No.276 幕(ベール)の内側

テキスト:ヘブル9:1 初めの契約(
KJVでは幕屋と訳されている)にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
3 また、第二の垂れ幕(ベール)のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、
7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。”

本日は、「幕(ベール)の内側」という題でメッセージをします。
旧約の多くの記事は単に、聖書学者や、歴史家の飯のタネのために書かれたのではなく、「終わりの時代に臨む」我々のために書かれたことを聖書を述べています。
ですから、その勧めに従い、そのような視点でこれらの記事を読む人は益を得ます。

さて、上記テキストの中で幕屋に関して、聖書は「ベールをはがす」ことを述べています。
ベールをはがすとは、前から度々書いているように、黙示録(この書名はベールをはがすの意味)と関係があり、終末と関係があることばなのです。

本日はそのことを見ていきたいと思います。順に見ていきます。

”1 初めの契約(幕屋)にも礼拝の規定と地上の(世的な)聖所とがありました。”

ここでは2つの幕屋のうち、初めの幕屋について述べています。この幕屋は、完全なものではありません。
神のみこころ、神が重用視していることは、明らかに第二の幕屋、至聖所にあります。さて、この第一の幕屋に基づいた「礼拝の規定」がありました。礼拝の規定とは、要するに神をこのように拝する、神とするという方法なのです。礼拝の規定は勿論、尊く大事なものです。しかし、問題があります。それは、この第一の幕屋に関する礼拝の規定、方法が古く、不完全なものであり、神が意図しておられる礼拝とはかけ離れたものだということです。

しかし、主が定められた時にこの礼拝の規定、方法が神のみこころの物へと変化します。
このことは、かつてイエスの時代におきました。以下の記述はそれをさします。

”マルコ7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
9 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。”

彼らは「人間の教え」を教えとして教えていました。そして、これは古い礼拝の規定でした。
また地上の(世的な)聖所、すなわち、この世の礼拝だったのです。
今の教会の礼拝もそのようなものかもしれません。
この世の学問や方式にのっとった神学や教義を私たちは礼拝で拝聴しているわけです。
精神に問題があれば、教会で精神科医にかかること、カウンセリングを受けること、薬を飲むことを勧められたりします。多くのいわゆる精神病といわれるものには、明らかに霊が関係しているのですが、
教会は「世的に」なり、霊的な解決を与えられなくなりつつあります。

しかし、主は新しい礼拝について述べました。
以下の記述はその「新しい礼拝」について述べたものと思われます。
 

”ヨハネ4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」”
 
 

次をみます。

 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。

幕屋は「神が住まわれる所」としての教会の型でしょうか。
さて、ここで2種類の幕屋が描かれています。

以下のようにこの2つの幕屋は対称的です。

1 第一の幕屋:
*聖所、世的な聖所。
*前の方の幕屋
*燭台と机と供えのパンがある。
*祭司たちがいつもはいって礼拝する。

2 第二の幕屋:
*至聖所(英語ではholy of holies:聖の中の聖)
*後の幕屋
*金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がある。
また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがある。
*大祭司が年に一度だけ入る。要するにめったには入れない。

この二種類の幕屋は2つの教会、2種類の礼拝方法をさしているのかもしれません。そして、
神のみこころはもちろん、至聖所といわれる礼拝の方法にあります。
これは、この至聖所が、聖(holies-複数)の中の聖(holy-単数)と呼ばれる名前が意味するように、
多くの教会、多くの聖徒の中から、神に選ばれた、もっとも聖なる教会、聖徒の礼拝方法について述べているからです。

この2種類の幕屋の比較からわかることは、前の幕屋はそれはそれで、
一つの独立した礼拝の形式となっており、必要なものは揃っているということです。
燭台、すなわち、光があり、またパンすなわち、みことばのメッセージもあるのです。
ですから、礼拝として必要なものは一通り揃っているのです。

また、こちらですなわち、前の幕屋の礼拝のみでとどまる人が多いことも暗示されます。
前の幕屋には多くの祭司が年に何度も度々、入り、それなりに神の前に礼拝をささげているのです。
祭司の数、また幕屋が年に何度使用されるかという比較からも圧倒的にこの前の幕屋で礼拝する人が多いことがわかります。
また、この場所は曲がりなりにも「聖」という名前がつけられているので、礼拝ではない、教会ではないというわけではないのです。ですから、この幕屋で礼拝する人々こそ、教会の圧倒的な大多数の人々なのです。

しかし、この幕屋が「地上の(世的な)聖所」と呼ばれていることからも暗示されるように神はこのような「この世的な礼拝」に満足しているわけではなく、真の礼拝者を求めておられます。
そして、その呼び掛けに応じた人々は「真の礼拝者」となるようになります。

繰り返しますが、この2つの幕屋は2つの礼拝方法、教会をさしているようです。
そして、それゆえ、どちらにも最低限、礼拝に必要なものはあります。

例えば、パン、みことばに相当するものがどちらの幕屋にも置かれているようです。
しかし、その内容、実質は異なることが暗示されています。

第一の幕屋には、「パン」があります。もちろん、これは、みことば、またそれに伴うメッセージを表すと思われます。
第二の幕屋には、パンに相当するものとして、「マナ」が置かれています。
パンとマナの違いは何でしょうか。どちらも食べれば一応は腹を満たします。
しかし、この2つには、根本的な違いがあります。それは、パンが人の手によって作られる食物であること、しかしマナは天から降るものであるということです。パンは人間のパン屋がいれば、世界中どこでも食べることができます。しかし、マナに関しては、そうはいえません。これは、神が天から降らせない限り、誰も食べることができないということです。
この2つは確かに異なります。どちらもメッセージ、みことばの解釈ということでは同じなのでしょうが、しかし、神の前には確かに異なるのです。

例えば、イエスの時代、会堂にはパリサイ人、律法学者達の「人手によるパン」があふれていた時代だったかもしれません。しかし、イエスの与えたパンは異なりました。
それを聞いた役人達はこう証言しています。

”ヨハネ7:46役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」”

ですから、確かにこの2つの食物は異なるのです。神のみこころは勿論、人手によるパンではなく、
天からのマナにあります。

”3 また、第二の垂れ幕(ベール)のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、”

さて、第二の幕屋、至聖所へ入るのをしきり、妨げているのは、垂れ幕(ベール)の存在です。
この至聖所へ入るには、「ベールをはがす」必要があります。

この「ベールをはがす」ことに関しては今迄何度も触れてきました。終末の書、黙示録の意味は、
「ベールをはがす」という意味あいがあります。ですから、この「至聖所へ入る」ということがらは、
終末と関係しており、また啓示を受けることと関係しているのです。

4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。”

繰り返しますが、この第一の幕屋と第二の幕屋とは2つの礼拝方法、または教会をさします。
この2つの幕屋は対称的なのです。この2つの幕屋の中にあるものとないものとを比較して下さい。
そこに語りかけがあるはずです。
至聖所には、金の香壇がありました。これは以下のことばと関係するものでしょう。

黙示録8:3また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。

すなわち、祈りをさします。金は信仰と関係のあることばですから、具体的には、信仰の祈りをさします。

第一の幕屋にはこの金の香壇がありません。これは、第二の幕屋にのみあります。
第一の幕屋は多くの、大多数のクリスチャンが行う礼拝方法です。多くの人々の礼拝がこれに属します。
「前の(第一の)幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なう」とのことばは、この幕屋が多くの人に関係するものであることを暗示していると思えます。
しかし、第二の幕屋は、みこころの選ばれた人々が行う礼拝方法です。「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。」と、書かれている通りです。

信仰を持った祈りを持ち、それに集中する人々は神の語った、みこころの礼拝、第二の幕屋に入ることを覚えて下さい。
不思議なことは、第一の幕屋には、香壇、祈りに相当するものがないことです。彼らは祈らないというのでしょうか?よくわかりません。しかし、神が書かれなかったものは書かれなかったことです。
私たちは、何はともあれ、金の香壇と神に認識される祈りをする必要があるのでしょう。
「マナのはいった金のつぼ」は前述の通り、天から下る神のメッセージをさします。ですから、神の礼拝でメッセージの任にあたる人には責任があることを知るべきです。説教、神のマナをわけ与える人の
唯一の資格は、神学校を出ることでも学術優秀なことでもありません。ただ、ただ、天からのマナを受けることのできる人であることを覚えて下さい。
 

「芽を出したアロンの杖」は復活の命をさすのでしょう。復活とは、要するに罪の中に生き、その結果死の中を歩む人の礼拝ではにということでしょうか。神は死んだ者の神ではないのですから、
真の礼拝をめずす人はこの方から復活を経験させてもらわなければなりません。

「契約の二つの板」は神がその民と結ばれた契約をさします。この第二の幕屋にのみこの板があるということは、何をさすのでしょう。これはこういうことでしょうか。すなわち、神のもろもろの契約は、
この第二の幕屋に仕える者達についてのみまっとうされるということでしょうか。
聖書の中には、イスラエルの民、また新約のイスラエルの民であるクリスチャンに対して
多くの契約と祝福の約束があります。しかし、契約に関してはっきりと理解しなければ、ならないことは、契約とは、条件のついた約束であるということです。私たちがその条件を満たさないなら、
契約の履行を期待しても無理なのです。

例えば、私たちが良さそうなマンションなりを探して、その部屋を借りる契約をしたとします。
「来月から住んでもいいですよ」という約束を受けたとしても、我々の方でもその契約を守らなければなりません。「今月25日までに3ヶ月分の家賃を払い込むこと」というような契約を我々の方でもまもらなければ契約は有効になりません。約束はあっても
そのマンションに住むことはできないのです。
2つの幕屋のうち、第二の幕屋には、「契約の2つの板」があります。これは、神がこの幕屋に仕える民に対しては、御自身が聖書の中で約束された契約を実行されることを暗示するように思えます。

そして、残念なことには、第一の幕屋には、契約の2つの板が置かれていません。ですから、この幕屋に仕えている人々は、その生涯の中で、必ずしも神の契約の履行を見ないかもしれません。そして、その理由はただ一つです。
神が不真実な方であるからではなく、この幕屋に仕える民が神への契約を守らないからです。

”5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。”

贖罪蓋に関して、KJVでは「恵みの座」と訳されています。ですから、この第2の幕屋には、
神の恵みが注がれています。
この著者は、「これらについては、今いちいち述べることができません
。」と述べました。彼は何故、これらの幕屋の詳しい内容について述べなかったのでしょう。
これは想像ですが、彼の時はその時、語る時ではなかったからかもしれません。しかし、今は、終わりの時であり、真の礼拝が回復されるべき時です。今こそ、これらについて今述べる時と思われます。

6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、”

第一の幕屋は、多くのクリスチャンが関係する礼拝です。ここは、祭司達、すなわち、大祭司一人しか入れない第二の幕屋と対称的に、多くの人数と関係しています。また、いつも、すなわち、年に一度しか入れない第二の幕屋と異なり、多くの時と関係しているのです。しかし、これは不完全な礼拝であり、また、神のみこころを全うするものではありません。

7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。”

第二の幕屋には、大祭司が年に一度しか入れません。ですから、ある意味では、教会時代にただ一度しか、この真の礼拝の道は開かれないのかもしれません。

そして、大祭司は血を携えて入ります。この血は聖霊のたとえです。私たちの罪は、聖霊のきよめにより、赦され、清められます。

8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。”

前の幕屋は第一の幕屋のことであり、まことの聖所とは、ここで第二の幕屋といわれるとことです。
大阪城を攻めたいけど、外の堀が邪魔で攻めることができない。それで、家康は外堀を埋めさせたということです。似たような意味あいで前の幕屋、第一の幕屋が存在している限り、第二の幕屋、神のみこころの礼拝の道は明らかにはなりません。もっと、具体的に言えば、我々が第一の幕屋の礼拝だけで満足しており、「礼拝とはこんなものだ」と思っている限り、真の礼拝の道は開かれないということでしょうか。

しかし、かつて主がサマリヤの女に「この山でもあの山でもない、真の礼拝者が..」と語った真の礼拝の道はこの時代に開かれようとしています。

9 この幕屋はその当時(今の時代)のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。”

この幕屋とは第一の幕屋のことです。そして、この幕屋は今の時代、この時代の比喩だということです。
ですから、この時代の礼拝は「礼拝する者の良心を完全に」することができないと聖書は語るのです。

クリーニングに出したのに服の黒い汚れが落ちていない、ということは困りものです。同じように、
教会の礼拝に出ているけど、ちっとも心が清くならないということも困ったことなのです。
しかし、今の時代、往々にしてあり得るかもしれません。ささげ物といけにえ、すなわち、神への奉仕は確かにあるけど、しかし、心が清まらないというのです。

”10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する(肉的な)規定にすぎないからです。”
 

食べ物、飲み物は現在の聖餐のパンとぶどう酒に相当するのでしょうか。しかし、これらをただ、教会は肉的に守っている、そのような規定に過ぎないということでしょうか。

さて、繰り返しますが、この第二の幕屋への道は幕(ベール)をはがさない限り、開けません。
そして、ベールをはがすことは啓示を開くことと、関係しており、終末の時代と関係しています。
終末の時代こそ、この第二の幕屋、真の礼拝への道が開かれるときではないでしょうか。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー