NO.296  エジプトへの裁き(2)

テキスト:”エゼキエル30:1 次のような主のことばが私にあった。
2 「人の子よ。預言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああ、その日よ。
3 その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。
4 剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ、その富は奪われ、その基がくつがえされるとき、クシュには苦痛が起きる。
5 クシュ、プテ(弓)、ルデ(
戦い)、アラビヤ全体(混血)、クブ、彼らの同盟国(契約)の人々も、彼らとともに剣に倒れる。
6 主はこう仰せられる。エジプトをささえる者は倒れ、その力強い誇りは見下げられ、ミグドル(塔)からセネベ(
彼女のおおい)に至るまでみな剣に倒れる。「「神である主の御告げ。「「
7 エジプトは荒れ果てた国々の間で荒れ果て、その町々も、廃墟となった町々の間にあって荒れ果てる。
8 わたしがエジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな滅ぼされるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
9 その日、わたしのもとから使者たちが船で送り出され、安心しているクシュ人をおののかせる。エジプトの日に、彼らの間に苦痛が起きる。今、その日が来ている。
10 神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルによって、エジプトの富を取り除く。
11 彼と、彼の民、すなわち、最も横暴な異邦の民がその地を滅ぼすために遣わされる。彼らは剣を抜いてエジプトを攻め、その地を刺し殺された者で満たす。
12 わたしはナイル川を干上がった地とし、その国を悪人どもの手に売り、他国人の手によって、その国とそこにあるすべての物を荒れ果てさせる。主であるわたしがこれを語る。
13 神である主はこう仰せられる。わたしは偶像を打ちこわし、ノフから偽りの神々を取り除く。エジプトの国には、もう君主が立たなくなる。わたしはエジプトの地に恐怖を与える。
14 わたしはパテロス(南の地)を荒らし、ツォアン(出発の地)に火をつけ、ノ(
分裂)にさばきを下す。
15 わたしはエジプトのとりでシンにわたしの憤りを注ぎ、ノの群集を断ち滅ぼす。
16 わたしはエジプトに火をつける。シン(
刺もしくは粘土)は大いに苦しみ、ノは砕かれ、ノフは昼間、敵に襲われる。
17 オン(虚栄)とピ・ベセテ(
嫌な口)の若い男たちは剣に倒れ、女たちはとりことなって行く。
18 わたしがエジプトのくびきを砕き、その力強い誇りが絶やされるとき、タフパヌヘス(あなたの手を悲しみで満たす)では日は暗くなり、雲がそこをおおい、その娘たちはとりことなって行く。
19 わたしがエジプトにさばきを下すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
20 第十一年の第一の月の七日、私に次のような主のことばがあった。
21 「人の子よ。わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。
22 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエジプトの王パロに立ち向かい、強いが砕かれている彼の腕を砕き、その手から剣を落とさせる。
23 わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。
24 しかし、わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしの剣を彼の手に渡し、パロの腕を砕く。彼は刺された者がうめくようにバビロンの王の前でうめく。
25 わたしはバビロンの王の腕を強くし、パロの腕を垂れさせる。このとき、わたしがバビロンの王の手にわたしの剣を渡し、彼がそれをエジプトの地に差し向けると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
26 わたしがエジプト人を諸国の民の中に散らし、彼らを国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」”

本日は「 エジプトへの裁き(2)」として、この世についた教会への裁きに関して更に見ていきたいと思います。
順に見ます。
 

”1 次のような主のことばが私にあった。
2 「人の子よ。預言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああ、その日よ。
3 その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。”

ここで、主の日について記されています。主の日とは、この世の終わりの裁きの日であり、ただ一つの日です。ですから、ここで記されているのは、旧約時代のできごと、もう終了したことというより、未来の終末に関することがらであることがわかります。そうです、これらは私たちと関係があるかもしれないのでなく、関係が大いにあり、これらはまさに終末に臨もうとしている私たちの為に書かれた預言なのです。

この日は、「諸国の民の終わりの時」なのです。この警告を真剣に捉えて下さい。すなわち、私たちが「諸国の民」と呼ばれ、逆に、神のみこころの中心である「イスラエル」と今、呼ばれていないなら、その裁きを免れないと聖書は語っているのです。諸国の民の名前は、色々あります。エジプト、バビロン、エドム、アモン、モアブ等です。彼らは皆、みこころの中心からずれており、イスラエルの地から遠く離れています。彼らは神の定めからずれた者達であり、裁きの対象です。まさに「命に至る門は狭く、その道は狭い」のです。

”4 剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ、その富は奪われ、その基がくつがえされるとき、クシュ(
黒)には苦痛が起きる。
5 クシュ、プテ(弓)、ルデ(
戦い)、アラビヤ全体(混血)、クブ、彼らの同盟国(契約)の人々も、彼らとともに剣に倒れる。
6 主はこう仰せられる。エジプトをささえる者は倒れ、その力強い誇りは見下げられ、ミグドル(塔)からセネベ(
彼女のおおい)に至るまでみな剣に倒れる。「「神である主の御告げ。「「

終末の日々において、エジプト、この世についた教会は攻撃され、「剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ」ます。剣は、「御霊の剣、すなわち神のことば」と関係する言葉であり、偽りの教理をさすのでしょうか。彼らは、「復活も奇跡も実際に起きなかった」「仏教徒も救われる」などという偽りの教理、剣に倒されていきます。彼らは自分では、自分達を「文献学を修めた、立派な教養あるクリスチャン」と誤解しているのでしょうが、聖書はこのような愚か者達をエゼキエルの昔から、「剣に刺された」敗残者であると呼んでいることを知るべきです。その時、クシュ(
黒)、すなわち、罪に染まって黒い人々には「苦痛が起き」ます。この世についた教会においては、戦いについている兵士と思われている人々、すなわち、「プテ(弓)、ルデ(
戦い)」、今でいう伝道師といった人々も剣、すなわち、偽りの教理に倒されます。
また、混血、すなわち、純粋なイスラエルの民に属さない人々、他国民との混血の人々も剣に倒されます。
また、「ミグドル(塔)からセネベ(
彼女のおおい)」すなわち、ベールがはがされていない、啓示が開かれていない人々も偽りの教理に倒されます。

”7 エジプトは荒れ果てた国々の間で荒れ果て、その町々も、廃墟となった町々の間にあって荒れ果てる。
8 わたしがエジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな滅ぼされるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。”

「エジプトに火をつけ」というように、この世についた教会が、火、偽りのリバイバルで倒されていきます。今、ペンサコーラ等のリバイバルはCounterfeit  revival、すなわち、偽りのリバイバルであると一部の人々にいわれています。このリバイバルの中に悪霊による「しるしと不思議がある」と、アメリカ等では、目の開けた人々は指摘していますが、この世についたエジプトの民はそれに巻き込まれていきます。

”9 その日、わたしのもとから使者たちが船で送り出され、安心しているクシュ人をおののかせる。エジプトの日に、彼らの間に苦痛が起きる。今、その日が来ている。”

「わたしのもとから使者たちが船で送り出され」と書かれています。それで、終末の日の偽り、惑わしはある意味、神から来たものであることがわかります。

それが神から来たものであるなら、誰がこの惑わし、偽りから免れることができるでしょう。
ですから、終末の偽り、惑わしは、今迄のキリスト教会の歴史の中で起きてきたものと比べて、レベルが違うものであることがわかります。
もし、これらの偽りが、神から来たものなら誰がこれを逃れることができるでしょう。
ですから、私たちはただ、神のあわれみにより、これらの偽りから逃れることができるのだということを知りましょう。

”10 神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルによって、エジプトの富を取り除く。
11 彼と、彼の民、すなわち、最も横暴な異邦の民がその地を滅ぼすために遣わされる。彼らは剣を抜いてエジプトを攻め、その地を刺し殺された者で満たす。”

ここで、バビロン、異邦の民がエジプト、この世についた神の民を襲うことが書かれています。ここで、終末の日の裁きと関連して、
「バビロン」、「異邦の民=未信者」という2つのキーワードで表される、特定の民について述べているのです。私たちはこの民がどのような民族であるかを知っています。バビロニアタルムード由来の
神学でキリスト教会の教理を変遷させている、クリスチャンの顔をした、実際はそうでない(異邦人)民族について語られているのでしょう。

”12 わたしはナイル川を干上がった地とし、その国を悪人どもの手に売り、他国人の手によって、その国とそこにあるすべての物を荒れ果てさせる。主であるわたしがこれを語る。
13 神である主はこう仰せられる。わたしは偶像を打ちこわし、ノフから偽りの神々を取り除く。エジプトの国には、もう君主が立たなくなる。わたしはエジプトの地に恐怖を与える。”

「わたしはナイル川を干上がった地とし」と書かれているように、ナイル川、聖霊の働きは、このエジプト化した教会において、枯渇します。

今、日本でも多くの教会、クリスチャンが「聖霊の働きがない、恵みが無い」と嘆いています。
彼らは、何かもっと良い方法はないか、恵まれた説教はないかと、ますますこの世の方法を追い求めています。しかし、彼らは知るべきではないでしょうか。彼らの川が枯れ、聖霊の働きが消えたのは、彼らがまさにエジプト人、この世の方法を追い求めたからであることを。彼らは、この世の方法を捨て、役にも立たない偶像、働き人のたわごとを捨て、この方に帰るべきなのです。そのとき、聖霊の川はながれ始めるはずです。

”14 わたしはパテロスを荒らし、ツォアン(出発の地)に火をつけ、ノ(
分裂)にさばきを下す。
15 わたしはエジプトのとりでシンにわたしの憤りを注ぎ、ノの群集を断ち滅ぼす。
16 わたしはエジプトに火をつける。シン(刺もしくは粘土)は大いに苦しみ、ノは砕かれ、ノフは昼間、敵に襲われる。
17 オン(虚栄)とピ・ベセテ(
嫌な口)の若い男たちは剣に倒れ、女たちはとりことなって行く。”

エジプト、この世についた教会には、ノ(分裂)があります。聖霊による一致はないのです。また、シン
(刺)があります。痛みや、傷がつくのです。彼らは、オン(虚栄)に生きる者であり、神の前の真実に生きていません。彼らは神の前に忌み嫌うべきことばを語るピ・ベセテ
(嫌な口)です。この世についた人々のことばは神の前に嫌われていることを知るべきです。

18 わたしがエジプトのくびきを砕き、その力強い誇りが絶やされるとき、タフパヌヘス(あなたの手を悲しみで満たす)では日は暗くなり、雲がそこをおおい、その娘たちはとりことなって行く。
19 わたしがエジプトにさばきを下すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」”

「その力強い誇りが絶やされるとき」と書かれているように、今、教会で大いに用いられている「この世の方法、知識、教訓」は、神の前に意味のない物となることを覚えて下さい。このことを聖書は以前から語っているのですが、それを見い出す人々はまれです。これらの空しい方法を去り、「この方」を神とする人々にこそ栄光が現れます。この世の方法で、牧会、クリスチャンの歩みを志す人々は、タフパヌヘス(あなたの手を悲しみで満たす)となっていきます。また、とりことなり、真の罪からの解放を得ません。

”21 「人の子よ。わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。
22 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエジプトの王パロに立ち向かい、強いが砕かれている彼の腕を砕き、その手から剣を落とさせる。
23 わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。”

この時、エジプトの王パロの腕は砕かれ、彼の手から、剣が落ちました。同じように、終末の日にこの世についた教会において、剣、教理、教えは落ちていき、崩されていきます。 彼らはこの世の進化論等に目を移し、「そうか、創世記は神話なのか」などと、愚かな結論に至ります。このような人々を指して、聖書は、以前から、「腕は砕かれ、彼の手から、剣が落ち」ると預言しているのです。

24 しかし、わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしの剣を彼の手に渡し、パロの腕を砕く。彼は刺された者がうめくようにバビロンの王の前でうめく。
25 わたしはバビロンの王の腕を強くし、パロの腕を垂れさせる。このとき、わたしがバビロンの王の手にわたしの剣を渡し、彼がそれをエジプトの地に差し向けると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。”      
この日、終末の日に、主は「バビロンの王の手にわたしの剣を渡し」ます。ですから、この日、教会の教理はバビロン化されることが聖書に預言されているのです。具体的には、教会の教理、神学がバビロニアタルムードの影響を受けていくことをさすと思われます。これは、別のことばでいえば、「キリスト教のユダヤ教化」であり、今現に大規模に進行していることがらです。
 
 

”26 わたしがエジプト人を諸国の民の中に散らし、彼らを国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。”

エジプト人、この世についたクリスチャンは「諸国の民の中に散ら」されます。バビロン、エドム、アモン、ソドム等の人々の地へ行くのです。彼らは決して中心の民、イスラエルとは呼ばれません。
ただ、諸国の民と呼ばれます。彼らは今でいえば、あらゆる種類の惑わしに入ったクリスチャンのことです。近代神学に毒された人々、ものみの塔、モルモン教等の偽りにだまされた人々等でしょうか。
この世につく人々はあらゆる種類の惑わし、偽りに入っていくことを知るべきです。
しかし、私達にあっては、この世についた時代にあっても正しく主の民として留まりたいと思います。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

-
ー以上ー