NO.303 脱出の道

テキスト:”1コリント10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
13 あなたがたのあった<試練>はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような<試練>に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、<試練>とともに、脱出の道も備えてくださいます。
 

本日は、「脱出の道」という題でメッセージしたいと思います。
終末の艱難の時代においても神は我々のために「脱出の道」を備えて下さる、そのことを見ていきたいと思います。

終末のいわゆる艱難時代が、苦難の時、困難の時であることは、誰でも知っていることです。
偽り者達が語るように艱難の前に挙げられれば良いのでしょうが、どうもそんな話は聖書に
基づかない、空想話、惡霊の教えに過ぎないことを私達は知っています。

その艱難時代とは、どんな時なのでしょうか。誰でも絶滅必死の大変な時なのでしょうか。
それを見ていきたいと思うのです。
さて、上記テキストの「試練」と訳されていることばの原語は以下のことばと同じです。
 

ヨハネの黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている<試練>の時には、あなたを守ろう。”

ここでいわれている試練の時とは、すなわち、艱難時代の時であると想像されます。
それなら、上記テキストの「試練」も同じ期間の試練をさすと理解できるように思えます。

この箇所では、「全世界に来ようとしている<試練>の時には、あなたを守ろう。」と書かれています。
主御自身が、フイラデルプィアの歩みをしているクリスチャンを守ろうといわれているのです。フイラデルプィアの意味は兄弟愛です。このことばは、主のために苦難を受ける兄弟を暗示しているように思えます。そして、彼等はその時、主により守られるのです。私達は間違えやすく、惑わされやすい者かもしれませんが、主が守られる時、我々は守られます。

大きなよりわけ、麦のようにふるいにかけられる時が、ペテロを襲った時、彼は惑わされましたが、しかし、信仰を全く失ったわけではありません。主が「汝の信仰の失せぬよう祈りたり」というように、祈られたので、彼は守られたのです。
同じようにフイラデルフイアの道を歩む人々、主のために歩む人々は守られるでしょう。

さて、テキストに沿って見ていきたいと思います。

11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。”

「これらのこと」とは、荒野の試練の中で、イスラエルの人々は、不信仰、不品行、つぶやく者となっていき、結果として裁かれてしまったことです。それは、他人ごとではなく、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓」なのですから、私達は彼等の失敗から学ばなければなりません。

彼等のように不信仰、不品行、つぶやくようになるなら、私達もこの終末の試練の中でよりわけられ、
約束の地にいたらないことを知りましょう。

12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。”

終末には、黙示録に記されているように大きな地震があります。地震は家を倒すものであり、家は教会のたとえです。すなわち、多くの教会を倒すようなゆるがしが許されるときなのです。
阪神大震災の後、耐震設計の家が増えてきたということです。地震に備えた強固な設計をした家を
立てるわけです。同じ意味あいで、聖書は、くり返し、くり返し、終末に地震、ゆるがしが来ることを語っています。この警告に耳を傾け、備えをする人々は守られます。
備えは岩の上に家を建てることであり、それは「みことばを行う」ことを意味します。

13 あなたがたのあった<試練>はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような<試練>に会わせるようなことはなさいません。”

終末の艱難時代の試練は、やはり大変な試練なのでしょうが、しかし、神は「耐えることのできないような<試練>に会わせるようなことはな」いことが語られています。
ですから、主につく人々にとっては、その日にも不思議な助けがあるのでしょう。
 

むしろ、耐えることのできるように、<試練>とともに、脱出の道も備えてくださいます。”

試練とともに脱出の道が備えられることが語られています。
この脱出の道が終末の日に具体的にどんな形で開かれるのかはよくわかりません。

そうですね、その日はたとえば、バビロンのダニエルやその仲間達が主に仕えているために、迫害された日の再現なのかもしれません。彼等は主に仕えているがゆえ、燃える炉に投げ込まれたり、ライオンの穴に投げ込まれたりしました。彼等は確かに苦難を受けたのですが、しかしみごとに助け出されたことを知りましょう。
 

同じ助けが終末の主につく人々にも与えられるのでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

-以上ー