NO.311 三日めに蘇る

テキスト:”マタイの福音書 16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。”

本日は、「三日めに蘇る」との題でメッセージしたいと思います。

聖書には、キリストの蘇り、復活について何度も書かれています。
もちろん、これは、大事なことがらだから何度も書かれているのは、当然なのです。
しかし、注目すべきことは、この復活に関して、聖書は何度も何度もくり返して、
「三日目」に蘇ると語っていることなのです。

このことは、以下のように何度も何度もくり返して記述されています。

”マタイの福音書 17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。
マタイの福音書 20:19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
マタイの福音書 27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」
ルカの福音書 9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
ルカの福音書 18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
ルカの福音書 24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
ルカの福音書 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
ルカの福音書 24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

使徒の働き 10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。
コリント人への手紙第一 15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、”

聖書には、そもそもキリストの誕生日さえ、書かれていません。ですから、このこと、キリストが何月何日に生まれたかということに聖書が重い強調を置いたり、重用視しているようにはおもえません。
しかし、「三日目に」蘇ることについては、くり返して語っています。
単に「蘇る」と書くのではなく、「三日目に蘇る」ことが度々記されているのです。ですから、このこと
「三日目」とは何か大事なことがら、数字のようです。

たとえば、このことの例として以下の記述を見てみましょう。

”1コリント15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。”

ここには、主の死、あがない、蘇り、顕現等いくつものことが記されています。しかし、これらのいくつもの記述の中でも「三日目」とはっきりとその日を規定し、それに特別に言及しているのは、
復活のことだけです。

すなわち、「(何日めに)私たちの罪のために死なれた」とは記されておらず、また、「(何日めに)葬られた」とも記されていないのです。また、「’何日めに)ケパに現われた」、それから「十二弟子に現われた」とも記していないのです。

ですから、この「三日目」に主が蘇ったということは、特別なこと、この日数に特別な意味あいがあるように思えるのです。聖書がばくぜんと、「何日かたった後で、キリストが蘇った」とは決して書かず、必ず、「三日目」と明言している以上、何かこの数字に意味があるのかもしれません。今日はそのことを考えてみたいと思うのです。

さて、1日に関して聖書は、明確に「1日は千年のごとく、千年は1日のごとし」と定義していることを思い出しましょう。これは、いわば数学でいう定義ずけのようなものなので、聖書が何をどう
定義するのかははっきりと理解することが肝要です。

それで、1日という数字のたとえを理解する時、100年のことを考えたり、また10000年のことを
考える必要はありません。しかし、1000年に関するたとえである可能性は考える必要があるのです。
何故なら、聖書がそう定義しているからです。

さて、話が長くなるようですが、その伝で考えるなら、「3日目」とは、「3つめの千年期」である可能性があることを知りましょう。そして「3日目」という以上、いつから「三日目」なのか、いつが起源なのかということが問題になります。それは、おそらく、主の時代、キリストが生きておられた時代から数えてというように思えます。

さて、冒頭のテキストから、この3日目ということを考えてみましょう。

マタイの福音書 16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。”

主はここで御自分の死のこと、またその後の蘇りのことを述べられました。
さて、イエスキリストの死は歴史上の事実ですが、しかし、もう一面、たとえの意味あいがあるのではと私は思っています。人間は簡単にいえば、体と血からできています。同じように人としてのイエスキリストの構成要素について聖書は「血と体」からできていると述べているようです。

そして、1コリントのいわゆる聖餐式に関するみことばの中で、ぶどう酒とパン、すなわち、主の血と体について述べられています。そして、それはそれぞれ聖霊とみことばのたとえ
であることについてはもう何度も述べました。
それで、キリストの死とは、実は、パンとぶどう酒の死、すなわち、みことばも聖霊の働きも死んでいくことのたとえであることが想像できます。

さて、3日目、すなわち、三つ目のミレニアム(千年期)に住む私達は、このことが、実現しているか、事実かどうかを確認することができます。
そして、私達はこのことが事実であることをも知っているのです。キリストの体といわれる、みことばは、
軽視され、冒涜され、攻撃されています。復活はなかった、キリストはただの人だった等、あらゆる偽りが教会内に入りこんでいます。また計略をもって、ユダヤ人が独占した「死海文書」をもとにした、キリスト教起原に関する大嘘もまことしやかに教会内で語られています。(彼等はいつもこのように嘘を教会に持ち込みます)また、主の血といわれる聖霊の働きは彼等のもたらした惡霊のリバイバルにとってかわられました。

これらのことは、過去2千年間の教会の歴史に起きてきました。しかし、今は、三日目、3つ目のミレニアムに入っており、 もしこの「三日目」が、このことをさすなら
主の体の復活、すなわち、みことばの復活、神の霊の復活した働きをこれから、我々は見るようになるはずなのです。

「ご自分がエルサレムに行って」

神に愛された都、エルサレムにおいて、彼、キリストは苦しみを受けました。同じように、神に愛されるはずの教会において、
キリストの体であるみことばは侮蔑され、非難され、冒涜されていきます。また、血として語られる、
聖霊は、惡霊として非難されるようになります。

「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け」

キリスト殺しの主役は、「長老、祭司長、律法学者たち」でした。同じことは、みことば、また、
聖霊の働きに関してもいえます。長老すなわち、教会の主だった人々、また祭司長、すなわち、
礼拝を施行する人々また、律法学者、すなわち、聖書の専門家から、「ことばは神である」といわれた
方のことばは、今排除され、苦しみを受けています。

「殺され」

単にキリストが苦しみを受けるというのではなく、さらに殺される、すなわち、命がなくなる
ことが書かれています。このことは、今成就しているのでしょうか。
みことばも聖霊の働きも死んだものとされ、彼等の語る聖書のことばは人を生かすことができません。

「そして三日目によみがえらなければならないこと」

ここで、蘇ると訳されていることばは、(眠り)から目をさます、覚醒するというニュアンスもあるようです。
それで、この3日目に蘇るとは、主の復活のことを第一義的に語っているのは、勿論ですが、
しかし、それとともに、キリストの体なるみことば、聖霊の働きの復活をも意味しているように思えます。他の箇所も見てみましょう。

”マタイの福音書 20:19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」”

ここで、キリストが異邦人に渡されることが書かれています。このことは、実際に起き、主は、
ローマ、ピラトの下で苦しみを受けました。しかし、これは終末の日の型であり、主の体である、
 みことば、聖霊の働きも最後には、異邦人に引き渡されるようになることを語っているように思えます。

今、近代主義とか称する人々が語っている、復活はない、キリストは神でないなどといっている
たわごとは、全くこの世の不信者、すなわち、異邦人が昔から語っている「不信心者の愚かな話」であり、
目新しいことではありません。私達の信仰の先祖は、こんな愚か者のたわごとは相手にしなかったものですが、今、この終末の時代、冒涜の時代に、神のことばは、このような愚か者のために「あざけられ、むち打たれ」、ついには「十字架につけられ」ていきます。

そして、ついには、キリストを神だとも主だとも思っていない、信じてもいない、「異邦人に引き渡」されるようになっています。このことは今の私達の時代に成就しています。
しかし、この冒涜がいつまでも続くわけではなく、「しかし、人の子は三日目によみがえります。」と
書かれているように3日目、すなわち、3つめのミレニアムが始まる時、これらの死んだようなキリスト教会は生き返ります。もちろん全ての人がというのではなく、主につく人々がです。

次を見ます。

”マタイの福音書 27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」”

ここでは、三日目に蘇ることと関連して、祭司長、律法学者達が、それを阻止すべく動き、備えたことが書かれています。これも暗示的な記述です。

「 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。」

彼等は「三日目まで」すなわち、3つ目のミレニアムが始まるまで、墓の番を頼み、死んだ者が決して
墓から出ないように試みます。同じ意味あいで、今の時代も神の教会は死んでおり、実質は、
もうなくなったようです。その上、その死んだ教義から、一歩も動くことも逸脱することもないように「見張り」をする人々までいるのです。
今の時代、「再臨は2回ある」「クリスチャンは裁きの時には上に挙げられるから大丈夫」等の
偽りの教義は神学校、神学書等を通して、あたかも正統的な教理であるかのように教会を席巻しています。
誰もこれらの死んだ教理、冒涜的な教理に異義を唱えることができないかのようです。
確かにこれらの偽りを守り、番をしている人々がいるかのようです。 少しでも彼等の「正統教理」と違ったことをいえば、
すぐ異端呼ばわりしようと彼等は番をしているかのようです。

「そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して」

番をしないと、弟子達がキリストを盗み出すことについて述べています。
盗むということばは、「神のことばを盗む」ということに通じます。

彼等は自分達こそ、神のことばを盗み、勝手に人間的な解釈を施し、それを指摘したキリストを
殺したのに、さらにここで、弟子達が盗むといっているのです。盗人たけだけしいとはこのことです。
彼等は「神のことば」なる方の死体が「盗まれる」ことを警戒して3日目になる迄、番をさせたのです。
このことはある程度、成功したかのように見え、2日の間、すなわち、キリスト以来、2千年の間、
死んだような教理は教会を席巻し、神の聖霊の働きは決して蘇ることはありませんでした。しかし、3日目になると話は変わってきます。この盗まれ、殺された「神のことば」が復活してくるのです。

『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。」

神のことばなる方が、死人、罪人の間から蘇り、それが民衆、群集の間にも伝わる日がきます。
その日は教理の回復の日、メッセージ、説教の回復の日です。

「そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」”

彼等は主イエスの教えを惑わし、世の中を騒がせるものだと思っていました。
彼等の目から見るなら、主イエス、ペテロ、パウロ達の間で現された神の働きは皆惑わしなのです。
やっと死んでくれてほっとしたのに、また「蘇った」なんてことになったら、もっと、
惑わしが大きくなるというのです。
この彼等の懸念は、3日目、すなわち、3つめのミレニアムの時、実現します。その時、
神のことばはその力を取り戻し、純粋な聖霊の働きは始まります。
これは神の前には意味あるはたらきですが、この時の律法学者の立場に今立つ人々に
とっては、「ひどい惑わし」ということになるのでしょう。

さて、もう一箇所見てみましょう。

ルカ24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
8 女たちはイエスのみことばを思い出した。”
 

順に見ます。

”1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。”
 

主は三日目に蘇られました。それは彼が前もって語られた通りです。さて、この三日目が確かに
3つめのミレニアム、千年期をさすとして、それは一体、千年期のいつ頃なのでしょう。
何しろ、千年間もあるのですから、その間は長いのです。この箇所は、それが一日のうち、
「明け方早く」だと述べています。すなわち、朝になるやいなやということのようです。
一日の間にも朝、昼、夜、夕方等色々な時刻がありますが、聖書は「明け方早く」すなわち、
3日目になったらすぐだと述べています。
ですから、1000年のたとえととるなら、新しいミレニアムが始まったらすぐということになるのでしょうか。

”3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。”

その日、主イエスの体は墓の多くの死体の間にはありませんでした。
ですから、その日、キリストの体をもってたとえられる真の礼拝者達の教会は、死人、すなわち、
罪や獣の霊で死んだ人々の間にはないでしょう。

”4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。”

生きている方、その方の体を死人の間でさがすことは無意味です。同じ意味あいで、生きた体なる教会と死人の教会とは区分があるでしょう。死んだ教会の中でそれをさがすことは無意味です。

6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

さて、このこと、かつての主のことば、「三日目によみがえ」ることが語られています。
何故このことは、何度も何度も強調されるのでしょう。それは、これが、預言、主の体である
教会に関する預言だからではないでしょうか。

”8 女たちはイエスのみことばを思い出した。”

女たちはその預言を思い出しました。女は教会のたとえでしょうか。その日、主につく教会は
2000年前にいわれた主のことばを思い出すでしょう。それは、教会、主の体の復活について述べています。そしてその約束された主の体、教会の復活は、確かに3日目の朝はやく、すなわち、三つ目の
ミレニアム、西暦2000年を経てすぐにでも起きるでしょう。

もし、そうなら、主が確かにそのことを約束されているなら、今この時代に生きている私達はそれをこの目で見るようになるでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー