No.309水の源

”テキスト:黙示録16:4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。”

本日は「水の源」という題でメッセージしたいと思います。
終末の日に「水の源が汚される」ことについて見ていきたいと思います。

上記テキストで終末の日に、川と水の源が攻撃され、水が血になることが書かれています。
このことは、かつての出エジプトの時、起きました。主に逆らう民、エジプトの民のいる地において、
その川、ナイル川は、水に変わってしまったのです。それで、誰もその水を飲むことができなくなりました。

このことが終末の日に再現されて来るようです。
さて、上記テキストで、水の源、水源が汚され、その水が血に変わってしまうことが
書かれています。

このこと、水源が汚されるということは、非常に象徴的な表現です。
たとえば、水道の水の源である、貯水地なりに毒をまけば、その水道を使っている誰も彼もが毒による、
被害を受けます。

かつて水銀公害で有名だった町においては、その汚染された水のために、川や海の魚が死んだり、中毒で、
背骨等が変型してしまったことがありました。その水が毒なのかどうかで、その水に関わる人々に大きな影響を及ぼすことがわかります。

さて、このこと、水の源とは、勿論、私達、クリスチャンが受ける水、聖霊の流れの
源のことを言っているのです。
教会や聖会に出席する私達は、水、すなわち、聖霊の働き、恵みを求めて教会へ行くのですが、
恐ろしいことは、この聖霊の働きが、終末のある日、惡霊のものへと変わっていってしまうのです。

このことは、恐ろしいことですが、しかし、今のキリスト教会の歴史の中で現実に起きていることです。

例えば、「トロントリバイバルの源流」といわれているロドニーハワードの集会においては、ビデオ
によれば、「獣のしるしをつけろ」などと陰で語っています。トロントは、ペンサコーラリバイバルとともに有名な「聖霊の第三の波」といわれるリバイバル現象がおきているところです。
ですから、この世界的に有名な「聖霊の第三の波」といわれる波、流れの源流では、
何と惡霊が注ぎ出されていることになるのです。

まことに「鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。」とのことばは
ここにおいて成就しています。水の源流に攻撃が加えられているのです。

第3の波というわけですから、第一、第2の波があるわけです。
こちらはどうなのでしょう。ペンテコステ、カリスマの歴史を調べる人々は、
これらの働きの始めから、色々と怪しい、神の霊の働きとは思えないことがらが
起きていることを指摘しています。
おかしいこととは、たとえば、いやしがあるといいながら、ちっとも医者が認めるいやしがない、ということ、また、これらの働きに携わる働き人には、いかがわしいスキャンダルが多いと言うこと等などです。
(角笛HPに関連記事あり)

川の上流、源に毒がぶちまけられたら、その川下の人々は水を飲むことにより、
死んだり、体に害を受けたりします。

同じ意味あいで、教会において、毒の水が、源、上流で流されたなら、その川下にいる人々は、本人の
意志や動機に関わらず害をうけることを覚えましょう。
各キリスト教各派において、不倫等スキャンダルが多いのは、何といってもペンテコステ、カリスマ
派だということを聞いたことがあります。その原因は、
この流れの源流にそもそも「毒」が流されているからでは、ないでしょうか。吟味と確認が必要と思われます。

この水に毒がまざることに関連して、レビ記においては以下のように記しています。

”レビ11:32 また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。
33 また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。
34 また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。
35 さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。
36 しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。
37 また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。
38 しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。”

順に見ます。

”32 また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。”

器が汚されることについてここでは書かれています。器は、今の時代の聖霊の器に通じます。
聖霊の器、働き人が汚される、罪や死の媒介となることはあり得るのです。

”33 また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。

「土の器」とは、パウロの語った、「我らはこの宝を土の器に持てり」とのみことばに通じます。
ですから、これは確かに聖霊を受ける器としてのクリスチャンについて語っているのです。これらの罪、死が「どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる」のです。
ですから、罪の器、惡霊の器、人を汚す器、働き人は確かに存在します。
 

34 また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。”

「食べる物」と書いてありますが、食べるとは、命のパン、すなわち、神のみことばに通じます。
そして、「そのような水がかかって」いる食べ物、みことば、メッセージは皆汚れるのです。
このことばは、今の時代の不思議なことがらを説明します。

ビデオの中で隠れて「獣のしるしをつけろ」「デーモン、デーモン」だとか言っている、
自称神の器、実質サタニストと思われる人々は一体何を目的に、教会の集会でメッセージ
をしたりするのでしょう。
ある人はこういいます。

「たとえ彼等がサタニストであっても聖書的なメッセージをし、恵まれた集会となれば良いのではないのでしょうか。彼等のうちのある人々は、聖書の教理から見ても逸脱したメッセージをしていますが、
そうでない奉仕者もいます。彼等が聖書的な話をしている限りは問題ないのではないでしょうか。」

上記のことばがこの質問への答えになります。
たとえ彼等がどのようなメッセージをしたとしても、あるいは感動的な話をしても、「食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる」と聖書は語っているのです。
 

たとえどれ程清潔そうで、おいしそうに用意されたケーキがあってもそこに実は「赤痢菌の水」がかけられているなら、食べる人は皆食中毒をおこすでしょう。そこに菌がかけられているからです。同じ意味あいでたとえ彼等の話がどれ程、面白い、また聖書的であったとしても、そこに彼等の水、すなわち、
霊がかけられているなら、それは、霊的に汚れたものなのです。

たとえば、もしフリーメーソンの墓地に埋葬されているキャサリンクールマンが確かに
その手の人、サタニストであるとして、彼女は、一体何をもくろんで、
敵の陣営である、キリスト教会にやってきて、聖書の話をしたり、いやしの集会をしたりするのでしょう。
その理由はこのことばなのです。すなわち、「そのような水がかかっていれば、それはみな汚れる」とのことばです。

彼等は、悪霊の働いている食物、すなわち、説教、メッセージは、たとえ聖書的に正しい
内容に見えても、その実、それを聞いている人々をみな汚す、すなわち、罪や惡霊の支配下におけることを熟知しているので、このような不思議なことをするのです。

"
35 さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。"

かまどはパンを焼くところとして、パン、すなわちみことばと関係します。
そして、「死体の一つが落ちた」すなわち、罪の汚れのあるかまどは、「粉々に割らなければならない」と書いてあります。すなわち、「罪、死を持つもの」による、神のみことばのメッセージには、みこころがない、神はそれを望んでいないからです。
しかし、残念ながら、今のキリスト教会には、「死体の落ちたかまど」、すなわち、罪や死、サタン礼拝をする人々による、メッセージ、書籍等が数多くあるようです。


36 しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。”

水ためは本来清いのです。水とは、聖霊をあらわしており、この霊は当然きよい霊です。しかし、そうであっても、「ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。」すなわち、この死、罪に触れる霊はきよくなく、汚れてしまうのです。ですから、汚れている霊は確かに存在します。

”37 また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。”

種はみことばを現しますが、それは、きよいものなのです。

38 しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。”

そのきよいはずの「みことば」がきよくなく、汚れてしまうことがあるとこのことばは語ります。
それは、「種の上に水がかけられて」いた時です。すなわち、水、ここでいう惡霊による、
種、すなわちメッセージは汚れたものであると聖書は語るのです。
汚れたものは、結果として汚れたものを生み出します。チフス菌や赤痢菌で汚れた食べ物は、
結果として食中毒や腹痛をもたらします。
同じように「汚れた霊」によるメッセージは、人々に霊的な混乱、信仰の破壊、不健全な信仰、歩みをもたらします。教会の中に入り込んでいるフリーメーソン、サタニストの働き人はそれを狙っているのかもしれません。

問題は彼等が聖書的な、また教理的に正しいメッセージをしているかどうかではないのです。
そのことについては聖書はここでは触れていません。逆に「水がかけられているなら汚れる」と語っています。あくまで霊であり、彼等の「健全なメッセージ」に耳を傾ける人々はその霊が汚され、命から
外されるでしょう。

私たちは霊に気をつけなければなりません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー