No.288 一杯の食物

テキスト:ヘブル12:
16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのよう
な俗悪な者がないようにしなさい。
17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙
を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。”
 

本日は、「一杯の食物」として、終末における「エドム」に関して見ていきたいと思います。

上記テキストには、「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウ」に関し
て書かれています。

彼は終末の日に、「神の子」、神の最初の子、長子でありながら、その特権を奪われていくクリスチャ
ンの予表です。

さて、この兄エサウは何故彼のものだった祝福を奪われてしまうのでしょうか。その理由として
聖書は、「一杯の食物と引き替えに」と記述しています。このことばの理由を考えてみましょう。
このできごとは以下の創世記の記述にあります。
 

創世記25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え
疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼
の長子の権利をヤコブに売った。
34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去っ
た。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。”

ここを見ていきたいと思います。

29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。”

この長子エサウがその弟ヤコブに長男の権利、祝福を奪われるできごとが煮物、すなわち一杯の食物と
ともに記述されていることは、象徴的です。

”30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢
え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。”

一杯の食物で長子の特権を売ったエサウはエドム(赤)と呼ばれました。それで、神の与えた「長子の
特権を売る」愚かな物は、「赤」のキーワードで示されることがわかります。

興味深いことは、この「赤」のキーワードが黙示録にも出てくることです。
他でも無いサルデス(赤いものの意味)の教会です。何故なら、終末の日のエドム、(赤の意味)であ

サルデス(赤いものの意味)もまた一杯の食物、すなわち彼らの霊の食物である、礼拝の説教、パンを
食べる中で長子の特権を失っていくようになるからです。サルデスは多くの聖書解説者がいうように、
プロテスタントの予表と思われます。

"
31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。”

たった一杯の食物で「長子の権利」を買おうとは何ともヤコブとは、ずるい人のように見えます。
そうかもしれませんが、これはたとえなのです。一杯の食物のために長子の特権を売り渡す人々を予表
するたとえなのです。ですから、私たちは食物に気をつけなければならないのです。
食物とは、パン、みことばと関係したことがらであり、我々がどのようにみことばを受けるか、どのよ
うな教理を受ける(食べるか)は、実は我々が自分の特権である、長子の権利さえ、売り渡すことに関
係する大事なことなのです。

ですから、私たちは自分が何を食べているのか、どのようなメッセージ、教理を受けているのかをよく
よく、吟味しなければなりません。「キリストは2回にわたって来る」とのほら話、「終末の時代に
は、ユダヤ人の時代になるというデイスペンセーション主義」等の嘘話を喜んで食べているようでは、
いつの日か「長子の特権を失うように」なることを覚えて下さい。

少し話はそれますが、興味深いことは、このように「長子の特権を得た」ヤコブなのですが、
そのことが、彼を自分の家から出ていくきっかけになりました。「兄を出し抜いて」長男の位置を得た
つもりだったのに、長男の位置どころか、命を狙われて自分の家に住むことさえままならなくなりまし
た。
このことは興味深いです。このことは、このような意味あいがあるのかもしれません。
彼は確かに長子の特権を奪い取ったのですが、しかし、それはこの世の長子の特権ではなく、
「天にある都」に関わるものだったのかもしれません。

逆にこの世においては、神の前に実質長子として見られており、その特権を得た人々は、苦難や迫害に
入る、そのことを語っているのかもしれません。

終末においても「長子を特権を売り渡す」サルデスの教会の人々から、その長子の特権を譲り受ける
人々があらわれるでしょうが、彼らの「長子の特権」はこの世において見えるものとは限りません。
逆にこの世においては、最後迄、サルデス、赤いものこそ、「神の真の教会」として認められるのかも
しれません。

”32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。”

エサウは食べることに目がいき、「長子の権利など、今の私に何になろう。」と叫びました。
彼は食べることと関連して、「長子の権利」などどうでもいいもののように思えてきたのです。
このことは惑わしなのですが、しかし、残念ながら、終末のサルデス、赤いもの、プロテスタント
教会はその惑わしに入っていきます。

彼らは偽りのパンを食べる中で、長子の特権、家を相続する(教会の使命を相続する)こと、永遠の命
を受けることなど、どうでもいいこと、大したものではないと思うようになるのです。
彼らがこのようにこの、家を相続する(教会の使命を相続する)ことを軽蔑したので、このことは、別
の人々に引き継がれていきます。ですから、何度もいうように終末の日には、教会に逆転が起こり、こ
の働きは、プロテスタントの人々から離れる、神が選んだ人々へ移されていきます。彼らは目の見えない
人々からは「異端」と呼ばれるでしょう。
 

33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして
彼の長子の権利をヤコブに売った。”

この時、「長子の権利」は兄から弟に売られ、移されていきます。
終末においてもこの「家を継ぐこと、働きを継ぐこと」は、兄すなわち、以前からの教会から、
新しい人々へ移されていくでしょう。

ここで興味深いことは、この「長子の特権」から外れるということがらは、神が強いて無理に長男から
取り去ったというより、兄エサウが自分から、「どうでもいいこと」として、軽蔑して売り渡したとい
ういことです。

同じように終末の日のエドム、サルデスも自分からこのことがらを軽蔑、売り渡すようになるのでしょ
う。この日はもう来つつあります。

”34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去
った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。”

ここでエサウが「長子の権利を軽蔑」することとと関連して、パン、そして「食べたり、飲んだり」す
ることが書かれています。

「食べたり、飲んだり」することは、例の2つのトピック、パンとぶどう酒と関係します。
ですから、終末のエドムは終末の日の偽りのパン、教えを食べたり、偽りの霊を受ける中で、
「長子の権利を軽蔑」するようになることがわかります。

ですから、繰り返して言いますが、私たちは何を食べるか、すなわち、どのような「教えを受けるか」

よくよく吟味しなければならないことがわかります。

「イエスの復活は民衆の願望が作り上げたもの」などというたわけた嘘話を本気になって論じる愚か者
達は、その命を失うことを覚えて下さい。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー