No.308 7日目

テキスト:エゼキエル46:1 神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。”
 

本日は「7日目」という題でメッセージをします。7日目に封印された終末の預言が
開かれることについて見ていきたいと思います。
 

聖書は明らかに終末の預言、啓示は、終わりの日まで、封印されることを語っています。
以下の通りです。

ダニエル12:9彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。

示録5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。”

しかし、このように封印された預言がずっと、封印されたままでいることが神のみこころではなく、主はその封印が開かれることをも以下のように、語っています。

”ヨハネの黙示録 5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユ
ダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」”

さて、このように封印は開け、預言は開かれることを明らかに聖書は語っているのですが、
問題はそれがいつかということです。
その時について、聖書は語っているのでしょうか?
どうも語っているようにも思えるのです。

上記エゼキエル書のテキストには、6日間にわたって門が閉じられることについて語られています。
これを「1000年は1日のごとし」とのことばに沿って理解するなら、
6000年の間について語られているようにも思えます。

ですから、6日間、具体的には、アダム以来6000年、すなわち西暦二千年までは啓示の門、また
聖所に至る門は閉じられたままであると聖書は語っているように思えます。
しかし一方、この門は、安息日、すなわち7日目には開かれます。

この書物、封じられた書物に関しては以下のように述べられています。
 

”ヨハネの黙示録 5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。”

ここには、封じられた書物が7つの封印で封じられていたことが書かれています。
このことも暗示的です。たとえば、1つの錠で閉じられた扉をあけるには一つ鍵が必要です。
2つの錠、すなわちツーロックなら2つの鍵が必要です。錠が増えればそれだけ開けるのには、手間も
時間もかかるのです。この巻き物は、7つの封印で封じられています。
これをあけるのに7つの時が必要であることが類推できるのです。これは具体的には、7つ目のミレニアムが始まるまでは開かれない、そのように理解することも可能でしょう。

上記冒頭のテキストは明らかに7日目という具体的な期日(たとえとしては、7番目のミレニアム)について語っているので、それとあわせれば、この7つの封印も同じこと、7番目のミレニアムの時に開かれる封印について語っている可能性があります。

少し話は変わりますが、上記みことばの巻き物に関する「それは内側にも外側にも文字が書きしるされ」
との表現は暗示的です。この巻き物とは、ほかならぬ聖書のことと思われます。そして、
この聖書に関して黙示録自身が自ら、この本は、「内側にも外側にも文字が書きしるされ」た書物だと
いうのですから、このことばに耳を傾けるべきと思われます。
この記述は何を語るものなのでしょうか。恐らくこのことばは、この聖書という書の隠れた
本質、性質について書いてあるのでしょう。
この書には、内側にも外側にも文字が書かれている、すなわち、表の意味あいだけではなく、裏の意味あい、隠れた意味あい、秘められた意味を込めた書であるということを聖書自身が語っているように思えます。

ですから、全てこの書、聖書を読む人が知らなければならないのは、
このことでしょうか。この書は表に文字が書かれているのは確かですが、しかし、書かれているのは、
その面だけではなく、反対側、内側にも文字が書かれている書だということです。
それのみか、封印され、時が来るまでは決して開けないことがらさえ含まれているのです。

このことばを素直に受け止め、この書の表の文字だけでなく、裏の文字をも読もうと志す人に今の時代のみこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー