NO.275 国中のけんかの相手

テキスト:エレミヤ15:10 ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。
11 主は仰せられた。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。”

本日は「国中のけんかの相手」という題でメッセージします。
エレミヤ書の中で、彼、エレミヤは自分が「国中のけんかの相手」だといっています。
本日はこのことを見ていきたいと思います。

エレミヤはどのような預言者なのかということは、エレミヤ書を見ると理解できます。
彼は、エルサレムの宮の関するさばき、またエルサレムが廃虚となることを預言した預言者です。
その彼は、上記箇所で「私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。」と自分のことを嘆いています。
このことばは、終末の時代に主によって警告の召し、働きを任された人々の上に語りかけがあるものです。

誰かに、「クリスチャンは多くの人々とけんかをするべきでしょうか?多くの人と争うべきでしょうか?」と聞かれたなら、我々はどう答えるべきでしょうか。もちろん、一般的には、けんかをすべきではないし、また争いをひき起こしたりすべきではないのです。
しかし、これはあくまで、一般論であり、問題は主がどのように言われるかということです。
私たちは紙や石の板に書かれた律法に従う者ではなく、心に書かれた主の律法に従う者だからです。

さて、エレミヤが国中のけんかの相手となったとは、具体的にはどんなことをさすのでしょう。
その例はたとえば以下の箇所です。
 

”エレミヤ26:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。
2 「主はこう仰せられる。主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。
3 彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行ないのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。
4 だから彼らに言え。『主はこう仰せられる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、
5 わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、「「あなたがたは聞かなかった。「「
6 わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする。』」
7 祭司と預言者とすべての民は、エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いた。
8 主がすべての民に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕えて言った。「あなたは必ず死ななければならない。
9 なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか。」こうしてすべての民がエレミヤを攻撃しに、主の宮に集まった。”

順に見ていきます。
 

”1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。”

この時、エレミヤに主のことばがあったことがここに記されています。ですから、エレミヤが自分の住む国中のけんかの相手となってしまった理由は、はっきりしています。それは、彼の性格でも失言でも行いでもなく、ただただ、彼に主のことばあったこと、そして彼が忠実にそのことばを王や民に述べたその為なのです。

このことは終末においても同じでしょう。終末にもエレミヤと同じように「与えられた主のことば」のゆえに、人からの非難や、争いに巻き込まれる主のしもべが起きることでしょう。
回りの人は彼、または彼らを非難するでしょうが、しかし、他でもない神御自身が終末の日にもそのしもべに語るということを知るべきです。

”2 「主はこう仰せられる。主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。”

主は「命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。」と確かに語られました。だから、確かに主が語られたのなら、私たちはそのことばを残らず語らないわけにはいかないのです。カソリックの偶像崇拝について主が語られたのなら、そのことばを省くわけにはいかないし、またペンテコステ、カリスマが歓迎する「聖霊の第三の波」なるものが、実は「悪霊にすぎない」と語られたのなら、省くわけにはいかないのです。

また主は、「すべての町の者に」と語られました。今でいえば、キリスト教の全ての宗派にということでしょうか。もしそうなら、キリスト教の全ての宗派に対する主からの警告を語らないわけにはいかないのです。

3 彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行ないのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。”

「彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。」と主は語られます。ですから、主はエレミヤに民をほめたり、おべっかを語るためにつかわしたのではない、むしろ彼らの罪、問題を指摘するために遣わしたのだということがわかります。

今の時代も同じではないでしょうか。今の終末の時代に主がそのしもべを遣わすのは、各宗派をほめて、その美点をほめそやかすためではありません。また、それによって、しもべが人々から「人気を博す」ためではないのです。

むしろ、神の目から見た問題点、裁かれるところを指摘、語るためではないでしょうか。
ですから、覚えて下さい。終末の日に「異端の教え、空想話である2段階携挙説」を黙認する人々、火中の栗を拾わない人、うまく立ち回る「賢い人」にみこころがあるのではなく、むしろこれを指摘し、非難する人々にこそみこころがあり、彼らこそ終末の日に神のしもべとして仕えている人々であることを。

4 だから彼らに言え。『主はこう仰せられる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、
5 わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、「「あなたがたは聞かなかった。「「
6 わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする。』」”

彼、エレミヤに与えられた主のことばは、当時の人々の常識、皆が思っていたことがらとそれこそ、180度もことなることがらでした。宮の祝福どころか、その宮がシロのように廃虚になり、また、この町、美しさのきわみといわれたエルサレムが何と「万国の呪い」とされるということばだったのです。

「こんなことをいえばまず民からまともな反応は得られないないか」「とんでもないことになる」とは、
エレミヤも常識は働かせればわかったでしょう。
しかし、問題は主がそういわれたということなのです。そして、このことは終末の時代も同じであり、
主が確かに教会の崩壊を述べたのなら、終末の日、主のしもべは語らないわけにはいかないのです。

7 祭司と預言者とすべての民は、エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いた。
8 主がすべての民に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕えて言った。「あなたは必ず死ななければならない。”

彼、エレミヤが主からのことばを全ての民に語り終えたその報酬は、「あなたは必ず死ななければならない。」との宣告でした。何とも預言者とは、(この世では)報われない勤めですが、しかし、
主が語られたなら、とにかく彼は語るのです。

”9 なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか。」こうしてすべての民がエレミヤを攻撃しに、主の宮に集まった。”

宮の崩壊、廃虚となることを述べたエレミヤを攻撃しに、全ての民が主の宮に集まったことが語られています。終末の日においても、宮の崩壊、すなわち、教会の崩壊、裁きを語る主のしもべは全ての神の民、すなわち、全教会から、攻撃されるようになるのでしょう。

このように見ていく時、上記テキストに書かれた彼の嘆きも理解できるというものです。

彼はこう語っています。

10 ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。”

この箇所を見ましょう。

”私の母が私を産んだので”

母とは、女、教会のたとえでしょうか。終末の日に必ず、エレミヤのような働き人を産むようになると思われます。旧約の時代にこのエレミヤが「宮の崩壊、廃虚となること」を述べたように、また、イエスの時代、主イエスが宮の崩壊について語り、そのために死刑に処せられたように、終末の日にも
必ず、宮、教会の崩壊、廃虚となることを述べる預言者、またその勤めの人々が現れると思われます。

”私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。”

そして、その働き、エレミヤの名前で呼ばれる、働き、ミニストリーの一つの特徴は、「けんかの相手」となること、いわば「けんかミニストリー」のようなものです。しかも、国中のけんかの相手、すなわち、キリスト教会のあらゆる教派、宗派、とけんかをすることになるようです。
ですから、この働き、ミニストリーを進めれば進める程、さらに多くの人とぶつかり、多くの人に憎まれてしまうという皮肉な結果となるようです。
 
 

しかし、このことは、主エイスの時代にも成就しました。主イエスの働き、ミニストリーの一つは確かに「エレミヤ」のミニストリーでした。主が律法学者、パリサイ人を名指して、「蛇、まむしのすえ」と呼ぶ時、穏やかにことが運ぶはずはなく、多くの敵対が生まれました。
結果としてイエスは彼らに命をつけねらわれるようなことになりました。

このようにして見ると、私たちの目には、主イエスにしてもまた、旧約のエレミヤにしても言葉に配慮が足りない、回りの人の感情を考えない、気配りのない人のようにさえ見えます。

しかし、覚えて下さい。問題はエレミヤに、また主イエスにあったわけではなく、その当時の人々にあったのです。彼らはただ神のいわれたことばを語ったのにすぎないのです。

「蛇、まむしのすえ」と呼び、「宮の崩壊」を述べるエレミヤ、イエスは全く、人の感情を解しない無礼者に見えますが、しかし、他でも無いそのことばは実は神から出たものなのです。
逆に、全て蛇を蛇と呼ばず、まむしをまむしと呼ばない預言者には、災いが及ぶことを覚えて下さい。

もし旧約のエレミヤが自分の保身のみを考えて、宮が廃虚となるという預言を語らなければ彼は災いでした。何故なら、事実、この宮は廃虚となったからです。また、主イエスがパリサイ人達を「蛇、まむしのすえ」と呼ばなければ、彼は災いでした。何故なら、パリサイ人達は確かに神の目の前にそのようなものだったからです。同じように今、この終末の時代、神は今の神学、教会、をどのように見ておられるでしょうか。

もし、神がたとえば、カソリックの人々が法王に聞き従い、聖書を投げ捨てていることに警告を発しており、それを耳で聞きながら、語らないなら、その預言者は災いなのです。
もちろん、そんなことを語ってろくな目には会わないでしょうが、しかし、彼には人からではなく、神からの栄誉が与えられます。
 

”私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。”

貸す、借りるということばは、「1万タラントの借金を負ったしもべ」のたとえから理解するには、「人から負った罪を赦す、赦される」という意味あいがあるようです。
ですから、ここでエレミヤが嘆いていることばの意味は、「人に罪を犯したわけでもないのに、しかし、それにもかかわらず、自分は人々から呪われている」との嘆きを意味するようです。

ですから、彼、エレミヤが国中のけんかの相手になり、いわば「けんかミニストリー」の人となってしまったのは、彼自身に原因があったわけではないことがわかります。実は、この働き、ミニストリーそのものがそのような性格を含んでいるのです。

外科医になることには、手術をすること、「血を見ること」が含まれるように、このミニストリーには、「国中のけんかの相手」となることが含まれているのかもしれません。

11 主は仰せられた。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。”

このような「けんかミニストリー」の働きに本人の意図とはうらはらに、巻き込まれていってしまう、旧約の預言者エレミヤは何とも、ある意味、かわいそうな人ですが、しかし、主はその彼に約束を与えておられます。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。」とのことばです。
 

解き放つとは、捕囚になる人々と対称的なことばでしょうか。人々は、バビロンにとりこになっていくとしても、主のみこころに沿って、警告を与え、苦難をいとわないしもべは、結果として、バビロンに捕らえられていくことを免れるのでしょうか。その時、この人々は命を得ます。
 

また、「必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と言われています。その時、立場が逆転するのかもしれません。

舌きりすずめの「大きいつづら、小さいつづら」の話ではありませんが、みかけが良さそうなことがらが、必ずしもそうとは限らないことがあります。聖書の一つの原則は、「逆転の原則」というようなものです。主のために苦難を受ける人がいつか逆転することを明らかに聖書は述べています。

色々と非難はあるとしても主のみこころを行い続ける人に、ついには祝福があることをとらえましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー