ていきましょう。
 
 
 
 
 
 

1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、”

ここでは、その水、いのちの水は、「神と小羊との御座から出」ていることが書かれています。
これは、勿論、聖霊の流れのことをさしているのです。私達の健康は、私達がどのような「飲み物」を飲んでいるかにかかっています。添加物だらけの飲料水を飲んでいると、体がアトピーになってかゆくなったりします。飲み物は私達の体と密接に影響するのです。
今の神の子の不健康、不調の大きな問題は、飲み物、水が汚染されていることです。しかし、
終末のこの日、神は、「いのちの水の川」を我らに与え、「神と小羊との御座から出」る水を我々に与えます。これを受けるものはみないやされ、強められていきます。

”2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。”

その日、この水、聖霊の水に触れる人々のうちに聖霊の実がなります。彼等の働きは実を結ぶのです。
「木の葉は諸国の民をいやした」と書かれているように、この水によるわざは、多くのクリスチャン
をいやします。いちじくやアロエ等の葉は、病をいやします。同じように、この水により育つ、クリスチャンの働きを通して、多くの人々が霊的、肉体的にいやされていきます。

”3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。”

 「もはや、のろわれるものは何もない」というようにその日、神により、のろわれるもの、忌み嫌われるものを排除した教会が現れます。
かつて、イスラエル、ユダの多くの王が偶像や、高きところなど、多くの主が望んでおられない、
物を持ち込んで、自ら呪いを招いていました。これらの王は、カソリック、プロテスタント教会の型です。
彼等もマリヤ崇拝、この世の心理学、方法論等を持ち込んで、神に忌み嫌われることをしています。
しかし、その日、これらの偽りを全く排斥した人々が現れるでしょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。

ー以上ー