No.306道について(4)

テキスト:


ヨハネの福音書 14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

本日は「道について(4)」として、聖書の書く、道について更に見ていきたいと思います。
道に関する聖書のみことばを見ていきます。

テキストを見ます。聖書が「道」に関して、一貫して語っていることは、
その道が分かりづらい、見い出し難いということです。上記テキストにおいて、トマスが聞いている「どうして、その道が私たちにわかりましょう。」とのことばは示唆的です。
トマスは道に関して、その道の数が多いとか、少ないとか、街灯があるから、明るいとか、暗いということは聞いていません。また、その道のりが、長いとか、短いとかいうことも聞いてはいないのです。

ただ、彼は「どのようにして我々はその道を知ることができるのでしょう?(KJV)」と、その道の見つけ方、さがしかたを聞いたのです。これにより、聖書は、「この道はわかりづらいもの」なのだということを暗示しているように見えます。

また、このことは、主のいわれた、「命に至る門、道は狭く、それを見い出す者はまれ」であると言われたことばとも符合しています。

ですから、主のいわれた命に至る道、あゆみ、クリスチャンとしての生き方は確かに存在するのですが、
しかし、わかりづらく、それを見い出す者はまれであることを知りましょう。

”わたしが道であり、真理であり、いのちなのです”

道に関しては、主御自身が「道」なのだといわれています。
それで、主に求め、訪ねる時、私達は正しい道に至るということを知りましょう。
たとえば、「クリスマスには異教的な風習、霊が流れているから、クリスチャンが祝うべきものでも、教会に取り入れるべきものでもない」という意見があります。クリスマスを教会で受け入れる道、そうせずに排除する道と2つの道があるわけですが、どちらが正しい道なのでしょうか?
このようにわからない時は、主に聞くのが一番です。「私が道」と主御自身がいわれているのですから、主に聞く人が正しい道に至るのです。

テサロニケ人への手紙第一 3:11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。”

道がたとえば、工事で通行止めになっていれば、その道を車で通行することはできません。
同じ意味あいで、「これこそ正しい道だ」と私達が悟ったとしても、道が閉ざされているなら、
進むことはできないのです。

聖霊のたまものを得るための道が私達に理解できても、その道をどうしても歩めない、求め始めることができないなら、そのたまもの、いやしやら、預言のたまものなりを得ることはできないのです。
どうしたら、この閉ざされた道を開くことができるのでしょう。
その解決はただ一つ、主によるのです。「主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて」と書かれているように、主に求める者は、不思議に道が開けることを覚えて下さい。
 

”マルコの福音書 2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。”

群集として歩むより、弟子として歩む中に聖書が本来語っているクリスチャンの祝福と恵みに与る道があります。ある人には、弟子として歩むように主からの声がかかるように思えます。また、「そもそも声がかからない」という人もいるようです。

何故この違いがあるのでしょうか。主は差別をしているのでしょうか。それとも、主の召命とは、
気紛れなものなのでしょうか?上記箇所にその答えがあるように思えます。
この箇所で、12弟子の一人である、アルパヨの子レビ(マタイ)の招命が書かれています。
何故、このマタイには声がかかったのでしょうか?

聖書はこう書いています。「エスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって」

イエスは主の道を歩いていたこと、そして、その道を歩いていた時、主はアルパヨの子レビを見たということです。あたり前のような記述ですが、語りかけているものがあるように思えます。
それは、マタイ(レビ)が主の歩く道筋、そこから見えるところにいたということです。逆にいうと、
もしマタイが主の道筋にいなかった、主から見えるところで、すわっているところを主に見てもらえないなら、決して彼に声はかからなかっただろうということです。
すなわち、彼は主の道筋にいたのです。主から見えるところにいたのです。

主の弟子になりたい、主の用に用いられたいということは良い志ですが、問題は、私達が主の道筋にいるかどうかです。主の道を歩みまた、歩んでいる時、ある日、声がかかるようになるでしょう。

使徒の働き 22:4 私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。”

終末の日に主は、「この道」といわれる命に至る道を回復します。このこと、真理、教会の回復は祝福ですが、しかし、それとともにその道は、迫害、殉教に通じる道であることを知りましょう。

”使徒の働き 24:14 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。”

この道、終末の日に回復されてくる「道」は、「律法にかなうこと」、すなわち聖書の律法の記述と全く矛盾しないものであり、「預言者たちが書いていること」、すなわち、聖書、預言書の記述とも矛盾しません。しかし、「彼らが異端と呼んでいるこの道」と書かれているように、異端視されるべく、預言されていることを知りましょう。
 
 

”ローマ人への手紙 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。

破壊と悲惨があるクリスチャンの道があります。
このような道に入ることのないように求めましょう。
 

"
ヘブル人への手紙 9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
ヘブル人への手紙 10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。"
 

「新しい生ける道」と書かれた特別な道があり、それは終末の日に開かれるようです。
 

”ヘブル人への手紙 12:13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。”

多くの人がつまずいたり、倒れるのは、「曲がった道、でこぼこの道」を歩くからでしょう。
曲がった道とは、「再臨のキリストは2回にわたって来る」などという、みことばをねじ曲げなければ
出てこない曲がった教えです。こんな道を歩く人の信仰の歩みがすぐつまづくのは当然なのです。
私達がまっすぐな道を選ぶことこそがまず大事なことがらなのです。

”ヤコブの手紙 1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

「二心のある人」はその信仰生活において、「安定を欠いた人」であることを知って下さい。
逆にはっきり心を定め、「然りは然り、否は否」とする人々は安定した歩みに入ります。
ですから、私達ははっきりしましょう。弟子なら弟子として歩むこと、また、例のリバイバルに関しても
はっきりした態度をとりましょう。これが聖霊からのものだと思うのなら、ますます、このリバイバルの渦中に入り、他の人にも勧めればよいでしょう。しかし、そうでない、悪霊からのものだと思うのなら、
このリバイバルに対してはっきり、きぜんとした態度をとるべきです。あいまいな態度の方が、自分にとっては都合がよいかもしれませんが、実はそれがもとで歩みに「安定」がなくなることがありえるからです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー