NO.278 終末と光

テキスト:”ヨハネ11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」”

本日は「終末と光」としてメッセージしたいと思います。
主の「光」としての面を見ていきたいと思います。
主はこのヨハネ伝の中で「私は世の光である」といわれました。
一体これは何を語るものでしょう。

私たちが光を意識するのは、昼というより、夜です。太陽の下でバーベキューなりをする時には、
たきぎがどうだとか、肉はどうだとか、焼そばも食べたいなどということは気にしますが、誰も
懐中電灯のことなど気にかけません。まっぴるまなので、そんなものは必要はないのです。
しかし、一転して、これが夜、河原を歩くなどという時には、懐中電灯なりは必需品です。
暗い道のどこに川があるか、石があるかわからないので、「光」が必要なのです。

ですから、主が「私は世の光である」といわれた時、この世には、光がない、暗いところである
ということを前提にいわれたことがわかります。この世は暗く、光がないので、主は来られたのです。
この理解を土台に上記テキストを見ていきましょう。

”7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」”

この時、主は「もう一度ユダヤに行こう。」といわれました。このことばはその時の状況を考えれば、非常に危険なことがらでした。それで、弟子達は、びっくりして、「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」と聞き返しています。

この時、主は人間的に考えれば危険な奉仕、働きに入ろうとしていたことがわかります。
私たちが主に従って奉仕を進めていくと自分の意志や性格や意図と関係なしに知らず知らず
危険なことに 巻き込まれてしまうことがあります。勿論、そんなことに巻き込まれない方が人間的にはよいのですが、しかし、
どうしてだか、そのような危険な状況にはいることがままあるようです。

9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」”

「そんな危ないことに始めから頭をつっこまなければよいじゃないか」という意見もあるかもしれませんが、神に従っていくとそうもいかないことがあります。少なくともここでの主と弟子達がそうでした。
神がそう語っているので、彼等はいくべきだったのでしょう。

さて、弟子達の「危ないのではないか」 という質問に対する主の答えは暗示的です。「だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」と言われました。
答えになっているような、ないような返事ですが、一体これは何を意味しているのでしょうか。

いわんとしているのは、恐らくこういうことでしょう。
「我々が危険なところを行こうとしているのは、事実である。しかし、
光があるなら、危険なところが見える。見えるなら、そこを避けていけばいいのだから、
大丈夫。しかし、問題は光がなくなり、どこが危険だか案全だか見えなくなることだ」

私たちの時代はまさに収束しつつあり、ますます、聖書のいう患難時代は、近付いているように思えます。
そして、患難時代になれば、ますます迫害や危険が迫ってくるように思えるのですが、その時、この主のことばは助けになります。

この世の人、またこの世についたクリスチャンは闇の中を歩いています。昼間歩けばどうということのない道でも真っ暗になれば、危険です。ただ道ばたにころがっている丸太でも何でも、見えなければ、すぐつまづいてしまうからです。
 

終末の主につくクリスチャンは、世の人より、またこの世についたクリスチャンより、はるかに危険な奉仕をするようになるでしょう。しかし、助けがあります。それは、我々には光があるということです。この光は「世の光」といわれた、主キリストのことであり、主を真に求める人々は、暗闇や、
つまづきの中で光を見ていくでしょう。

光があり、そして見えるということは、当たり前のように思えますが、しかし、よく考えれば、すばらしいことです。

たとえば、ある道を歩いていると向こうから人がやって来ます。これが光のない暗い道ならば、その人が近付くまで、男なのか、女なのか、まして何を持っているのかなどはわからないのです。
しかし、明るい光の下なら、道の向こうからでも、その人がどんな人か、また彼が後ろ手で隠し持っているのが、ナイフなのか、花束なのかを見分けることができるのです。
ナイフを持っているのを見れば、これは危険な人ですから、その時は近付かなければ良いのです。
このようにして、光のある人はない人に比べて、危険にあうことが少なくなります。

私たちが終末の奉仕をする中で、いつも花束やクッキーを持ってきてくれる人々の中で奉仕を続けていけるとは限りません。逆にナイフを持っている人がうろついているような街角に出ていかなければならないこともあるでしょう。しかし、そんな時でも光があるなら、危険を前もって見ることができるのです。

どうしてそんなことが、わかるのか、何故見えるのかは、うまく説明できないのですが、しかし、聖書で約束しているように求める人には光が与えられます。そして、何はともあれ、
主につく人には光があり、そして、見ることができるのです。

”10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」”

終末の日は多くのつまずきが起きてくる日であり、光のない人々は皆つまずいていきます。

このことは、主イエスの時代と同じです。この時代、何故多くの人が「主イエス」というつまずきの石につまずいてしまったのか、その理由は彼らは、光を持っていなかったからです。
彼らは真に神を求めず、その結果光を持っていなかったため、この「つまずきの石」を見ることができず、これにつまずいてしまったのです。しかし、全ての人がつまずいたのではなく、この方を「見る」ことのできた人々もいました。それは、
「あなたこそ生ける神の子キリストです」と立派な告白をしたペテロを始めとした弟子達です。

今の時代は多くの人がつまずいている時代です。たとえば、中東のパレスチナ問題などは、土地も財産も奪われたパレスチナ人の命を奪うという、悪魔的なわななのですが、多くのクリスチャンが惑わされ、イスラエル国の悪魔的な政策に同調しています。

彼らは、このわな、罪に同調させるわなを見ることができません。それは、彼らに光がないためです。

主は光について述べられたことを覚えなければなりません。しかし、今、多くの人が、この世の常識や、理性的判断をこの「光」の代用品としています。そして、これらをもって、この終末の日を乗り切れると夢想しています。しかし、これは、誤解、勘違いに過ぎず、終末には多くの人が惑わされ、間違えるようになるでしょう。常識や、聖書知識や、この世の知識には欠けるところのなかった、パリサイ人や、律法学者がみごとにつまずいたように、終末の多くのできごとは、真の光を求めない人々のつまずきとなることでしょう。

さて、このこと、光がある、なしに関して出エジプト記に記述があります。

”出エジプト10:21 主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」
22 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。
23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。”

終末の黙示録にも「エジプト..と呼ばれる都」が出てきます。ですから、この出エジプト記の記述も終末と関係があります。これは、終末の日にこの世につく神の民、エジプト化した民には、光がなく、逆に
主につく民には、光があることを示す記事です。

ここを見ていきましょう。

”21 主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」”

やみが「エジプトの地の上に来」ることがここで述べられています。ですから、終末の日、この世についた神の民が獣の偽りにすっかりだまされてしまうのは、彼らに「光」がないからだということがわかります。「光」は主イエスキリストであり、彼らが聖霊としてこれらた方を追出しているために、この光を受けることができないのです。しかし、同じエジプトの地、闇の地にあってもイスラエル人の住む地には、光がありました。

場所的には、同じエジプトの地にありながら、他方には光がなく、もう一方には光があったのです。これは象徴的です。終末の時代、また今の時代もまさにその通りではないでしょうか。

キリスト教会の集会の真ん中に獣の霊を注ぐ働き人が出現し、その霊をもって信者を馬や猿、ライオンのように、変えているのに、それを皆ありがたがって受け入れているのです。
彼らは盲目であり、また見るための光を持っていない、「光」なる方を追出している人々ではないでしょうか。しかし、全ての人がそうだというわけではなく、見ている人々もいます。彼らは主に従い、結果としてその光を受けているのです。

22 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。”

この時、「エジプト全土」が「真っ暗やみとなった」3日間がありました。彼らには全く光がなくなったのです。同じように、終末の日には、闇が全く教会をおおう日が来ます。それは、彼らが光なる方を追出しているからです。

”23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。”

彼らは互いに見ることができませんでした。ですから、終末の日に真の光を求めない人々は、
それぞれの相手を見ることもできなくなるでしょう。その結果、それぞれが聖霊に導かれているのか、悪霊に導かれているのかの区別さえつかなくなるでしょう。

また、「しかしイスラエル人の住む所には光があった。」と書かれています。ですから、この出エジプトの時代には、光に関連して、2つの区分がありました。一方は全くの闇の中におり、他方は光の中におり、結果として見ることを得ます。

何故、「2回に渡ってキリストが再臨する」などという空想話に彼らは疑問を抱かないのでしょうか。
それは、彼らに光がないからです。だから、この偽りを見ることができないのです。
何故、悪霊の教え、マリヤの霊を彼らは見抜くことができないのでしょう。それは、彼らが見ることができないからです。確かに今の時代、闇の中で多くの人がつまずいているのを見るのです。

「あなた方の目は見るゆえに幸いだ」と主はいわれました。真に光なる方を求める人は闇の時代の中でも
このイスラエル人のように光を受けることを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー