No. 313光を闇と呼ぶ

イザヤ5:20 ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
21 ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。
22 ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。
23 彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。
24 それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。
25 このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
26 主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。
27 その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。それはまどろまず、眠らず、その腰の帯は解けず、くつひもも切れない。
28 その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。
29 それは、獅子のようにほえる。若獅子のようにほえ、うなり、獲物を捕える。救おうとしても救い出す者がいない。
30 その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。”
 

本日は、「光を闇と呼ぶ」という題でメッセージしたいと思います。

かつて私達の先祖であるエバがエデンの園において、蛇にだまされ、神が「食べれば必ず死ぬ」と明言されたことばを偽りのことばにすり替えられ、「決して死ぬことはない」と正反対のことばで
だまされ、命を失ったことは、私達のよく知ることです。

神が黒と明確にいったものを白と言い換える、サタンの巧妙さ、またそれをすっかり受け入れてしまう、
エバの愚かさは、驚くべきものまた悲しむべきものですが、しかし、これは現在の我々と無関係のできごとではありません。

逆に現代においても、いや現代においてこそ、この悪魔の偽りの「いいかえ」、またそれにだまされる
女、教会の愚かさは大きな形で、くり返されています。本日はそれを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”20 ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。”

終末の一つの大きな問題は、「ことばのすりかえ」であることを知りましょう。
終末になったからといって、聖書本文が全く別の聖書の記事になるというわけではありません。
マタイの福音書の記述が「救い主イエスキリスト」と書かれていたものから、「救い主マホメット」もしくは「救い主仏陀」と変わるわけではありません。

しかし、問題は、ことばをそのままにして、しかし、その実体をすりかえたり別のものに変化させられてしまうということです。

「悪を善、善を悪と言っている」

十戒には、「何の像をも拝むなかれ」と書いてあるので、私達はどんな像をも拝むなら、それは惡であることを知っています。しかし、「すりかえる人々」は、マリヤの像ならよい、崇敬なら、拝まないからよい、などとくだくだと理屈をこねています。彼等は「善を悪と言っている」人々ではないのでしょうか。

「彼らはやみを光、光をやみとし」

日本においては、キリストを信じるキリシタンを迫害するのに、仏教が用いられました。
仏教に従うこの国には救いがなかったのです。
しかし、この「光のない日本人に福音をもたらすため」に、宣教師は命を捨てて、この国にキリスト
の福音をもたらしたのではないでしょうか。
しかし、今頃になって「どの宗教の人も救われる。仏教徒もヒンズー教徒も救われる」などといい、
異教との交流を深めている人々こそ「やみを光、光をやみと」する人々ではないでしょうか。

「苦みを甘み、甘みを苦みとしている」

苦み、甘味は食べるものと関係したことばです。聖書でいう食べ物とは「人はパンのみによりて生くるにあらず、神の口より出ることばによりて生くるなり」といわれた神のことばと関係したものなのです。
苦みは食べるべき部分でないところ、甘みは喜んで食すべきところでしょう。
そして終末の人々はこれを全く逆に取り違えているとこのことばは警告しているのです。

このことは確かに我々の目の前で実現しています。

「地獄は皆さんの心には存在しますが、(要は想像の産物とでもいいたいのか?)しかし、実際は
存在しません。何故なら、神は愛なので、誰をも苦しい目に合わせたりしないからです」などと
は、聖書をちやんと読んでいる人々にとっては噴飯ものの教えであり、まさに「苦み」、捨て去るべき食物、廃棄すべき教えなのですが、愚かで、盲目な民にとっては、「すばらしい愛の神の教え」として、
喜んで受け取るべき「甘み」として受け入れられています。

本物の味がわからない人に安物を売り付けるとはよくある話ですが、このように「馬鹿にされているとしか思えない愚かな妄想話」を喜々として受け入れる人々は、だまされる愚かな(霊的)盲人と言われても
しかたがないでしょう。

聖書をちゃんと読んでいる人々にとっては、聖書の神が裁きの神であることは、
自明、いろはの「い」、a,b,c の「a」であり、説明の要など不要のはずです。
創世記、レビ記、申命記、を始めとする旧約またマタイ、マルコの福音書、パウロ、ペテロの書簡、黙示録、それこそ
ありとあらゆる聖書箇所が神のさばきについて語っています。
いまさら、「さばきがない」などどこをどう読んだら出てくるのでしょうか?
これらの愚かな盲人たちはもう一度教会学校の小学生、いや幼稚園生とともに聖書を学びなおす必要があるのではないでしょうか。
 

21 ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。”

「おのれを、悟りがある者と見せかける者たち」というのですから、実際は知恵もない、悟りもないのに本人だけは、知恵があり、悟りがあると、そう思い込んでいるということなのでしょう。しかも人にも
そう見せかけ、ふりをするのです。

いつも難しそうな洋書を持ち歩いて「知恵がありそう」にみんなから思われても、実際の試験では零点ばかりでは困ったものです。同じ意味あいで、人から、立派な先生、神学者と思われても肝心かなめの神の前では、愚か者、悟りのない頑固ものという評価では意味がないのではないでしょうか。そして、他ならぬ、御自身がこれらの
神のことばを偽りものとする人々に対して、「悟りがある者と見せかけ」てるのに過ぎないといわれているのです。彼等の上に何の悟りがあるでしょうか。
 

「聖書も他の聖文書と同じように誤りのあるもの」「進化論と聖書は矛盾しない(!?)」
「復活は民衆の願望が作り上げたもの」「黙示録は未来の終末預言ではなく、ヨハネが生きていた当時の時代について書いたもの(???)」などというヨタ話を本気にしている人々こそ、
「自称知恵あるもの」、実際はただの情けない愚か者ではないでしょうか。

主イエスの時代にもこのような盲人はいましたが、主はこのような盲人を放っておくようにいわれました。

”マタイ15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」”

我々も盲人と論議せず、主にならいましょう。

”22 ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。”

酒は霊のたとえです。彼等は酒を飲み、強い酒を混ぜあわせます。これは、聖霊とは、名目であり、
実際は、獣の霊、マリヤを装おう惡霊です。彼等は偽りを喜んでいるゆえに神の聖霊としるしを行う惡霊との区別さえつけられなくなり、これらの酒(惡霊)を飲み干し、そして惑わしの中に入っていきます。

”23 彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。”

偽りを喜んでいる人々は、惡者と正しいものとの区別がわからなくなっていきます。
姦淫の教会、混乱の教会カソリックとの合同、エキュメニカル運動には悪魔的な惑わしがあり、
これに反対する者たちこそ、「正しい者」なのですが、盲目な人々の間では、彼等は「一致に反対する心の狭い悪者」と呼ばれていきます。まことにそのような愚かな盲人こそ、ここでいう「悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去」っている人々です。

24 それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。”

それゆえ、彼等は「火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように」なります。
火、炎は霊のたとえであり、彼等は惡霊の惑わしの中で滅びます。
そのように彼等が「霊」に惑わされるのは、彼等が「彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし」「
イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったから」なのです。
すなわち、彼等が主のみことばを侮り、捨て去ったからそうなったのです。

彼等は「この方による以外救いはない」との明確なみことばを侮り、「仏教にもヒンズー教にも救いがある」などと偽りを述べます。

「ことばは神」であるとのみことばを侮り、法皇の教えとみことばが食い違えば、法皇の教えを選び、
最近では、この獣法皇の教えに従い「進化論は正しい」などといい始める始末です。
進化論が正しいと言明するとは、すなわち、「創世記の記述は非科学的」「創世記を書いた神は非科学的」といっているということになります。これが、「みことばを侮った」ことにならないでしょうか?

そしてそれゆえに、「火の舌が刈り株を焼き尽く」すようになるのです。火は霊のたとえです。
彼等にとってあのマリヤ、目が開けた人には悪霊にしか
見えないマリヤが何だか慕わしいものに、また、あの獣法皇がすばらしい導き手に見えるのは、
その裏に「惑わしの霊」が働いているからなのです。

かつて神のことばをないがしろにし、侮ったエバにとって、死に至らせる実は「見るによく、食べるによく、賢からんとするにふさわしく」見えました。そしてこれこそが霊の惑わしの典型だということを知って下さい。彼女が惑わしの中で「死に至らせる実」を取って食らったように、今の「みことばを侮る人々」も、惑わしの中で、このマリヤの霊を受け入れていくのです。
しかし、これは、「刈り株を焼き尽きつくす火の舌」です。
 

25 このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。”

「彼らのしかばね」と書かれています。しかばねは「死」と関係し、死は罪と関係します。
彼等は罪と死の中に入っていくのです。

彼等が神のことばを侮る、「このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。」ことが書かれています。ですから、キリスト教の中で、また神の前において、神のことば、聖書のことばがどのような位置に置かれているのかよくよく顧みることがことが大事です。
何がもっとも大事なのかを知ることが肝要です。

いくら赤ちゃんの服を備え、ミルクを用意し、すてきな乳母車を買っても肝心な赤ん坊を道ばたに落として来たのでは、「不注意で愚かな母親」といわれてもしかたがないでしょう。

聖書は、像や偶像に対して、「像は神である」とはいいませんでした。また、マリヤに対して
「マリヤは神である」ともいいませんでした。また、法皇やペテロに対して、「法皇は神である」「ペテロは神である」とはいわなかったのです。しかし、ことば、神のことばに関しては明確にヨハネの福音書の中で「ことばは神である」(時制はアオリスト:過去、現在、未来形に訳せる)と語られました。

ですから、法皇やマリヤやのことばを優先してこの「ことば」「神のことば」を侮り、ないがしろにする人々は、赤ん坊を投げ捨てる愚かな母親以上にさらに、愚かな信仰者達であることを知るべきです。

それゆえ、それゆえ「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」のです。
 
 

"
26 主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。"
 

さて、ここから、聖書はある特定の国、民族を通して行われる「神の民」への裁きについて
述べています。この裁きは、「主が遠く離れた国に旗を揚げ」と書かれているように、主御自身から来たものです。確かにキリスト教界は彼等によって席巻されているのですが、しかし、それは、あくまで、
主が許されたからなのです。

地の果てから来る」

イスラエル、エルサレムは地球の中央に位置しています。しかし、この民は「地の果て」から来ます。
これらの両者は懸け離れた位置にそれぞれいるのです。

前者はキリストを信じ、後者は信じていません。
前者はクリスチャンであり、後者はクリスチャンをよそおった未信者です。クリスチャンを呪っています。
この2者は全く離れた存在なのです。
しかし、神が許されたので、後者はキリスト教会に潜り込み、この教理を破壊し、空しいものに変えてしまいました。「そんな馬鹿な」と今だに信じられない人もいるかも知れませんが、しかし、
主のいわれたことばのみ成就するのです。

彼等は「急いで、すみやかに来」ます。過去1-2世紀の間の教会の変質、堕落は目をおおうようなものです。確かに敵は「急いで、すみやかに来」たのです。

”27 その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。それはまどろまず、眠らず、その腰の帯は解けず、くつひもも切れない。”

彼等の中には、「疲れる者もな」いのです。ビリーグラハムはフリーメーソン33階級である、
すなわちその手の人であると欧米の研究者は口をそろえて語ります。
恐らくそうなのでしょうが、しかし、驚くべきは彼の「熱心な」活動です。
クルセードにつぐクルセード、よっぽど彼の方が普通のクリスチャンより熱心です。
確かに彼らは「疲れる者もな」いのです。

「それはまどろまず、眠らず」

彼等は目をさまし、自分が何をしているのかを知っています。

「その腰の帯は解けず、くつひもも切れない」

また、その歩み、働きもしっかり行っています。

28 その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。

矢、弓は剣と同じようなたとえでしょうか。すなわち、みことばと関係するのでしょうか。
 
 

「馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。」

ひうち石は、火と関連し、つむじ風は風と関連します。どちらも霊のたとえでしょうか。
馬は教会、集会のたとえです。ですから、この霊、悪霊をもたらす集会、民は恐ろしい勢いで、
神のことばをないがしろにする神の民に襲い掛かるということなのでしょう。
その結果、彼等はしるしを行う悪霊マリヤを拝する
リバイバルをありがたい神のわざだと受け入れるようになります。いわゆるカソリックカリスマ
運動の主流はしるしを行う悪霊です。これは、プロテスタントも同じで、彼等がリバイバル、リバイバルと呼んでありがたがっている金粉、金歯のリバイバルは獣のリバイバルです。

”29 それは、獅子のようにほえる。若獅子のようにほえ、うなり、獲物を捕える。救おうとしても救い出す者がいない。”

ここでいう獅子は、ペテロの手紙の中でいわれている「悪魔が獅子のごとくへ巡り歩く」といわれた獅子、サタンの働きを行う民のことでしょうか。彼等が教理を偽ることは天才的、また悪霊を聖霊だと偽り、受け入れさせることも大成功を収めます。これを逃れる人々は少ないでしょう。「救おうとしても救い出す者がいない。」と書かれた通りになります。

まさしく「裁きが神の家から始まった」のです。我らは主を恐れなければなりません。

30 その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。”

海は水のあるところとして霊のたとえです。ですから、「その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる」とはこの民によりもたらされる霊の攻撃のことでしょう。
それは、盲目な神の民により、「終末のリバイバル」と間違って呼ばれている、本当の名前は、
「獣のリバイバル」「(サタンの嘲りの)笑いのリバイバル」と呼ばれている現象です。
これらは「うなり声」と書かれているように獣からのものなのですが、ことばなる方を裏切る人々はこれを受け入れていきます。

「地を見やると、見よ、やみと苦しみ」

闇は光がないことです。「世の光り」といわれた方を追い出している状態です。
彼等は「ことば」なる方を偽りとし、「進化論は正しい」(創世記は神話だ)などとうそぶいている為に
光を失います。光のない闇の中を歩むものがつまずいたり、転んだりするように、
彼rは「エキュメニカル」「ペンサコーラ」「死海文書をもとにした偽り」等あらゆる偽りに倒され、転んでいきます。

「光さえ雨雲の中で暗くなる」

彼等は「世の光」といわれた方に頼らず、人や器を光とするのですが、それらの「光さえ雨雲の中で暗くな」ります。雨雲は雨と関連することばであり、霊と関係した意味あいがあります。
すなわち、これらの器さえ、終末の惑わしの中で。意味不明、おろかなたわごとをいうようになるということでしょうか。

教師、牧師、指導者が惑わされ、「皆で(獣の)リバイバル集会に参加しましょう」などと
惑わされたことをいうようになるのでしょう。

ですから、聖書は明らかに「ことばは神」といわれた方を否定する神の民への終末の裁きを語っています。
もし私達がこれらの明らかな警告を見ることができるなら、幸いです。
何故なら、見えない人々が多いからです。
主のいわれたように「あなた方の目は見るゆえに幸い、耳は聞くゆえに幸い」なのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー