NO.285 2つの角を持つお羊

テキスト:”
ダニエル8:1 ベルシャツァル王の治世の第三年、初めに私に幻が現われて後、私、ダニエルにまた、一
つの幻が現われた。
2 私は一つの幻を見たが、見ていると、私がエラム州にあるシュシャンの城にいた。なお幻を見ている
と、私はウライ川のほとりにいた。
3 私が目を上げて見ると、なんと一頭の雄羊が川岸に立っていた。それには二本の角があって、この二本
の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。
4 私はその雄羊が、西や、北や、南の方へ突き進んでいるのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうことが
できず、また、その手から救い出すことのできるものもいなかった。それは思いのままにふるまって、
高ぶっていた。
5 私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって
来た。その雄やぎには、目と目の間に、著しく目だつ一本の角があった。
6 この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見たあの二本の角を持つ雄羊に向かって来て、勢い激しく、
これに走り寄った。
7 見ていると、これは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折ったが、
雄羊には、これに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に打ち倒し、踏みにじった。雄羊を雄や
ぎの手から救い出すものは、いなかった。
8 この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わり
に、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。
9 そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非
常に大きくなっていった。
10 それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじ
り、
11 軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつ
がえされる。
12 軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨て、
ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。
13 私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もうひとりの聖なる者が、その語ってい
る者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、聖所と軍勢が踏みにじ
られるという幻は、いつまでのことだろう。」
14 すると彼は答えて言った。「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す
。」
15 私、ダニエルは、この幻を見ていて、その意味を悟りたいと願っていた。ちょうどそのとき、人間の
ように見える者が私の前に立った。
16 私は、ウライ川の中ほどから、「ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。」と呼びかけて言っ
ている人の声を聞いた。
17 彼は私の立っている所に来た。彼が来たとき、私は恐れて、ひれ伏した。すると彼は私に言った。
「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである。」
18 彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。しかし、彼は私に手をかけて、その場に
立ち上がらせ、
19 そして言った。「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わ
りの定めの時にかかわるからだ。
20 あなたが見た雄羊の持つあの二本の角は、メディヤとぺルシヤの王である。
21 毛深い雄やぎはギリシヤの王であって、その目と目の間にある大きな角は、その第一の王である。
22 その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こることである。
しかし、第一の王のような勢力はない。
23 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。
24 彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事を
なして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。
25 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向か
って立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。
26 先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはま
だ、多くの日の後のことだから。」
27 私、ダニエルは、幾日かの間、病気になったままでいた。その後、起きて王の事務をとった。しか
し、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである。"

本日は「2つの角を持つ雄羊」として、「西と東の問題」をもう少し見ていきましょう。

使徒行伝において、「聖霊がアジアでみことばを語ることを禁じ」た時、神は明らかに、
西からこの福音を宣べ伝えることを意図しました。しかし、終末においては、この福音は、
西の国々のために、それこそ、「殺され、破壊」されるようになりました。
その極端な最後の例が、西側の最後の国、「獣の国」です。この國において、福音は変型され、
「進化論は正しい」、「福音書の記述は正しい歴史を反映していない」、「イエスは神の子でなく、普
通の男だった」等のあらゆる冒涜の教えが広がるようになりました。

このことに関する、別の記述が、このテキストの箇所と思われます。順に見ていきたいと思います。

”1 ベルシャツァル王の治世の第三年、初めに私に幻が現われて後、私、ダニエルにまた、一つの幻が現
われた。
2 私は一つの幻を見たが、見ていると、私がエラム州にあるシュシャンの城にいた。なお幻を見ている
と、私はウライ川のほとりにいた。
3 私が目を上げて見ると、なんと一頭の雄羊が川岸に立っていた。それには二本の角があって、この二本
の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。”

この8章においては、国々を指すのに、羊や山羊という名称を用いています。
私たちはこのことに注目しなければなりません。この雄羊は、後の節を見るとメデイアペルシャであ
り、
またお山羊は、ギリシャの國です。

このことは、読めばわかるのですが、しかし、一つの疑問が起きます。何故、聖書はこの章でこれらの
国を表すのにお羊、またお山羊と呼ぶのかということです。

同じ、メデイアペルシャ、またギリシャの国は、ダニエル7章では、それぞれ熊、ひょうと記されてい
ます。こちらの記述、表現はいくらか意味が理解できるように思えます。

これらの国は、角、すなわち、武力、軍事的な面を表す国として書かれているので、強い国を表す表現
として、熊、ひょうという記述使われているのでしょう、これはしかるべく、つじつまが会うように思
えるからです。 また、これらの獣は猛獣であり、人をさえ食べてしまいます。熊、ひょうという獣を使うことにより、これらの国が人、クリスチャンの信仰を破壊するものとして用いられることを示すよう
です。

さて、テキストに戻りますが、何故、同じ、メデイアペルシャ、またギリシャの国をお羊、またお山羊
として別の表現をしているのでしょうか。私たちは考えなければなりません。何故なら、聖書は神の
知恵をもって書かれたものなので、どのような記述にもしかるべき意味あいがあるからです。

羊や、山羊という表現は、クリスチャンをさす表現として聖書の中で一般的です。
キリストがペテロに向かって「私の羊を飼いなさい」と三度語られたように、この動物は、
クリスチャンを表すのに用いられる表現なのです。ですから、この箇所は、実は、クリスチャン、また
信仰と関係のある記述かもしれないことが想像できるのです。

さて、もう一つの動物、ギリシャを表す山羊もまた、クリスチャンと関係ある動物です。
何故なら、以下のように書かれているからです。

マタイ25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄
光の位に着きます。
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるよう
に、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。”

この箇所では、神のみこころにかなった民を羊、またそうでない、反対の民を山羊と呼んでいます。
この箇所で何と上記、ダニエル8章の羊と山羊、両方が登場するのです。

これらは偶然でしょうか?そうとも思えません。
ですから、上記ダニエル8章の羊と山羊には、何かクリスチャンと関係したたとえが含まれているようで
す。勿論この箇所の第一義的な意味あいは、メデイアペルシャ、ギリシャの国に関する預言です。
しかし、聖書の中でよく使われる方法として、同じ箇所を通して、もう一つの意味あいが含まれている
ことがよくあるのです。
そして、この箇所の第二の意味あい、それは、クリスチャン、すなわち、キリスト教会の未来に関する
預言です。
 

”3 私が目を上げて見ると、なんと一頭の雄羊が川岸に立っていた。それには二本の角があって、この二
本の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。

さて、この羊はキリストの羊、すなわち、教会をもさすたとえとも思われます。
その場合、「二本の角」があることは容易に理解できます。これは、2つの教会、いわゆる、新教、旧教といわれる プロテスタント、カトリック教会をさすのでしょう。
また、「二本の角は長かったが、一つはほかの角より
も長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった」との記述もすっきり理解できます。
後の角、プロテスタントの方がカトリックよりも優勢になってくることを語っているのでしょう。

この羊、2本の角という記述は、以下の黙示録の記述と一致します。
 

”黙示録13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角
あり、竜のようにものを言った。
12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々
に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。”

ここでは、「小羊のような二本の角」を持つ獣として、キリスト教会が描かれています。
彼らは最初の獣、アメリカを筆頭とする獣化されたキリスト教の教義を拝むようになります。
ですから、この黙示録13章の記事は、ダニエル8章の羊、山羊の記述と関係があります。
というより、この黙示録13章の獣の詳細、理由を描いているのが、ダニエル8章なのです。

”4 私はその雄羊が、西や、北や、南の方へ突き進んでいるのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうこと
ができず、また、その手から救い出すことのできるものもいなかった。それは思いのままにふるまっ
て、高ぶっていた。”

さて、この「教会」を表すと思われる、羊が「西や、北や、南」へ向かうことが書かれています。
不思議なことは、東について書かれていないことです。ですから、ここでも東の地域は、終末の時ま
で、
福音が伝わらないことが暗示されるのです。

「どんな獣もそれに立ち向かうことができ」ないことがここに書いてあります。
しかし、この箇所は文字どおり読むなら、不思議な箇所です。何故なら、御存じの方はわかるでしょう
が、世の中に羊ほど弱い動物はないからです。熊やひょうならばともかく、羊では、狼だって、犬だっ
てどんな獣相手でも勝てそうもないように思えます。羊とは、ひもでつないでおけば自分で首にひもをからませて死んでしまうという、まことに弱い動物なのです。
しかし、この羊を教会のたとえとして読むならこの箇所は、理解できます。
何故なら、主の教会は、人間的には、弱くとも、この世のあらゆる獣、国に打ち勝つ力のあるものだか
らです。

そして、段々教会は自分自身の力に頼るようになります。例えば、中世においては、この世の国の王でさえ、教会の権威、教皇の権威の前に頭を下げるようになっていくのです。「それは思いのままにふるまって、高ぶっていた。」と書かれた通りです。

5 私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやっ
て来た。その雄やぎには、目と目の間に、著しく目だつ一本の角があった。”

さて、このように強い力を持つようになった「羊」ですが、その羊、教会に戦いを挑むものがあらわれ
るようになります。それは、雄やぎです。

”6 この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見たあの二本の角を持つ雄羊に向かって来て、勢い激し
く、これに走り寄った。”

さて、この雄羊は「川岸に立って」いました。川は、水のあるところであり、聖霊のたとえです。
ですから、この羊、教会はもとは、聖霊の下での勝利を得ていたのですが、そこから、外されていくよ
うになるのでしょう。

7 見ていると、これは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折った
が、雄羊には、これに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に打ち倒し、踏みにじった。雄羊を
雄やぎの手から救い出すものは、いなかった。”

さて、この雄やぎは、「この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折」るようになります。
すなわち、この雄やぎに象徴されるギリシャを起点とする西洋文明、また西側の国々は、この「キリス
ト 教」を打ち倒し、最後には何と殺すようになるということをこの箇所は述べているのです。
また、「二本の角」すなわち、カソリックもプロテスタントもともにこの西洋文明の下で倒されると言
うのです。

そんな馬鹿なと思うかもしれません。しかし、このことは、文字通り成就しているのではないでしょうか。
近代神学とかいう、何とも冒涜的な神学では、神は死んだ、キリストの復活は、民衆の願望が作りあげ
たものだ(すなわち復活はなかった)などというとんでもない「異端」の教理がまかり通っています。

牧師を教育する「神学校」では、こんなとんでもない異端の教理がばっこしているのに、
誰も抗議しようとはしません。これらの神学では、西洋的な考え、哲学、科学といったものが、
尊重され、その中で神への信仰は「死んで」いるのです。

「雄やぎは雄羊を地に打ち倒し」との表現も示唆的です。地は天とは対照的な場所であり、この世をさ
すのでしょうか。たしかに西洋的な国々の間で、神の教えは地に引き下げられ、この世のものとなって
しまいました。

また、「雄羊を雄やぎの手から救い出すものは、いなかった。」と書かれていることも事実です。
雄羊すなわち神の教会を「雄やぎ」すなわち、ギリシャを起点とする西洋文明の毒から、回復した
人々は今に至る迄ありませんでした。逆にこの教会の崩壊はさらに進んでいるのです。

”8 この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わ
りに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。
9 そのうちの一本の角から、また一本の小さな(強い:70人訳)角が芽を出して、南と、東と、麗しい国
とに向かって、非常に大きくなっていった。”

さて、このこと、雄やぎで象徴されるギリシャに端を発した西洋文明、また西側の国々が神の教会を破
壊するということは、この2000年にわたる歴史の間、ずっと引き続き起きてきたことなのですが、
しかし、終末の日、一本の(強い)角に至ってその極みに達します。「麗しい国とに向かって、非常に
大きくなっていった。」と書かれているように、終末の日に、「底知れぬ所」からあたかも神の前に麗
しい国、すなわち、「キリスト教会」の信仰破壊、撲滅を目的としたかのような一つの強い国が現れて来るのです。

この国は西洋文明の流れの中の国であり、その神学校の中、教会の中へ、西洋的な哲学、合理主義、科
学主義、方法論、心理学、カウンセリング等を持ち込み、そして教会をこの世と変わらない物へと変え
ていくのです。

”10 それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじ

彼らは、「星の軍勢」すなわち、アブラハムの子孫である、星のようなクリスチャンの間に迄入り込ん
でいきます。そして言葉たくみに偽りの教理、方向にこれらの「神の子の教会」を導いていきます。
その結果、いくつかの教団の信仰、忠実はこの世へと落とされていきます。「星の軍勢のうちの幾つか
を地に落と」すと書かれている通りです。

”11 軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はく
つがえされる。”

軍勢の長とは、軍隊の一番偉い人ということです。ですから、この獣の国は、世界のキリスト教会の指
導的な立場にまで、上り詰めるのです。

多くの説明はいらないでしょうが、今、私たちはこのことばの成就を目のあたりにしています。

確かに、この国の神学校は世界のキリスト教会をリードする立場にたっています。
そして、例えば、日本などから、多くの牧師候補生がこの国の神学校で学びを受けています。
そこで教えていることは、冒涜的な近代神学、またフラー神学校のヒーターワクナーの「聖霊(悪霊)
の第三の波」のクラスのように悪霊を注ぎ出す教えです。

また、例えば、日本の学者達が出版しているとされている「聖書注解書」の多くは、実は、アメリカの注解書を ただ、そのまま日本語に訳したものに過ぎないと事情通の人に、聞いたことがあります。
要するに日本の神学はこの国の神学に右へならえなのです。他の国も似たようなものかもしれません。
「バビロンから汚れが」世界中に広がったのです。このように、確かに、この国 の教えは、全世界の教会に影響を与え、また全世界をリードしています。

「聖所の基はくつがえされる。」と書かれているように聖所、神を礼拝する場所としての教会の基は確
かにくつがえされています。

”12 軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。その角は真理を地に投げ捨
て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。”

例えば、日本では、この国から来る「神の噐」により、多くのリバイバル聖会が開かれ、その中で多く
のクリスチャンは獣の悪霊を受け、霊的におかしくされています。確かに、「軍勢は渡され」ているの
です。

「常供のささげ物」とは何を意味するのでしょうか。これに関しては以下の民数記に記述があります。

”民数記 28:3 彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のな
い雄の子羊を<常供の全焼のいけにえ>として、毎日二頭。”

ここを読むと、「常供のささげ物」とは要するに火、聖霊の火により、肉を焼き尽くされる
真の礼拝者であることがわかります。しかし、この獣の国からの「獣の霊」で焼かれるようでは、
確かに「常供のささげ物」は神の教会から取り去られてしまっています。

「そむきの罪がささげられた」と書かれています。この獣の国発の偽りの「2段階携挙説」がまんえん
したことにより、全世界のクリスチャンは、終末の備えを投げ捨て、この世の罪の中に入っています。

「その角は真理を地に投げ捨て」とこの国、強い角である、米国こそ、真理を投げ捨てる国であること
が書かれています。「教会時代はかっこの中に入る程、短い期間であり、終末はユタヤの時代に戻る」
というデイスペンセーション主義という嘘話は、この国の神学校を経て世界の教会に伝えられています。
これは、聖書の中で何度も語られている「聖徒の終末への備え」をつき崩す恐るべき、偽りの
教えなのですが、しかし、「心の定まらない愚か者」達は、このような荒唐無稽なほら話をホイホイと
受け入れ、恥ずかし気もなく、神の講壇の上から説教しています。
まことに多くの教会において、「真理は地に投げ捨て」られています。

13 私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もうひとりの聖なる者が、その語って
いる者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、聖所と軍勢が踏みに
じられるという幻は、いつまでのことだろう。」
14 すると彼は答えて言った。「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す
。」

この恐るべき冒涜は教会を圧倒しますが、しかし、無限にというわけではなく、定められた期間だけ、
赦されるということを覚えて下さい。
その期間は限られており、定められています。このことを忘れていはいけません。

”15 私、ダニエルは、この幻を見ていて、その意味を悟りたいと願っていた。ちょうどそのとき、人間
のように見える者が私の前に立った。
16 私は、ウライ川の中ほどから、「ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。」と呼びかけて言っ
ている人の声を聞いた。

さて、この幻、預言に関連して、「その幻を<悟らせよ>」と語られたことを覚えて下さい。
ダニエル書の中で、「解きあかす」「悟る」ということが多用されています。これは何をあらわすもの
でしょうか?

恐らくこういうことでしょう。このダニエルが預言したのは「多くの日の後」の「終わりの日」のこと
です。しかし、いざこの時代になった時、終末になった時、この獣の国、ダニエルが預言した国はどの国なのかを、また 終末の時を「悟る」ことは難しいということを暗示しているのです。

事実、ダニエルの時代、確かに神からの幻、夢は与えられたのです。そして、その幻は偽りでなく、真
実なのですが、残念なことに数多くのバビロンの知者、学者は、誰一人この夢を「解きあかす=解釈」
することもまた幻を「悟る」こともできなかったのです。
どうぞ覚えて下さい。このことは、このダニエルの語った当の終末の時代が来た時においても同じなのです。
いや、終末の時代にこそ、こうなるのです。

現代においても、多くのバビロン化した知者、学者、神学者、教師、牧師達は、決してこの幻、この書

預言を「解きあかす=解釈」することも、また今の時代を「悟る」こともないでしょう。
また、目の前で「獣の国」が終末の預言をどんどん成就しても「決して悟る」ことはないでしょう。

彼らは、現代のバビロン、別名「獣の国」由来の「嘘八百」の2段階軽挙説等のあらゆる偽りを受け入
れて恥じることのない「バビロンの住民」「バビロンの知者」であり、また、この獣の国発の「獣の
霊」をその額や右手に受けて踊っている「愚か者」だからです。

しかし、この時代、主につく忠実な人々には、「悟り」が与えられることも覚えて下さい。

「ウライ川」のウライとは、「呼ぶ、招かれる」という意味あいもあり、この箇所は、主により、
「招かれた人々はこれを悟る」という意味あいを示すようにも思えます。

”18 彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。しかし、彼は私に手をかけて、その場
に立ち上がらせ、
19 そして言った。「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わ
りの定めの時にかかわるからだ。”

終末の日は、(神の)「憤りの時」です。

”20 あなたが見た雄羊の持つあの二本の角は、メディヤ(中央の土地)とぺルシヤ(純粋)の王であ
る。

この箇所には、2重の意味あいがあることを覚えて下さい。一つは文字どおり、歴史上に現れた
メデイアペルシャの国です。しかし、もう一つは、「羊」「中心の土地」「純粋」ということばで
示される、神の民に関することがらです。
羊は、「神の民」、現在のクリスチャンをさすことばであり、また、彼らは、神のみこころの「中心の
土地」です。また、彼らはこの世の汚れのない「純粋」な者達です。
 
 
 

”21 毛深い雄やぎはギリシヤの王であって、その目と目の間にある大きな角は、その第一の王である。
22 その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こることである。
しかし、第一の王のような勢力はない。”

ギリシャは西洋、西側の国々の文化、歴史の発祥の国であり、西側の祖ともいえる国です。
そして、このお山羊に象徴されるギリシャ、西側の国を象徴する国が、羊、神の教会を打ち倒したと
聖書が記したことを覚えて下さい。
「西側の国がキリスト教会を打ち倒すようになる?」、こんなことをたとえば、100年前に、
教会で語ったら、ただのきちがいのことばととられるでしょう。
しかし、今、このことばは現実となっています。西側のもっと端の国、米国において、
まさにキリスト教会は殺されようとしており、冒涜の神学、悪魔の霊はこの国を通して全世界の
教会へ伝わっています。

23 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。”

「彼らの治世の終わりに」とは、ギリシャを起点とした西側の国の教会歴史の終わりをさします。
そして、これらの国、「彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。」のです。
この国こそ、西側の国、ヨーロッパの国々からの「移民」により成立した国、地球のもっとも西側の
国、アメリカです。

この国は、表向きは、「信仰の国」ということになっていますが、聖書は、「横柄で狡猾なひとりの
王」と言っています。そして、当たり前のことですが、聖書のいうことの方がいつも正しいのです。

ですから、我々、終末のクリスチャンはこの国の「真実」に関して神により、目を開いてもらわねばな
りません。

この国が地理的にもっとも西に位置していることも象徴的です。この国こそ、ギリシャを起点とした
西の国の地理的に歴史的にもっとも最後の国であり、この国において、キリスト教は文字どおり、「殺され」たからです。
雄山羊が羊を殺す、すなわち、西の国が教会を殺すということばは、文字通り成就したからです。

24 彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事
をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。”

「聖徒の民を滅ぼす」と書かれているようにこの獣の国、米国こそ、終末の日に聖徒を滅ぼすために、
その裁きのために特別に悪魔が用意した「底しれぬところ」から上ってきた国であることを覚えましょ
う。
悲しいことのこの国の戦略はまさに成功し、多くの教会はこの国の影響の中で教会ならぬものになって
しまいました。

”25 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向
かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。”

「悪巧みによって欺きをその手で成功させ」とは、この国が教会を滅ぼすために用いた戦略を正しく言
いあてています。

ビリーグラハムなるキリスト教会のオピニオンリーダーは、実は悪魔礼拝者フリーメーソンであること
をルイジアナ メソニックサイトが述べています。また、獣の霊を下す働き人はこの国発で多くの国の
教会へ送られました。

さて、このようにギリシャを起点とする西の国において、キリスト教は殺され、滅ぼされることを
明らかに聖書は述べています。

その結果として、終末の日に福音は、東に移り、ここにおいて、神の霊が下される、そのことをとらえ
て下さい。
 

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー