No.301 誓う(2)

 

テキスト:”ヤコブの手紙    5:12   私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。”

本日は「誓う(2)」として、聖書のいう「誓う」ということを更に見て行きましょう。
上記、「何よりもまず、誓わないようにしなさい。」とのことばから考えると、終末の日のクリスチャンにとって、「誓う」ことが大きな意味あいを占めるように思えます。

聖書の中で「誓う」ということばが使われている箇所を見て、このことばのニュアンスを確認していきたいと思います。
 

1)”マタイの福音書  5:33   さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34   しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35   地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36   あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。”

この箇所を順に見ます。

”33   さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。”

終末の日に「誓う」ことが意味を持つ日が来ます。その時、我々はどう対応すべきでしょうか。
我々の考えは、「誓ったら果たす」ということですが、しかし、主の考え、教えは異なります。

”34   しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。”

終末の日に天、すなわち、教会をさして誓うことが全てのクリスチャンに求められる日が来るのかもしれません。「この世界的な合同教会に忠誠を尽くすことを誓え」というような形かもしれません。
昨年の「同時多発テロ」という仕組まれた事件、自作自演のできごとの後、獣の国の大統領は、
世界の各国に対して、「アメリカに味方をするのか、それともテロリストに加担するのか、はっきりしろ、show the flag」などと偉そうにどう喝しました。

「ハッキリとした、証拠もないのに、宣戦布告もなく、爆弾をアフガニスタン国に雨あられと落とすのはまずい。」などとこの国に対してはっきり言える国はほとんどなく、日本を始めとする国々は、一方的に攻撃されている国へ軍隊を送ったり、後方支援したりとおべっかを使っている有り様です。
うさんくさい、裏がありそうな「同時多発テロ」ですが、アッという間に、世界中にアフガニスタン攻撃
が認められてしまいました。

これは、とても情けない状況ですが、しかし、これらの世界情勢には語りかけがあります。
同じことが、宗教の世界、キリスト教会においても起きるかもしれないからです。
獣の国アメリカのキリスト教リーダーの主導の下に今、起きつつある「世界教会統合」の運動に関しても、
同じようなパターン、扇動の下に「兄弟の合一、隣人愛」の教会に同意しない、頑固頑迷な、「カルト的クリスチャン」に対して、世界をあげた非難、批判が起きるでしょう。

しかし、聖書は「決して誓ってはいけません。」と前もって語っていることを知りましょう。
ここに天に関して、「そこは神の御座だからです」と書かれています。
教会は、神の御座だといわれているのです。聖書における天、教会の定義には、「神」が優先しており、決して、人のことが語られているのではありません。これが聖書の主張です。

ですから、どんなにたくさんの人々が集まっていても、そして、どれ程たくさんの教派が参加していたとしても「神のみこころから外れた結論」である、無原罪、被昇天のマリヤなどという冒涜的な
教義を持つ合同教会は、神の前には、教会ではないのです。そんな自称「教会」を恐れてはいけません。
これらは「神の御座」をさしおいてできた人の集まりにすぎません。

”35   地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。”

地に関しても、「そこは神の足台だからです」と神が強調されています。神ということばの反対語は、
「人」でしょうか。ですから、どれ程、大層な文章の宣言書であり、どれ程偉そうな宗教リーダー達が
集って、宣言書を発行しようとも、それが、神から本当に出た
ものでなく、人からのものなら、恐るるに足りません。

聖書の結論は、2000年の昔から明白であり、「この方(キリスト)による以外救いはない」ということです。どんなにたくさんの人が偽りの宣言書に署名し、誓おうと誓うまいと、今さら、「キリストと共同のあがない主マリヤ」などという冒涜的な教えを受け入れて背教の教会に連なるわけにはいかないでしょう。

私達はどちらかをえらばなければならないことを知りましょう。「然りは然り、否は否。それに過ぐるは悪より出るなり」と書かれているように、あいまいなどっちつかずは結局裁かれてしまいます。

教会の別なたとえであるエルサレムに関しても「そこは偉大な王の都」、すなわち、キリストに強調点がおかれていることがわかります。
「エルサレムは多数決で運営される都」とか「エルサレムは多くの教派、教会の代表者の結論を尊重する都」とは書かれていないことを知りましょう。人の結論、人の融和、隣人愛が優先するわけではないのです。「偉大な王」すなわち、キリストの教えを堅く守り、偽りの連合に連ならない人々こそ、真の都、教会を形作るのです。

ですから、私達はこれらの節で聖書が「教会」の定義に関して、はっきりと語っていることをとらえるべきです。

偽りの合同教会、エキュメニカル教会は、「こんなにたくさんの教派、教会、団体、クリスチャンが署名した、我々こそ、圧倒的多数派である、真の教会である」と主張するようになるでしょう。

数だけを見ると、信仰があると思っている人々も気持ちがなえてしまうかもしれません。
しかし、聖書はあたかも「その日」を予見したかのように「教会は人の人数、団体の数の多さ」であるとは書かず、逆に教会は、神の足代、王座、大王の都、すなわち、神に優先権があることを述べています。

すなわち、いくら小数派だろうと、カルトと呼ばれ多くの人から迫害されようとも
神の足代、王座、大王の都として、真にキリストがすまわれるところこそ、「教会」だと、
聖書は述べていることを知って下さい。

それでは、あの大合同教会、エキュメニカル教会とは何なのでしょう?あれこそ教会ではないのでしょうか。そうですね、恐らく聖書的にはこれは、教会の名には値せず、終末に起きる淫婦バビロン、背教の教会とでもいうのかもしれません。

”36   あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。”

頭とは、体なる教会の頭なるキリストのたとえかもしれません。ですから、終末の日に偽りの合同教会が恐れおおくもキリストの名前をさして、「この合同教会に忠誠を尽くすことを誓え」と各信者に命じるのかも知れません。

しかし、たとえそのように言われても「あなたの頭(キリスト)をさして誓ってもいけません。」と明確に命じられていることを知りましょう。何はともあれ、誓ってはいけないのです。

たとえ、「部屋の中が暗い方がよい」と思っていようといまいと電気のスイッチを押せば電灯は点灯して明るくなります。
スイッチを押せば電気がつくし、押さなければつかないのです。ここには、2つに一つの選択しかありません。同じようにこの「合同教会、背教の教会」に対しての我々の態度をその日、主は「誓う」ということがらを通して判断されるようです。
区分は明確であり、「この背教の教会に忠誠を誓う」者は背教者であり、誓わず主に従う者は、
忠実なしもべです。ここには何らの妥協もあいまいさもないように思われます。

ですから、終末に関連して聖書が繰り返し繰り返し、「誓う」ことがらに関して、警告を発していることを覚えて下さい。この「誓う」ということがらを通して、私達は永遠の区分に入る可能性があるのです。

2)”マタイの福音書  14:9   王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。”

別の箇所の「誓う」ということばが使用されている箇所はヘロデが「兄弟の妻」ヘロデヤの娘の
願いに応じてパプテスマのヨハネの首を与えた箇所です。
ヘロデはユダの王であり、ユダは今でいえば、プロテスタントの予表でしょうか。
この時、ヘロデは兄弟の妻、今でいえば、プロテスタントの兄弟であるカソリックの教えを予表する
女性と結婚しようとしました。

しかし、この結婚に異義をとなえる預言者、バプテスマのヨハネが現れたのです。
ヘロデは心を痛めました。同じように終末の日、プロテスタントの指導者達もこのバプテスマのヨハネで
予表される油注がれた人々をどう対処するかで心を痛めるでしょう。
しかし、彼は結局は、このカソリック、エキュメニカルな教会との「誓い」に縛られ、
この油注がれた者達を迫害、する道を選ぶようになるのでしょう。

ここに書かれている
「自分の誓いもあり」とのことばはこの終末の日の「誓い」をまさにあらわすように思えます。
「また列席の人々の手前もあって」とのことばも暗示的です。列席、すなわち、多くの人々が
出席する集いのことをいっているのです。今、多くのキリスト教各派を集め、また仏教、ヒンズー教等
多くの宗教者が集う会の中で、「偏狭な聖書に固執する人々」のことが問題となる日が来るのでしょう。

終末の日、この「誓い」が大きな意味を持つ日が来ることが案じされます。

3)”マタイの福音書  26:74  すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。”

主の弟子であるペテロが主を否定する箇所でも「誓う」ということばが使われています。
ですから、終末の日、誓いを持って、みことばなる方を「そんな人は知らない。」という
弟子があらわれるのかもしれません。

「キリストと共同のあがない主マリヤ」などという冒涜的な教会に忠誠を「誓う」ことは、「この
方による以外、救いはない」といわれた「ことばなる方」を否定することになることを覚えましょう。

4)”ヨハネの黙示録  10:6   永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。”

さて、このように天地(教会)に対して、偽り、背信の「誓い」をする人々に対してこの黙示録は語ります。ここで、「天とその中にあるもの、地とその中にあるもの」すなわち、天地について書かれているのは、「天地をさして誓うな」とのことばと関連して述べられていることが推察できます。

そして、ここで、「もはや時が延ばされることはない。」と「誓」われているのです。
この誓いとは何をさしているのでしょう。恐らく、天地をさし、偽りの誓いをなす人々、天地、すなわち、教会の神であり、大王である方を否定する人々への裁きの時は、「もはや時が延ばされることはない。」
と誓われているのでしょう。

主を恐れましょう。
確かに艱難の時は近付いていますが、しかし、主の来られる、栄光の日も近いことを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

-以上-