No.307 道を乱す

テキスト:”創世記6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
 

本日は、「道を乱す」という題で、終末の日にクリスチャンが「道を乱す」ことについて考えてみましょう。
上記テキストは創世記のノアの洪水の前の記述です。
ノアの時は、終末の時の型です。ですから、この時、何故洪水がもたらされたのかを知ることは、
終末の日に何故、大洪水がもたらされるのかを知る鍵となります。

上記テキストから考えましょう。

「すべての肉なるもの」

「肉」に関して聖書は以下のように書きます。

”ヨハネの福音書 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。”

「肉」とは、よくクリスチャンの間で言われることばですが、そもそもどう言う意味あいがあるのでしょう?私の思うに、その意味あいは、「霊の反対語」というニュアンスがあるのではと思われます。
クリスチャンの歩みは聖霊にある時、然るべきものとなります。ですから、ここに書かれている「すべての肉なるもの」とは、要するに聖霊によって歩んでいない人々のことをさすことがわかります。
ノアの日に、「すべての肉なるもの」が洪水の裁きにあったように、終末の日も「すべての肉なるもの」、すなわち聖霊の声に聞き従わない人々に洪水、悪霊の洪水が来ることを知りましょう。

「地上で」

地上ということばも語りかけがあります。
地は天の反対語です。そして、我々クリスチャンは実は既に天において、キリストとともに
座しているべきものです。ですから、この終末の日に、「洪水」に会う人々は、キリストとともに
天に座していない人々なのでしょう。

「その道を乱していた」

そしてもう一つの問題は、彼等が「その道を乱していた」ことなのです。

今でいえば、終末のクリスチャンがその歩むべき道、方法を正しくとらえず、乱していたということでしょうか。

ですから、終末の日とは、「道であり、真理であり命である」といわれた、主の道がクリスチャンの間で乱れてくる日だということを知りましょう。そして、一つはっきり知らなければならないことは、
終末の日は、「道が乱された日」だということです。

聖書は明確にこのことを語ります。私達がノアの日に生まれたなら、その日は基本的に「道が乱された
日」なのです。右の人も左の人も男も女も大人も子供もこのノアの日には、誰も彼も「道を乱して」いたのです。

そして、ノアの日でたとえられる「終末の日」にもし、我々がいるのなら、その日は、一般的に
「道が乱されている」日なのだということを知って下さい。
右も左もまた、どの教会も教団も、どの牧師もメッセンジャーも基本的には「道が乱されている」はずなのです。

そして、だからこそエリヤでたとえられるバプテスマのヨハネの以下の終末の働きが始まるのです。

マタイの福音書 3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。”

終末の日には、『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに』する働きが始まります。
しかし、道を用意し、まっすぐにする働きが始まるということは、裏返すと、終末の日に「主の道」は用意されておらず、また道も曲がっていることが暗示されるのです。

道路工事を始めるのは、その道が鋪装されておらずぬかるみであり、またでこぼこで車が通りにくいからです。同じ意味あいで、終末の日にバプテスマのヨハネの働きが始まる、その裏には、「暗黙の了解」として、教会において「道が曲げられ、用意できていない」ことを明確に聖書は述べていることを
知って下さい。

このこと、道が曲げられていることは単にいわゆる異端、間違った教えといわれる教理にとどまらないのではないかと私には思われます。

実は正統的、伝統的といわれている教理、大多数の人々が受け入れている教理、それが実はもうすでに曲げられている、そのようなことがあり得るのではないかとも思うのです。

例の多くの教会で受け入れられているが、実はちっとも聖書的根拠がない「2段階携挙説」を始め、
いくつかの教えは怪しいのではと私は思っています。

かつての日、『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』とのヨハネのことばを受け入れ、
彼からバプテスマを受けたのは当時の取税人、遊女でした。しかし、宗教の専門家、律方学者、パリサイ人は、このヨハネを受け入れず、結果として、『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐ』しませんでした。彼等こそ、道を曲げていたのですが、彼等は悔い改めなかったのです。

今の時代の「宗教の専門家」に関しても同じ危険があるかもしれません。
終末の日は、明らかに「道が曲げられている」日であり、この日、主の道を整え、曲がった道、教え、方法を捨て去り、「まっすぐな道」を選ぶ人々にみこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー