No. 286 書かれた全ての事が成就する報復の日(2)

”テキスト:ルカ21:20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が
近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。い
なかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒り
が臨むからです。”
 

本日は、「書かれた全ての事が成就する報復の日(2)」として、
ルカ伝から見ていきたいと思います。

終末に関して、いくつもの悪魔の毒麦、偽りの教え、また蛇の教えがあります。
終末には、クリスチャンが裁かれることはない、また、終末の前にキリストが秘密の再臨をする
との患難前携挙説等、色々あるのです。

その中の一つに、終末は長い期間にわたるというものがあります。この中には、「千年王国」といった
ような教えがあります。「千年王国」という説は黙示録に書かれている、「1000年」は文字通り、
千年と解釈するという説です。この説を受け入れると黙示録に記されているできごとが全て
終わるまではそれこそ少なくとも、1000年はかかることになります。
「終末は1000年以上もかかる」という何だか間延びした結論になってしまいます。

しかし、このような考え方、「終末は1000年以上にもわたる長い期間」という説は、
実は聖書のことばと明らかに矛盾した偽りの教えであることを知って下さい。
何故なら、聖書は上記テキストで終末に関して明らかに「書かれているすべてのことが成就する報復の
日」というように、「日」について語っているからです。
聖書は、明らかに
-書かれているすべてのことが成就する報復の「何千年」について語らなかったし、
-書かれているすべてのことが成就する報復の「何世紀」についても語らなかったのです。

逆に聖書は、
-書かれているすべてのことが成就する報復の「日(KJVでは日々=days)」について
語ったのです。

ですから、終末の日、神の報復の日は、「日々」といわれる短い期間であることが理解できるのです。

逆に、黙示録に関して、これらのことがらが成就するのが、えらい長い期間にわたることを語る人々
は、 皆、人を惑わす者かもしれません。
上記理解に基づき、テキストを順に見ていきたいと思います。
 

20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟り
なさい。”

「その滅亡が近づいた」ことをこの節は語ります。その滅亡は、1000年以上もの長い期間をさすのでは
なく、ある定まった比較的短い期間をさすと思われます。
エルサレムはイスラエル国の首都エルサレムのことだと多くの解説者がいいます。
しかし、たとえの理解を忘れてはいけません。

たとえば黙示録に記されている花嫁エルサレムは明らかに「キリストの花嫁=教会」のたとえであり、
実在の都市ではありません。
同じ意味あいで、このエルサレムに関してもたとえの理解、教会に関しての面を見るべきです。
旧約聖書の中には、軍隊がエルサレムを攻めることに関していくつもいくつも記されています。
当たり前のことですが、私たちが、この記事、ルカ伝の「エルサレムが軍隊に囲まれる」との記述を理
解しようと思うのなら、当然これらの記述をもとに考えるべきなのです。

しかし、悲しいかな、現代の律法学者、祭司長達は、このようなもっとも基本的なことがらさえ、
無視して、「わけのわからない解釈」をもっともらしく語る教師、聖書学者を偶像にし、聖書よりは、
これらの偶像の書いた「注解書」を優先しています。

その結果、これらの旧約聖書を実質捨て去り、たとえに対して語られた主の教えも捨て去っています。
そして、民の為にも神の為にもならない、たわごとを語り続けています。

彼らは悔改めて、この方、ことばなる方に聞くべきではないのでしょうか。
たとえば、エゼキエル書には、エルサレムが軍隊に囲まれる、攻められることに関して
以下のように記されています。
 

”エゼキエル21:21 バビロンの王は、道の分かれ目、二つの道の辻に立って占いをしよう。彼は矢を振
り混ぜて、テラフィムに伺いを立て、肝を調べる。
22 彼の右の手にエルサレムへの占いが当たり、彼は城壁くずしを配置し、虐殺を命じて口を開き、叫び
声をあげて、城壁くずしを門に向かわせ、塹壕を掘り、塁を築く。
23 彼らは、何回となく誓われても、その占いはうそだと思う。だが、彼は彼らを捕えて、彼らの不義を
思い出させる。”

この箇所を見ていきましょう。

”21 バビロンの王は、道の分かれ目、二つの道の辻に立って占いをしよう。彼は矢を振り混ぜて、テラ
フィムに伺いを立て、肝を調べる。”

ここには、バビロンの王がエルサレムを攻めることについて書かれています。
バビロンは終末の日にも現れます。それは、現代の獣の国、アメリカをさすのかもしれません。
この国のあらゆる偽りの教え、獣の霊は、エルサレムなる教会を囲み、攻めるようになります。

”22 彼の右の手にエルサレムへの占いが当たり、彼は城壁くずしを配置し、虐殺を命じて口を開き、叫
び声をあげて、城壁くずしを門に向かわせ、塹壕を掘り、塁を築く。”

終末の日、彼は「城壁くずし」を配置してこのエルサレム、神に愛された教会を攻めます。
その中でこの町の城壁、町を守るべき人々は倒されていきます。

そのため、城壁を失って裸となった町には、「リバイバル」と称する悪霊の働きやら、
魔術のマニュアル本、ハリーホッターやらが入り込んでいきます。

この本の著者、ローリングスが「クリスチャン」であるなどという言葉はただの冗談に過ぎず、彼女
は、ラーストトランペットニューズレターによれば、意図した魔女なのですが、盲目になったクリスチャンはこのような「魔術の入門書」を自分の子供に買い与えていきます。

”23 彼らは、何回となく誓われても、その占いはうそだと思う。だが、彼は彼らを捕えて、彼らの不義
を思い出させる。”

「このようなことが教会に起きる」という警告を何度受けても、今の人々は、これらのことばを「うそ
だと思」います。しかし、事実この教会は、バビロン王に捕らえられていきます。

以上のように旧約聖書に何度となく書かれている「軍隊がエルサレムを囲む」記事は終末の教会に関す
る予表なのです。

聖書を読むより、新聞や週刊誌を読むのに忙しい盲人教師のたわごとにだまされて、
「中東のエルサレムが軍隊に囲まれ始めたら、その終末が近い」「中東の7年の平和条約」などの嘘に
騙されていはいけません。
彼らは「この書」を読んだことのない盲人であり、彼らについていく者達はともども穴に落ち込むでし
ょう。

”21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。
いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。”

何故、「ユダヤにいる人々は山へ逃げ」なければならないのでしょう。このことばは何を意味している
のでしょう。ユダヤは北イスラエル10部族とともに神の民の国の一つであり、予表的には、終末のプロ
テスタント教会をさします。
そしてこの教会においてはまた、終末の日に、裏切り者ユダに予表される「ことばなる方」に対する裏
切りが行われていきます。それで、神の怒りが「ユダ=ユダヤ」に予表されるプロテスタントに終末の
日に
臨むのです。それで、その怒りに巻き込まれないために、「山へ逃げなさい」と言われているのです。

「山へ逃げる」とは、ソドム、ゴモラが火によって滅ぼされる時、その神の怒りから免れた
ロト達にいわれた警告と同じことばです。ですから、終末の「神の怒り」も火、悪霊に関係したもので
あることが類推されます。

「都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。」とのことばも同じことを語っているのでしょう。
「神に愛された都」エルサレムで象徴される教会へ神の怒りが臨む日に関して述べているのです。
この都、教会に対して神の怒りが臨むのです。だからこそ、「いなかにいる者たちは、都にはいっては
いけません」と述べられているのです。

ですから、ここで強調されていることは、裁かれる都、また「裏切り者ユダ」の歩みに同調してはいけ
ないということなのです。物理的にこれらの教会を出る出ないは別にして、彼らの裏切りに加担しては
いけないことがわかります。

キリストは神の子ではない、ただの大工のおっさんだった等のトンデモ話に同調してはいけないので
す。

”22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。”

そして、ここで「報復の日(days=日々)」とあります。これは、偽りを喜んでいた民に対する、
「報復の日々」なのです。

かつてのイエスの時代に起きた「報復の日々」も決して千年、2千年にわたる長い年に関することでは
ありませんでした。
イエスの十字架から、丁度1世代、40年後、西暦70年前後に起きた、エルサレム滅亡、「主を十字架
につけた人々」に対して、起きた「報復の日々」は、決して異常に長いものではなく、長くてもせいぜ
い年単位のことがらでした。
そしてこの短い終末の日々に関して、それこそ、聖書のあらゆる「記述」が預言、警告しているので
す。
この日を悟ることがいかに大事なことか理解できます。

ですから、終末の報復の日々は、同じく決して異常に長いものでないことが予想されるのです。
ですから、「終末の黙示録に記されている期間は、1000年以上の長い期間を対象にしている」
などと主張している人々は、単なる盲人、見ることのできない「導き手」なのかもしれません。
繰り返していいますが、終末に関しては、ありとあらゆる偽り、ガセネタが横行していることをはっき
りと理解して下さい。

”23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒
りが臨むからです。”

「身重の女と乳飲み子を持つ女」とは、乳を必要とする信者、かたい食物=たとえの理解のできない信
者、牧師しかいない教会(女)のことをさします。このような教会は悲惨です。
何故なら、終末のことがらは皆「たとえ」を通して書かれているからです。

「終末はエルサレムの第三神殿ができあがる迄始まらない」などとは、たとえの理解できない、
幼子, 乳飲み子、大人になれないまともに成長していない、愚かなクリスチャンをまどわす為に、
せっせと流されている「大嘘」「ガセネタ」なのですが、残念なことに、「乳を飲む」
幼児クリスチャンは、牧師ともども、これらのガセネタにひっかかっていきます。
そして、中東で行われている、虐殺に加担していくのです。
彼らは愚か者であり、「ことばなる方」を捨てた裏切り者です。

「たとえ」について語った方を捨て去り、「霊的解釈はよくない(たとえを解釈するな)」などと、聖
書と正反対の大嘘を語る解釈者を偶像視していく愚か者になっていくのです。

しかし、私たちにあっては、このことばなる方をまこととしたいと思います。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー