No.295 エジプトの裁き

テキスト:”エゼキエル29:1 第十年の第十の月の十二日に、私に次のような主のことばがあった。
2 「人の子よ。顔をエジプトの王パロに向け、彼およびエジプト全体に預言し、
3 こう語って言え。神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。
4 わたしはあなたのあごに鉤をかけ、あなたの川の魚をあなたのうろこにつけ、あなたと、あなたのうろこについている川のすべての魚とを川の中から引き上げる。
5 あなたとあなたの川のすべての魚とを荒野に投げ捨てる。あなたは野原に倒れ、集められず、葬られることもない。わたしがあなたを地の獣と空の鳥のえじきとするとき、
6 エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。
7 彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた。
8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは剣を送ってあなたを攻め、人も獣も、あなたのうちから断ち滅ぼす。
9 エジプトの地は荒れ果てて廃墟となる。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。それは彼が、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言ったからだ。
10 それゆえ、わたしは、あなたにもあなたの川にも立ち向かい、エジプトの地を、ミグドルからセベネ、さらにクシュの国境に至るまで、荒れ果てさせて廃墟にする。
11 人の足もそこを通らず、獣の足もそこを通らず、四十年の間だれも住まなくなる。
12 わたしはエジプトの地を、荒れ果てた国々の間で荒れ果てさせ、その町々も四十年の間、廃墟となった町々の間で荒れ果てる。わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。
13 まことに、神である主はこう仰せられる。四十年の終わりになって、わたしはエジプト人を、散らされていた国々の民の中から集め、
14 エジプトの捕われ人を帰らせる。彼らをその出身地、パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足りない王国となる。
15 どの王国にも劣り、二度と諸国の民の上にぬきんでることはない。彼らが諸国の民を支配しないように、わたしは彼らを小さくする。
16 イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる。このとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。」
17 第二十七年の第一の月の一日に、私に次のような主のことばがあった。
18 「人の子よ。バビロンの王ネブカデレザルはツロ攻撃に自分の軍隊を大いに働かせた。それで、みなの頭ははげ、みなの肩はすりむけた。それなのに、彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった。
19 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルにエジプトの地を与えよう。彼はその富を取り上げ、物を分捕り、獲物をかすめ奪う。それが彼の軍隊への報いとなる。
20 彼が働いた報酬として、わたしは彼にエジプトの地を与える。彼らがわたしのために働いたからだ。「「神である主の御告げ。「「
21 その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせ、彼らの間であなたに口を開かせる。このとき彼らは、わたしが主であることを知ろう。」”

本日は「エジプトの裁き」という題でメッセージしたいと思います。

旧約聖書、たとえば、エゼキエル書には、エジプトへの裁きについて記してあります。
これは、文字どおりアフリカの北にあるエジプト国への裁きともとれますが、しかし、もう一面、たとえの面があることを知るべきです。
エジプトはこの世のたとえのようであり、エジプト人とは、この世についた神の民の予表のように見えます。とするなら、これらのエジプトへの裁きを記した聖書箇所は、そのまま、終末の日のこの世につく神の民への裁きと思われます。この視点にそって、記述を見ていきたいと思います。
テキストを順に見ます。

1 第十年の第十の月の十二日に、私に次のような主のことばがあった。
2 「人の子よ。顔をエジプトの王パロに向け、彼およびエジプト全体に預言し、
3 こう語って言え。神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。”

川は「私を信じる者は、その腹から活ける水が川となって流れる」と記されているように、
聖霊のたとえです。わにや魚は川の水がなければ、生きていけないように、この川、聖霊の働きこそが、
クリスチャンを生かしてきたものなのです。

”4 わたしはあなたのあごに鉤をかけ、あなたの川の魚をあなたのうろこにつけ、あなたと、あなたのうろこについている川のすべての魚とを川の中から引き上げる。”

しかし、この終末の日、わにもそれに附随する魚もこの川から、引き上げられてしまいます。
すなわち、このエジプト化、この世についた教会から、聖霊が消えていってしまうのです。魚は、
「人間を捕る漁師に」との言葉のように、クリスチャンのたとえです。

5 あなたとあなたの川のすべての魚とを荒野に投げ捨てる。あなたは野原に倒れ、集められず、葬られることもない。わたしがあなたを地の獣と空の鳥のえじきとするとき、”

彼らは川、聖霊の中から、引き上げられ、水のない荒野に投げ捨てられます。
そして、「地の獣」のえじきになります。獣とは、人間ではないものです。
聖書は、エデンの園の記述で、「息が入った時」始めて、人となることを述べています。
逆に息、聖霊を受けていない者は人ではなく、獣に過ぎないことを述べています。
ですから、ここでいう「獣」とは、御霊のない、救われていない人々のことかもしれません。
 

今、教会の神学は、「キリストの復活はなかった」等の、クリスチャンが考えたとは思えない教えが溢れています。こんな教えに疑いを持たない神学者は、聖霊を持っているとは思えません。
逆に御霊のない「獣」に過ぎないのかもしれません。このように、確かに「獣」が教会の中に入り込んでいます。そして、この世についたエジプト化した人々はこのような「獣」神学者の教えに惑わされていきます。

空の鳥は、霊のたとえと思われます。「聖霊が鳩のようにとまった」と書かれているように
聖霊は鳥にたとえられます。同じように、悪霊も鳥にたとえられます。

雀でも烏でも鳥は軽々と木にとまりますが、同じように霊もすっと人に働き、影響を与えます。
確かに霊には、鳥にたとえられる性格があります。この日、エジプト、この世についた教会は、
悪霊のえじきとなります。あらゆる悪霊のまどわしがこの教会に起きるでしょう。

6 エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。
7 彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた。”

杖は人の歩みを助けるものとして、教師のたとえでしょうか。ここで、エジプトの杖は、葦の杖であるといわれています。葦の杖は樫の木の杖などと比べると、もろく頼りにならない物です。
ですから、この世の教理、学問、方法、手段等は生ける神の教会において、何の役にもたたないと
聖書は語っていることを理解して下さい。

私は日本のキリスト教会に長くいますが、今迄色々なブームが日本の教会にあったことを知っています。
xx伝道、xx大会等々です。どれが何ということはいいませんが、しかし、どれ程、強力に押し進めたとしても、それが、エジプト、すなわち、この世の方法に由来したものである時、真の実は結ばないことを知って下さい。かえって、これらに頼る時、恥を受けます。「あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。」と書かれた通りです。

”8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは剣を送ってあなたを攻め、人も獣も、あなたのうちから断ち滅ぼす。
9 エジプトの地は荒れ果てて廃墟となる。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。それは彼が、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言ったからだ。”

そして、エジプト、この世化した教会は、剣、偽りの教理、神学で倒されていきます。

”10 それゆえ、わたしは、あなたにもあなたの川にも立ち向かい、エジプトの地を、ミグドルからセベネ、(彼女のベールの塔)
さらにクシュ(黒)の国境に至るまで、荒れ果てさせて廃墟にする。”

エジプト、この世についた教会は、セベネ、(彼女のベール)すなわち、啓示が開かれておらず、
また、クシュ(黒)すなわち、罪で黒いのです。そして、それゆえに彼らは荒廃するのです。
 

”11 人の足もそこを通らず、獣の足もそこを通らず、四十年の間だれも住まなくなる。
12 わたしはエジプトの地を、荒れ果てた国々の間で荒れ果てさせ、その町々も四十年の間、廃墟となった町々の間で荒れ果てる。わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。”

彼らは「諸国の民の中に散らし、国々に追い散ら」されます。決して、神のみこころの中心の民、イスラエル、ユダにはなりません。彼らはこの世につくゆえ、それゆえ諸国の民、すなわち、あらゆる種類の道を間違えた、ずれた教会の歩みに入っていきます。ある人々は、仏教だか、ヒンズー教にさえ、
教えを請うようになります。彼らは諸国の民であり、イスラエル、神の国籍の民からは、遠い国籍の者達です。「荒れ果てた国々の間」とは象徴的な表現であり、このように、遠く離された彼らの教会には、
平安もいやしもなく、ただただ、霊的に荒れ果てた教会になります。

13 まことに、神である主はこう仰せられる。四十年の終わりになって、わたしはエジプト人を、散らされていた国々の民の中から集め、
14 エジプトの捕われ人を帰らせる。彼らをその出身地、パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足りない王国となる。
15 どの王国にも劣り、二度と諸国の民の上にぬきんでることはない。彼らが諸国の民を支配しないように、わたしは彼らを小さくする。”

さて、このようなエジプトの民、この世についた神の民が戻ってくる日、「エジプトの捕われ人を帰らせる」日がきます。彼らは「その出身地パテロス(南の地)」に帰ります。
南の地とは、神の国イスラエルの中では、南の国、ユダをさします。
彼らは主のみこころの地です。

ですから、彼らはその日、あるべき地に帰って来るのです。この日は、福音書の中で、世の終わりに主が御使いを遣わして「四方から選びの民を集める」といわれている日です。
ですから、全てのエジプト人、この世についた神の民が盲目なままでいるわけではなく、その中の
みこころの人々は帰って来る、回復されることがわかります。しかし、その数は多くありません。
"
16 イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる。このとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。」"

この日、イスラエルの家、すなわち主のみこころの中心を歩む民は、もう「これを頼みとしなく」なります。エジプト、この世の方法を用いなくなるのです。彼らは主こそ、真の助けであることを知るのです。
 

”17 第二十七年の第一の月の一日に、私に次のような主のことばがあった。
18 「人の子よ。バビロンの王ネブカデレザルはツロ攻撃に自分の軍隊を大いに働かせた。それで、みなの頭ははげ、みなの肩はすりむけた。それなのに、彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった。
19 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルにエジプトの地を与えよう。彼はその富を取り上げ、物を分捕り、獲物をかすめ奪う。それが彼の軍隊への報いとなる。
20 彼が働いた報酬として、わたしは彼にエジプトの地を与える。彼らがわたしのために働いたからだ。「「神である主の御告げ。「「
21 その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせ、彼らの間であなたに口を開かせる。このとき彼らは、わたしが主であることを知ろう。」”
 

終末の日に、エジプト、すなわちこの世についた教会をバビロンの王が襲います。
このことは今の教会で起きていることです。「キリスト教のユダヤ化」ということばがありますが、
確かにバビロニアタルムードゆかりの神学は、この世についた教会を席巻しており、また、バビロンゆかりのカバラの霊は聖霊の第三の波と称する集会に溢れており、錬金術よろしく、金扮をまきちらしています。これらはバビロンゆかりの災いであり、この世につく教会は、預言どおり、「バビロンの王」に占領されているのです。

今迄見てきたように聖書は明らかにエジプト、この世についた教会、信者への裁きを語っています。
今は教会とこの世に区分がなく、テレビ、映画、雑誌、書物等を通してあらゆる形でこの世が浸透している時代ですが、しかし、聖書は一貫して「これらの汚れから分離する」ことを述べていることを知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

-以上-