No.299ラオデキヤの教会

テキスト:”黙示録3: 14また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
15      「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
16      このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
17      あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
18      わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
19      わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
20      見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
21      勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
22      耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」”
 

本日は「ラオデキヤの教会」という題で、メッセージしたいと思います。
教会時代の7つめ、最後の教会について見ていきたいと思います。
テキストを順に見ます。

”14また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。”

ラオデキヤの教会は、教会時代最後の教会です。これはどのような教会をさしているのでしょうか。
多くの人が多くのことをこの教会について語っています。的を射たことを言っているようでもあり、そうでもないようにも見えます。

基本的に理解しなければならないことは、この教会は、未来または終末の日に現れる教会だということです。終末の時にもし、我々が位置しているなら、多くの説明がなくても、「あああの教会か」と簡単に理解できるでしょう。しかし、もし、その時代にいないなら、理解は難しいということです。

私達は、4番目の教会、テアテラがローマカソリックだと理解しています。このテアテラの記述には、確かにカソリックを思わせる記述があり、そういえば、納得させるところがあります。

また、5番目の教会、サルデスはプロテスタントの予表です。これらの2つの教会は、確かに有名であり、誰でも知っている教会です。これらは現在の教会です。
しかし、6番目の教会、フイラデルフイア、7番目の教会、ラオデキヤの全貌は、今の時点では見えていません。
これらの教会は、未来の教会、もしくは、今、起こりつつある教会ということがいえるでしょうか。

ラオデキヤということばの意味は、「民の裁き」という意味あいです。
この教会は、何かを裁く教会であることが暗示されます。何を裁くのでしょう。
何を裁くのかは、自明です。
もう一つの教会、この教会と対照的なフイラデルフイアの教会を裁き、攻撃するのです。
今、起こりつつあるカソリック、プロテスタントを合同させようとする働きの実であるエキュメニカル
な教会こそ、別名ラオデキヤ教会なのでしょうか。

このラオデキヤ教会こそ、エゼキエル書で預言されている「みこころの民」を終末の日に攻撃するゴグ、マゴグのことであり、また、別の表現では、「主につく民」との戦いに出ていく
ハルマゲドンの王達のことです。さらに、黙示録で淫婦バビロンと呼ばれる教会の主流は、
この教会です。

この教会は、主につく民をカルト、セクト、教会統一に参加しない異端などと攻撃します。これらは、いかにも納得のいくような理論づけがあるので、なるほどと思う人もいるかもしれません。
または、「自分が悪いのか」と思ってしまう、主につく人々もいるかもしれません。
しかし、これらの非難は、決して、神からのものではなく、この惑わされた教会の考え、裁き、
民の裁き(ラオデキヤ)であることを知るべきです。
彼等は人間の考えに基づいて裁いているのです。
 

"
アーメンである方、忠実で、真実な証人"
 

この教会に対して、主キリストは、「アーメン(真実)」であることを語りました。
また、「忠実」であること、「真実な証人」であることが語られています。
これを通して主が語っていることがあるでしょうか。

かつて、主は「知恵である方」に聞こうとしない、イエスの時代の人々に対して、ソロモンの知恵を聞きにやってきた、シバの女王が「この時代の人々を裁く」と語られました。
この女王は、自分が、「知恵を聞きにきた」者なので、「聞こうとしない人々」を裁く資格があるのです。

同じ意味あいで、このラオデキヤの人々は、「アーメンである方、忠実で、真実な証人」に裁かれるようになるでしょう。何故なら、彼等は、アーメン(真実)でも、忠実でも、真実な証人でもないからです。

異端まがいのローマ教会の教えをいそいそと受け入れ、迎合していく、この堕落したプロテスタント教会のどこにアーメン(真実)があるでしょうか。

異端まがいとは例えば;
-聖書のことばより、法皇や、バチカン公会議が優先する教会。
-無原罪、昇天をし、また、あがない主であるマリヤなどというキリストにとって代わろうとするトンデモないマリヤへの偶像礼拝を推進する教会。(キリストも無原罪、昇天をし、また、あがない主なのでそれに対抗しているのか?)

以上のトンデモ教理を喜々として受け入れる愚かなエキュメニカルな教会、ラオデキヤにおいては、
確かにアーメン(真理)は投げ捨てられていることを我々は知ります。

また、彼等は「忠実」でもありません。

彼等がもし「ことばなる方」に忠実であったら、あの冒涜的な試み、66巻の聖書とオカルト書のような外典とを一緒にするという「新共同訳」などという申し出を拒否したことでしょう。

しかし、この冒涜的な申し出は、プロテスタントの教会に受け入れられ、今では、続編などと
もっともらしい名前がつけられ、これらの「神のことばではないもの」は聖書の中に組み込まれています。
何も知らない、未信者は、これらをも聖書の一部として受け入れていくようです。

また彼等は「真実な証人」でもありません。

かつての日、「ことばなる方」主イエスは偽りの証人の証言の下で、十字架につけられました。
今同じように、この「ことばなる方」に多くの偽りの証言が多く出されています。
キリストは復活しなかった、奇跡は単なるおとぎ話、処女降誕もなかった、等の偽りの証言は、
この教会に溢れています。

”15      「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。”

「あなたは、冷たくもなく」といわれています。これはどのような意味あいなのでしょう。ここには隠れた意味あいがあるように思われます。
冷たいという原語は以下でも使われています。

マタイ10:42わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、(冷たい)水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。”

新改訳では、出てきませんが、KJVでは、ここに「冷たい」ということばが入り、そのことばは、上記原語と同じです。このことばは、以下のことばに続いて書かれているものです。

マタイの福音書  10:34  わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
35  なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。”

この節は、終末の日の教会間、クリスチャン間における争いに関連して書かれているものです。
ですから、上記、「弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、(冷たい)水一杯でも飲ませる」とは、主の弟子が迫害される日にその弟子を助けることをさすのでしょう。
しかし、ラオデキヤは、「あなたは、冷たくもなく」と書かれています。すなわち、この教会は、弟子の側につかない、逆に主の弟子を迫害する側につく、いやもっとはっきりいえば、終末の日の「艱難時代の迫害者」が実はこの教会なのかもしれません。

あなたは、..、熱くもない」

「熱い」と訳されたことばの原語は以下のことばと同じ語根です。

”ロマ12:11勤勉で怠らず、霊に<燃え>、主に仕えなさい。”

ですから、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。」と主がいわれた時、この教会は、
「弟子を助けることも」なく、「聖霊に燃える」こともない教会だということを言っているのかもしれません。

”17      あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”

ここで、「富む、豊かになる」ということばが使われています。また、後の節では、「金」ということばが使われています。

聖書の中で、「富む、豊かになる」,
すなわち、金持ちになるという時、聖霊のたまものと関連した面があるようです。また、金は信仰をあらわすようです。これも聖霊のたまものの一つです。

以下の「タラントのたとえ」は、聖霊のたまものと関連したたとえとして理解されています。

”マタイ25:14      天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
15      彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

28      だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
29      だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。”

確定的なことはいえませんが、とりあえずそのように、たまものと関連すると理解して、たとえを解いてみましょう。
そのように理解する時、以下のことばは何を意味しているのでしょう?

”自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”

これは、「聖霊のたまものに溢れている、恵みに満ちている、全ての霊の富に満ちている」と誤解している教会のことをいっているのではないでしょうか。
この教会は、いわゆる福音派、聖霊のたまものを認めない教派ではないと思われます。
この教会は、たとえ誤解であっても、「自分は富んでいる」と少なくとも一度は思い込んだのです。
そう思わせる現象、状況がこの教会にあったのではないでしょうか?

例えば、こんな話を聞いたことがあります。ある男の人が、ルイブイトンだかのバックを商人から、
1000円だかの超安値で買ったということです。「これは、もうけものをした。家内も喜ぶぞ」
と思って家に帰って来たということです。
しかし、残念というか、やっぱりというか、このバッグは偽ブランド品であることが後日、判明しました。

「家にもついにルイブイトンが来た。リッチになった」としばらくは、リッチな気分にひたっていたのですが、後で、そうではない、偽物だということが判明したのです。
彼の「リッチになった」という思いは根拠がないものではなく、ブランド品が手に入ったのですから、そう思うのも無理はないのですが、残念ながら、問題はそれが偽物だったということなのです。

同じ意味あいで、このラオデキヤの教会もゆえなく、根拠なく、誰も彼も「豊かになった、乏しいところは何もない」と言っているわけではないのです。そのように思う根拠があり、現象があり、
また、この教会の大部分の人がそのようにすっかり信じ込んでしまう理由があるのです。

彼らは、ミラクルクルセードだ、新しいぶどう酒の味わいだと、金粉、金歯のリバイバルで、獣のように踊り、「素晴らしい預言のたまものが与えられた」という誤解をしているのです。

ですから、このラオデキヤの教会は、いわゆる福音派、聖霊のたまものを否定している教会のことではありません。彼等は「豊かになった、乏しいところは何もない」とは言ってはいないからです。

逆にいわゆる聖霊のたまものとして、トロント、ペンサコーラ等の偽リバイバルに加担する教会のことです。しかし、彼等は誤解している者達であり、カンチガイしている者達です。
何故なら、主御自身がこれらの教会に対して、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」と言われているからです。

ここでいう「みじめ」という単語は以下と同じです。

”ロマ7:24      私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。”

ここは、パウロが罪から解放されていない自分を「みじめ」と語っています。ですから、このラオデキヤ、偽りのリバイバルに浮かれて踊り狂っている愚かな人々は、「解放された」とは名目に過ぎず、
実際は、罪に縛られている「みじめ」な人々であると他でもない主御自身が語っているのです。
事実、このリバイバルに関係している人々が、「罪からの解放はない」ことを証ししています。

また、「哀れ」という言葉は以下のことばと同じです。

”1コリ15:19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。”

ここでは、パウロが単なる希望、絵に描いたもちに過ぎない信仰、実質と関係ない希望を持つ人々は、
「すべての人の中で一番哀れな者」であると語っています。
「新しい啓示」「たまものの復活」「使徒職の回復」「後の雨」等のもっともらしいフレーズに惹かれて、その実、獣の印をその手と額に受けて踊っている愚か者は、「すべての人の中で一番哀れな者」であることを知るべきです。

「貧しくて」

彼等は、自分達は、(聖霊のたまもの、義、神の恵み)に富んでいる、豊かになったといっていますが、
しかし、他でもない主の宣言、判断は、「あなたは貧しい」ということばであることを知るべきです。
これは、神の聖霊からのものではなく、従ってこの中で、真に「富む」ことはあり得ません。
「自分はこんなに恵まれているし、感情的にも楽しい、しるしもある」というかもしれませんが、それはそれこそ、以下のように聖書が終末の日に関して預言している「しるしと不思議」であることを知るべきです。

”2テサ2:9       不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
10      また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
11      それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
12      それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。”

「盲目」

また、彼等は盲目です。決してこの偽りの霊を見抜くことがありません。
日本の昔話にタヌキやキツネに騙されて、「あーいい風呂だ」などと肥溜めにつかっている愚かな人のことをよく聞きますが、このような毒の水、糞尿のような霊を見抜くことができない彼等はまさに、
あわれな盲人です。

「裸の者」

裸の者の反対語は、「服を着ている者」でしょうか。義の衣ということばのように聖書でいう服、衣は、「義、罪」に関係します。彼等には義の衣がなく、「裸の者」です。
彼等には神の前にその罪をおおう衣がないのです。義は聖霊から来るのですが、戸を閉じ、門の外にこの方を追い出し、その代わりに「しるしと不思議を行う悪霊を」受け入れているこの教会には、決して義はありません。

18      わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。”

主は、この教会に対して、「火で精練された金をわたしから買いなさい。」といわれます。
「火で精練された金を買いなさい。」とはいわず、「火で精練された金をわたしから買いなさい。」
といわれたのです。「わたし」ということばに何か強調点があるように思えます。
だから、この教会には、「火で精練された金」らしきものは既にあるのかもしれません。しかし、
問題は、これが主から来たものではない、他の霊から来たものであるということなのです。

そして、この「わたしから」ということばは、原語で見ると、「白い衣を買いなさい」「目に塗る目薬を買いなさい」ということばにもかかっているように思えます。
すなわち、何か衣らしい物があるとしてもそれは真に主からのものではない、「自分は義となった」と思えてもそれは、キリストからのものではないというニュアンスがあります。
また、「何か霊の目が見えるようになった」「素晴らしい預言、見分けのたまものが与えられた」としても実はそれは、他の霊からのものであり、真の霊、聖霊からのものではないというニュアンスがあるように思えます。

”19      わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。”

この教会に対して、悔い改めることが勧められています。ですから、この教会の歩みに連なってはいけません。それでは、どの歩みに連なるべきでしょうか。この7つ目の教会ではなく、6番目の教会、フイラデルプィア、兄弟愛の歩みに入るべきと思われます。この教会には、苦難が予想されますが、しかし、その日、主からの恵みがあります。

20      見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

キリストが「戸の外に立ってたたく。」といわれています。ですから、この最後の教会においては、
教会の主であり、導き手である方が追い出されていることがわかります。
これは、教会時代の最後の教会であり、「背教の教会」です。また、
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら」と書かれています。
このような背教の教会に対しても主の最後の呼び掛けがあり、主の声を聞くものは、主とともに食事をする、すなわち、聖霊のぶどう酒に与り、真のパン、みことばに与ります。
 

”21      勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。”

勝利とは、戦いに附随したことばです。この教会における戦いとは何でしょう。
この教会は背信の教会であり、悪霊と偽りの教理に惑わされた教会です。その中で、
正しく主の声に聞き従う人こそ勝利者なのかもしれません。

”22      耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」”

「耳のある者」と書かれています。終末の日、主に聞く人にこそ、恵みと助けがあることを知って下さい。

終末における主のみこころを行いましょう。

-以上-