No.297 試練の時(艱難時代)

”テキスト:ヨハネの黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”

本日は「試練の時」という題でメッセージしたいと思います。
いわゆる「患難時代」について考えてみたいと思っているのです。

日本語で読む「患難時代」ということばはいかにも苦難、困難の時代という感じのニュアンスがあります。
勿論、実際の患難時代にも困難がないわけはないのですが、しかし、聖書がいうこの時を示すことばは、
若干ニュアンスが異なります。それを見ていきたいと思います。

上記テキストのフイラデルフイアの教会へのメッセージの中にこの患難時代をさすと思われることばが
記されています。

)”ヨハネの黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”
 

ここで、「試練」と訳されていることばは、「putting to proof」という訳語が使われています。
これは、「証明する、試す」の意味あいのことばです。ですから、聖書は「試練の時」との表現を用いて、いわば試験の時について語っているのだということを覚えて下さい。

学校へ通っている生徒や学生と切っても切り離せないのは、試験の時です。
普段の時は誰がよく勉強しているのか、いないのか、よくわかりません。
真面目そうなふりをしていれば、「勉強家」のように見えるかもしれません。
しかし、本当にそうかどうかは誰もわかりません。
しかし、一旦試験を受けるとその実体はすぐにばれてしまいます。
「勉強家」のように見えても試験で赤点ばかり取って落第してしまえば、「あれはカッコだけだったのか」と実体がばれてしまうのです。
こと程さように、「試験」は、学生の実体をあらわしてしまうものですが、聖書は終末には、この「試練=試験」の時が来ると語っているのです。

すなわち、私達クリスチャンの「隠れた実体」がはっきりと顕される日が来ると語っているのです。
この視点に立ち、上記「試練」と同じ原語が使われている箇所を見ていきたいと思います。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから..守ろう」

ここで、聖書は艱難時代に主に守られる人について一つの原則を語っているように思えます。
それは、「主のことばを守る者は、.守られる」という原則です。
今の時代、終末の時代は、誰も彼も理屈や理論や言い訳ばかり上手になって、主の言葉を守ろうとはしない時代であることを知って下さい。

そしてそのような時代に対する、試験の日がやってきます。そして、その日、主のことば、特に忍耐に関する言葉を守る者は、守られるのです。

「地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時」

この試練は、全世界に来ます。たとえを理解するなら、キリスト教会の総ての教派、教団に起こります。
ですから、全てのクリスチャンがこの試験を通過するようになるのです。
そして、全てのクリスチャンが試験を受けるなら、すべての人はどちらかの結果に分けられることになります。
すなわち、この試験を通過して、主からの誉れと名誉を受けるか、それともその試験の結果、
永遠の忌みに入るか。二つに一つのはっきりした結論を誰もが受けるようになるのです。
来週、学校の試験があることがわかったら、学生のとるべき正しい方策は以下のどちらでしょうか。

1. 気にするのは、不信仰なので、何もせず、寝てくらす。
2. 試験に備える。

正しいのは、どう考えても備えることでしょう。同じ意味あいで、神が「試練=試験」の時が
来ると語られた時、そのことばを真摯にとらえ、その時への備えをなす人々は幸いです。
 
 

「忍耐」

忍耐ということばがここで使われている以上、この期間は、主に真につく人々にとっては、
楽しい時とは限らないことが予想されます。

さて、次の「試練」に相当する原語が使われている箇所を見ましょう。
 

2)マタイの福音書 6:13 私たちを<試み>に会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕”

「試みにあわせず」とは、「試練に導かない」というニュアンスがあるようです。
そして、この「試練に導かない」ための祈りが我々にとって特別な祈り、主の祈りに含まれていることは暗示的です。

主の祈りといえば、CSの子供でも覚えられるものではありますが、しかし、わざわざ、この祈りを主が教え、そして、その中に「試みに会わせない」ことに関する祈りが含まれていることは暗示的です。
明らかに主は、終末の日の試みから、免れるため、「祈る」ことを我々に語っておられるように思えます。
素直にこのため、「試練に導かない」ことのために心を込めて祈る人々は、その試みから免れるでしょう。
 
 
 

3)”マタイの福音書 26:41 <誘惑>に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

ここでは、同じ原語が「誘惑」という日本語に訳されています。
ここでも「目をさまして、祈っていなさい」というように、祈りについて語っていることを覚えましょう。
終末の日、この試験、試練の中で倒されていかない、残る人々の特長は、やはり「祈り」にあるのでしょう。ですから、今、祈ることを訓練する人々には、みこころがあることを知りましょう。
 
 

3)”ルカの福音書 8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、<試練>のときになると、身を引いてしまうのです。”

艱難時代に惑わされていくその人の特長は、みことばにつかない人々でしょうか。
彼等はみことばを受け入れないわけではなく、「聞いたときには喜んでみことばを受け入れる」のですが、しかし根がなく、「試練のときになると、身を引いてしまう(退却)」のです。
ですから、艱難時代とは、「喜んでみことばを受け入れ」た人さえ、ふるわれる時なのでしょう。
いかに私達が、みことばを「行う」ことが大事なことでしょう。
 
 

4)”ルカの福音書 22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

終末の黙示録に記されている3年半の艱難時代の型は他でもない「主イエスの3年半」の宣教の時代です。
黙示録を表面的にしか読めない人々にとっては、この2つの時が同じ期間とはとても思えないかもしれませんが、しかし、もし主が目を開いて下さるなら、そのことを見るようになるでしょう。
黙示録には、7つの燭台やら、666の獣やら、蛇やらが出現して何だか主イエスの時代と違うように見えるかもしれませんが、これらのたとえを主によって見るなら、この二つの時代は似ていることを知るでしょう。

さて、主イエスの時代、多くの群集が一時は、熱狂的に主を受け入れながら、しかし、後には、彼を否定し、離れていきました。彼等は終末の艱難、試練の中で、主から離れる人々の型です。
終末の日、彼等のような道を歩んではいけません。
しかし、これらの試練、律法学者、パリサイ人を始めとする迫害の中でも、主が「あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」と言われた人々がいます。
彼等こそ、終末の艱難時代の試練、テストの時を経ても、惑わされず、忠実に歩んだ人々の型です。彼等にこそ、みこころがあります。

彼等は誰か?彼等こそ、主の弟子であり、終末の時代も主のしもべ、弟子としての歩み、みことばを行う人々にみこころがあることを知りましょう。

29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。”

このことばは、以下の勝利者へのことばと似ています。

”黙示録2:26勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
27彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。”

ですから、12弟子に代表される主の弟子の歩み、勝利者の歩みにこそ、終末の艱難、試練を通ってなお、主からの誉れを受ける秘けつがあることを知りましょう。
 
 
 

”5)使徒20:19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の<試練>の中で、主に仕えました。”

さて、同じ「試練」という原語がここでも使用されています。
かつての時代、主イエスも使途パウロも艱難、試練を受けました。その理由は勿論、悪魔が働いていたからですが、しかし、また、悪魔に用いられた人々、ユダヤ人がいたからでもあります。
ここでパウロが「ユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の<試練>」と言ったことは、終末に関して非常に預言的、暗示的なことばです。

何故なら、終末の日の艱難、試練も彼等によりもたらされる可能性が強いからです。プロテスタントの祖、マルチンルターは、「ユダヤ人と彼等の嘘」という本で、彼等の嘘、クリスチャンへの悪意、迫害について語っています。また、ジョンコールマン「300人委員会」KKベストセラーズ等の
研究者は、歴史上の大きなクリスチャンへの迫害は、皆、陰で働くユタヤ人によるものであることを指摘しています。フランス革命の虐殺、ロシア共産主義革命後のこの国のクリスチャンへの迫害を画策したのも共産主義政権スタッフの90%を占めるユダヤ人であることが指摘されています。

「ユダヤ人が陰謀を企てている」などというと現代の時代では、「反ユタヤだ」「偏見だ」ということになってしまうようですが、しかし、我々の指針は唯一、聖書のことばであることを思い起こしましょう。
聖書の中には、「ギリシャ人の陰謀」また、「ローマ人の陰謀」ということばは出てきませんが、しかし、「ユダヤ人の陰謀」ということば複数出てきます。
確かに彼らが「陰謀」また、「迫害」と関係あることが分かるのです。また、たとえば、黙示録の7つの教会の記事には、2度にわたって、「ユダヤ人であると嘘をいっている人々」について語っています。
彼等が教会の歩みを妨害していることがわかるのです。
 

6)”ヘブル人への手紙 3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くなら 8 荒野での<試み>の日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。”

さて、上記ことばでは、同じ原語が「試み」として訳されています。
終末の日には、かつての出エジプトした民が荒野で試みられたように主の民が「試み」られることについて語っているのです。 

このことについては以下のように書かれています。 

”1コリント10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。”

上記11節の「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とのことばのように出エジプトした荒野の民の
「試み」とは、他でもない終末の日に艱難時代を経過する神の民への教訓として書かれたことを知りましょう。

その教訓とは、同じように神の恵みを受けながら、

2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。”

しかし、滅ばされてしまった人々がいたということです。

5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。”

聖書は明らかに終末の日にも同じように、多くの人々が滅ぼされることを述べています。
主を恐れましょう。私達は自分の命をすくわなければなりません。「誰も滅びない」「その前に挙げられる」などというたわごとや空想話に惑わされて命を失ってはいけないのです。
 

7)ペテロの手紙第一 4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の<試練>を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
5 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。
16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。”
 

この箇所では同じ原語が「試練」と訳されています。そしてこの試練は、「キリストの苦しみにあずか」ることだと書いてあります。
ですから、終末の日に主につく人々は、かつて主の弟子であるペテロ、ヨハネが主の為に苦しみにあったのと同じような日が来るのでしょう。

クリスチャンと名がつく全ての人が艱難を受けるわけでは決してありません。たとえば、今、流行している「聖霊の第3の波」とか称する獣のリバイバルを「神の働きだ」とか、
追従したり、また、カソリックと迎合するエキュメニカル運動に同調すれば、「兄弟愛がある」だとか、
ほめられるのでしょうが、主のことばに従い、これらを告発する人々は苦しみに合うかもしれません。

14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」

興味深いことは、「キリストの名のための非難」と、「栄光の御霊がとどまる」こととが、関連して
書かれていることです。

ですから、逆に「人から非難されず、ますます多くの人から受け入れられていく聖霊の第3の波」とは、
「栄光の御霊がとどまらない、惡霊からのもの」であることがいえるでしょう。

聖霊の第3の波は、エキュメニカル運動、すなわち、カソリックとの一致をめざしており、これらは、
ますますこの世についたクリスチャンに受け入れられていきます。

「15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」

終末の日には、「人殺し」、すなわち、自分の兄弟であるクリスチャンを「異端」よばわりし、憎み、非難する人々が現れるでしょう。また、「盗人」すなわち、「神のことばを盗む」人々があらわれるでしょう。また、「あなたは異端だ」とか、「みだりに他人に干渉する者」もいるでしょう。
しかし、このようなことがらに連なることによる苦しみは、すなわち罪の結果としての苦しみなのです。
みこころはありません。

16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」

しかし、これらの苦しみとは別に「キリスト者として」すなわち、キリストの名のために苦しみを受けることがあります。これはすなわち、艱難時代の聖徒の苦難であり、このことを聖書はかねてから預言していたのです。このことは、人から、この世についたクリスチャンからは、非難されますが、しかし、神のことばは、「恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」と書いていることを覚えましょう。
 
 
 
 
 
 

8)”2ペテロ2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
9 これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを<誘惑>から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。”

この箇所では、同じ原語が「誘惑」と訳されています。

”6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。”

この日、終末の日は、ソドム、ゴモラが滅ぼされた日の再来です。黙示録にソドム、エジプトと呼ばれる都が記されているように、このソドム、ゴモラの裁きは、神よりもこの世を選ぶ、「好色な」都、教会への裁きの日です。神の民、クリスチャンへの裁きがありますが、また、ロトにより象徴される、義人が助け出される日でもあります。

8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。”

義人ロトも滅ぼされるべきソドム、ゴモラの住民も同じところに住んでいました。しかし、両者の結末は異なります。同じように、同じ教会に属するクリスチャンの間にも終末の日に区分があるでしょう。
その終末の日、神の民の間で行われる「不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていた」人々は助けだされるでしょう。しかし、これらの不法に加担、同調する人々には、危ないのでしょう。

今はその時でしょうか。あらゆる不法が神の民の間にもまん延しています。
「兄弟を憎むな、憎む者は人殺しである」と律法には書かれているのに、平気で兄弟を罵倒する人々がいます。また、「父母を敬え」と律法に書かれているのに、平気で、牧師を非難、攻撃する人々もいます。

9 これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを<誘惑>から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。”

ロトは罪の誘惑のある町(教会)に住み、なおかつ、これらの罪に加担せず、結果として、
町の滅びから、助け出された人の型です。この日、ロトがみ使いに助け出されたように、敬けんな人々は
不思議な方法で滅びを悟り、それらの誘惑から守られるでしょう。

しかし、「不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられる」と書かれているように、神のことばを行わず、不法を行う人々は、盲目となり、見ることがないでしょう。
ロトの時、彼の家に押し入ろうとした町の人々が、皆、盲目となってしまったことは、象徴的です。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー