No.310東向きの門

 

テキスト:”エゼキエル書 43:4 主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。
エゼキエル書 43:5 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。”
 

本日は、「東向きの門」という題でメッセージしたいと思います。
エゼキエル書の中で書かれている「東向きの門」について見ていきたいと思います。

上記テキストにおいて、聖書は、主の栄光が「東向きの門を通って宮に入って」来る日について述べています。

現在のエルサレムの東向きの門とは、具体的には、オリーブ山に面した黄金門のことです。
この門は不思議な門であり、閉ざされた門なのです。城壁に確かに門はあるのですが、それは塗り込められており、閉じられ、当然ながら、誰も通ることができないのです。

そして、この門こそ、主イエスがエルサレム入場の時、通った門なのです。
その後の時代、この地を占領したイスラム教徒はこの門を閉ざしてしまいました。
そして、それは以下の預言の成就です。
 

”エゼキエル書 44:1 彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると、門は閉じていた。
2 主は私に仰せられた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここからはいってはならない。イスラエルの神、主がここからはいられたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。
3 ただ、君主だけが、君主として主の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。彼は門の玄関の間を通ってはいり、またそこを通って出て行かなければならない。」”

このエゼキルの預言のことばの通り、何百年か後、主イエスキリスト、「イスラエルの神、主がここからはいられた」のでした。そして、その後、この門は、「これは閉じたままにしておかなければならない。」と言われているように閉じられたのです。

このこと、門をあける、閉じるということを考えてみましょう。
もし、門、たとえば学校の門が閉じられていたとしたら、どうでしょう。もしそうなら、中の学校の
様子を誰も見ることができません。同じ意味あいで、
この門、東向きの門が閉じられている時、誰も中の都もまた神殿のようすも見ることも知ることもできません。

エゼキエル書には、宮の構造、寸法、仕様について以下の様にこまごまと記載されています。
 

エゼキエル43:14 この地面の土台から下の台座までは二キュビト、回りの幅は一キュビト。この低い台座から高い台座までは四キュビト、その回りの幅は一キュビト。
15 祭壇の炉は高さ四キュビトであり、祭壇の炉から上のほうへ四本の角が出ていた。
16 祭壇の炉は長さ十二キュビト、幅十二キュビトの正方形である。
17 その台座は長さ十四キュビト、幅十四キュビトの正方形で、その回りのみぞは半キュビト、その縁は一キュビトであり、その階段は東に面している。」”

これらの仕様に沿って、建築するなら、宮を作り上げることができます。
すなわち、神のすまいである宮を我々、愚かな者達でも作り上げることができるのです。

さて、宮は祈りの場所、仕える場所として、教会のたとえです。
同じ意味あいで、我々ももし、この東向きの門が開かれ、中に入れるなら、この宮を見、寸法を確認し、
それに基づいて宮、主に使える場所としての教会を建造することができるのです。

かつての時代、主イエスの時代は、まさにその時代、
東の門が開かれ、宮に人々が入ることのできた時代でした。その頃、パウロは神の家、宮を建てることに関してこのように述べています。

1コリント3:与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。”

この時代には、確かに宮の寸法、仕様が明確になっており、正しく宮を建てることのできた時代なのです。

このように主イエスの時代はこのように門が開かれ、人々が宮を見ることができ、また
宮の仕様が明確になっていた時代なのですが、しかし、その時代が長くは続かないことをも聖書は暗示しています。

”エゼキエル44:3 ただ、君主だけが、君主として主の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。彼は門の玄関の間を通ってはいり、またそこを通って出て行かなければならない。”

「君主として主の前でパンを食べる」と書かれていますが、パンは度々いうようにみことばの
たとえです。君主こそ、特別なパン、「主の前でパン」を食べられます。
パンはパン屋があれば、どこにでもありますが、主の前のパンは特別なパンです。同じ意味あいで、主のパン、メッセージは特別なものでした。これを聞いた人々が「このような話は聞いたことがない」と口々に語っていたように
特別なものだったのです。

そして、これこそ、聖書が、「君主として主の前でパンを食べる」とのことばで預言していたことがらなのです。しかし、このことがらは長く続きませんでした。
「彼は門の玄関の間を通ってはいり、またそこを通って出て行かなければならない。」と書かれているように、彼、主イエスは、門を通って出され、そして都の外で苦しみを受け、十字架につけられたのです。

この十字架は、ヨハネ伝に印されている、「彼は自分の国に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」と書かれている、ことがらなのです。そして、その結果、門は再度閉じられました。

上記、「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここからはいってはならない。」とは、このことをさすのでしょう。
ですから、今の私達は、門の閉じられた時代に生きているのです。啓示が閉じられ、正しい知識の道が閉ざされ、また、宮を正しく見、幻、仕様を理解することのできない時代に生きているのです。
ところで、誰が門を閉じるのでしょうか?
以下のことばはこのことと関係があるかもしれません。

ルカ11:52忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」”

ここでは、鍵を開けて入ることについて述べています。開ける、入るということがらは、門と
たとえの連鎖があります。

ですから、「律法の専門家たち」今のことばでは聖書学者達はこの「門が閉じられている」ことに
対して責任があるのかも知れません。
現代の聖書学者達の主張することを少し聞いてみれば、確かに「彼等が鍵を持ち去っている」との
訴えは正しいように思えます。
「キリストは復活しなかった」、「奇跡は民衆の願望が生んだものであり実際はなかった」、
「聖書は神が書いたのではなく人の書いたもの、だから当然間違いがある」等の聞くに耐えない
たわごとを愚かにも一生懸命主張していることばを聞くと、確かに彼等に関する聖書のことば、指摘は正しいと思われるのです。

ですから、この門が開けるとは、律法の専門家たち、今でいう聖書学者が、持ち去った鍵が取りかえされ、
もう一度、聖書に関する正しい知識が復活する、そんなことを意味しているのかもしれません。

さて、主イエスの時代に起きたことは、終末の時代の型です。ですから、終末の日にももう一度、
門が開かれることがあるのかもしれません。

そして、この門が開かれることに関してのもう一面は、水、聖霊の働きの回復です。以下のように書かれています。

エゼキエル書 43:1 彼は私を東向きの門に連れて行った。
2 すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。
3 私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。”

ここでは、門とともに「その音は大水のとどろきのよう」というように、水について記されています。
水は聖霊のたとえです。また、ここでも「東向きの門」というように、単に門というのではなく、「東向きの門」が開かれることについて書いてあることを覚えて下さい。

東、また水ということばは、エゼキエル47章にも同じく記されています。

エゼキエル47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。”

ここで記されている川、水は、まさしく終末の日の聖霊傾注に関して記されています。
「この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」
とは、終末の日における特別な聖霊の働きであり、これにより多くの死んだようなクリスチャン、罪と罪科とこの世にまみれて死んだような人々が生きてきます。
これはまた主イエスが賞賛した「純粋で高価なナルドの油」にたとえられる純粋な神の聖霊の働きです。
今、広まっている獣だか、ライオンだか、反キリストだかわからない怪し気なリバイバルとは全く異なるものです。

そして、ここでも、「水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。」「この水は東の地域に流れ、」というように、東について書かれていることを覚えて下さい。

さて、東とは、何を意味するのでしょう。聖書は、エルサレムを世界の中心においたと書きます。
それで、東とは、エルサレムから東の地方、たとえば、アジア地方をさすのでしょうか。アジアということばには、東というニュアンスがあります。このアジア方面に伝道に行こうとしたパウロを聖霊がとどめたことが使徒行伝に記されています。そして、その後、助けを求めるマケドニヤ人の要請に従い、彼等は西回りで伝道を進めました。マケドニヤとは、象徴的な都市であり、ここは、西洋文明のもと、ギリシャ、アレクサンダー大王の発祥地です。この大王に関しては、ダニエル書に一つの角とはっきりと預言されています。そして、この西回りに伝わったキリストの教え、福音、みことば、聖霊の働きはその果て、教会時代の終わりにどうなったでしょう。これは、ダニエル8章に、以下のように書かれています。

「6 この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見たあの二本の角を持つ雄羊に向かって来て、勢い激しく、これに走り寄った。
7 見ていると、これは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折ったが、雄羊には、これに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に打ち倒し、踏みにじった。雄羊を雄やぎの手から救い出すものは、いなかった。」

雄やぎは、後の説明によると、ギリシャ、すなわち、西洋の国々であり、2本の角を持つ羊は、キリスト教会のたとえです。すなわち、教会は、西洋文明の下で、殺されるというのです。
このことは、現在最も西の国、すなわち西洋文明の極みの国においてはっきりした形で実現しています。
この国の神学校においては、偽りの神学がとかれ、また、この国の集会においては、獣の霊が注がれています。

聖書には、縦の区分、すなわち、時間軸における区分があります。
その区分に沿い、主のおられた時代を起源として、旧約、すなわちイスラエルの時代と新約、すなわち教会時代とは、区分されています。しかし、また、他の区分、すなわち、横の区分も聖書には記されているのではと思われるのです。すなわち、西において、伝えられたキリストの教え、神の力は、
終末の日に東の地に移って来ると思われるのです。

黙示録もまた、終末の日における東においてあらわされる神の働きについてこう述べています。
 

黙示録7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。”

ここでは、終末の日に、「日の出るほうから上って来」るみ使い、すなわち、東の地における
聖霊の働きについて述べているのです。

聖書は、明らかに終末の日に東の地において、開かれる啓示、また神の聖霊の圧倒的な
働きについて述べています。この日に私達が、この世界のもっとも東の国、日出る国、日本にいることには、特別な意味あいがあるのかもしれません。

聖書は、この日、東向きの門が開かれる日、時についても述べているように思えます。
以下の記述はそれを暗示するように私には思えます。

エゼキエル46:1 神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。”

ここで、この東向きの門が、6日間は閉じられていること、しかし、安息日すなわち、7日目に開かれることが語られています。聖書によれば、「1日は1000年のごとし」ということですから、
この7日間は、7つの千年期、7つのミレニアムのことをさしている可能性があります。
そして、西暦2000年をもってアダム以来6000年が過ぎ、すなわち、アダム以来6つのミレニアムは既に過ぎ去り、何と私達は、7つめのミレニアムに入っているのです。
すなわち、時間的には、もう東の門が開かれてもよい時代に入ったのです。

くり返しますが、聖書は明らかに終末の日に東から、神の働きが始まるように語っているように
見えます。今の時代、この国にいて、主に仕える人々には重い使命があるのかもしれません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー