テキスト:”ヤコブ5:8あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
12 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。”
本日は「誓う」という題でメッセージしたいと思います。
終末の日に「誓う」ということがらが大きな意味あいを持つようになることを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ていきたいと思います。
”8あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。”
耐え忍ぶとは、終末の艱難と関連して述べられています。「主の来られる」とは勿論再臨のことです。
これらの終末の日は、主につく者にとって、艱難、また、耐えるべき日です。
”9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。”
裁きの主が近付いています。また、さらにこことでは、忍耐のことが述べられています。
”12 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。”
さて、ここで、突然、「誓う」ことが書かれています。終末に関連して、「誓う」ことが、大きな意味あいを持つようになりそうだということが想像できます。
ここだけ見ても終末の日の「誓う」ことがらが、どのような意味あいなのかはよくわかりません。
しかし、一つヒントなのか、「天地」に関して書かれています。すなわち、「天をさしても地をさしても」誓わないことが記されているのです。
天地は以前見たように、星、砂でたとえられるアブラハムの子孫であるクリスチャン、のいるところとして、教会のたとえです。
すなわち、教会に関連して「誓う」ことを求められる日が終末の日にあるのかもしれません。
「この世界統一宗教の教会に忠誠をつくすことを誓え」とか、「エキュメニカルな教会に忠実であることを誓え」というような日が。
この天地、すなわち教会に関して聖書は以下のように述べています。
”マタイの福音書 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。”
ここでは、天地すなわち、教会と律法すなわち、神のことばがすたれることとが対照的な記述で書かれています。
天や地も、あまりひょこひょこ動きそうもありませんが、しかし、しかし、真に動かないものは神のみことばなのです。
ここでわざわざ御言葉が変わりないものであることと共に天地、すなわち教会について記してあることには何か隠れた意味あいがあるのかもしれません。
すなわち、天地、教会の語ることばと聖書のみことばが食い違い、私達がどちらかを選ばねばならない、そんな時が終末に来るのかも知れないのです。
カソリックの教えによれば、聖書は他のカソリックの書物、聖伝と同じように、誤りがあるとのことです。そして、唯一間違いがないのは、法皇のことばであるということです。すなわち、この教会においては、すたれ、過ぎ去り、無効となっているのは、神のみことばの方なのです。みことばは変化し、誤りがあるが、しかし、教会、すなわち、天地は決して過ぎ去らないというわけです。
しかし、こんなねぼけた教えに従って行ってはいけません。かつてのペテロのことばに誤りがあったように今、「ペテロの正統な後継者」と自称している法皇のことばにも、いや進化論まで認めている愚かなローマ法皇のことばこそ、誤りだらけだということを知るべきです。
しかし、終末においては、このみことばをすたらせよう、過ぎ去らせようという、冒涜的な企みが支配的になり、この冒涜的なローマカソリックを中心とした世界の教会統合の働きが進んでいます。
今はもうすでにローマカソリック、プロテスタント福音派、ペンテコステ派等の合同は宣言されており、
このキリスト教各派を合同した統一教会のトップはカソリック教会であることが確定しています。
結果として、ローマ法皇はこの合同教会の長となります。
ローマカソリックの教えは、マリヤは(キリストと同じように)無原罪、昇天をした、共同のあがない主などという異端まがいのとんでもない教えです。
私達は「この方による以外救いはない」という明白な聖書のことばを曲げたり、無視したり、廃棄したり、すたれさせたりしなければ、このような教会とは、決して合同できないことを知りましょう。
このWCC等の教会統合の働きには、以下の2つの面があります。
1. 「世界を福音化する」などという、聞こえのいいスローガンを掲げているが、その実体は、
間口を広げてあらゆる宗教を受け入れようとしている。
「キリスト教以外にも救いはある(?)」などというトンデモない論理を掲げてヒンズー教、仏教等あらゆる宗教との接近、融和をめざす。結果として、黙示録に記されたあらゆる汚れた霊達の巣窟、淫婦バビロンへと向かっている。
2. そのような冒涜的な流れに同調しない「堅くみことばに立つ」クリスチャン達を、「偏狭な、隣人愛に欠けたカルト的クリスチャン」として非難、攻撃をする。これは既に起きつつあります。
この教会、背信の教会、冒涜的な教会はすでに宣言され、存在しています。これは、世の終わりが近付くにつれ、更に巨大な勢力、大きな影響を持つようになるでしょう。そして、その下で、全てのクリスチャンに対して、この素晴らしい世界的な隣人愛に満ちた世界教会に忠誠を尽くすことを「誓うか」、それとも時代遅れの聖書のことばに拘泥する
頑固なカルト信者として排斥されるか、どちらかを選ばなければならない日が来るのかもしれません。
しかし、この日を見越したかのように、聖書は前もって、「何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。」と語っていることを知りましょう。
何故か?「それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。」
裁きの主は戸口に立っており、この背信の教会に従う者達は、裁きに会うことを知りましょう。
”ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。”
これから、起きてくるこの世界的な合同教会に対する我々の態度をどうするかということは、永遠に至る決定的な区分をクリスチャンにもたらすことを知りましょう。
その場合、我々には、「はい。」は「はい。」、「いいえ。」は「いいえ。」という2つの選択肢しかあり得ないことをとらえましょう。
背教的な教会においては、「しかり」といいかつ、実際は「否」という2枚舌的な人々が現れるかもしれません。しかし、主は、我々の言う「しかり」を文字通り「しかり」ととり、また、「否」と言われたことばを「否」ととる方であることを知りましょう。
たとえ、世界のキリスト教会の論調が、「一致」「隣人愛」「全ての宗教者間の不一致を取り除く」ものであっても、また、それがどれ程、大きな運動になるとしても、唯一の方、キリストの救い、あがないを隠すような「無原罪のマリヤ、あがない主マリヤ」などという教えは聖書的なものではありません。
こんな異端的な教えを語る教会との合同は、昔から「否」であったし、今も何一つ変わっていません。
ですから、2枚舌を弄せず、この偽りの合同教会が正しいのかどうか、2つに一つの答えをしましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー