NO.273ベールを外す

テキスト:”エゼキエル13:
17 人の子よ。自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔を向け、彼らに預言して、
18 言え。神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たちにわざわいが来る。あなたがたは、わたしの民である人々をわなにかけて、自分たちのために人々を生かしているのだ。
19 あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行ない、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。
20 それゆえ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す。
21 わたしは、あなたがたのベールをはがし、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。わなにかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにいなくなる。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
22 あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった。
23 それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」”
 

黙示録ということばには、「ベールをはずす」という意味あいがあることは、以前述べました。
そのことに関して、上記エゼキエル書では「ベールをはがし、わたしの民をあなたがたの手から救い出す」と語っています。これらの意味あいを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”17 人の子よ。自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔を向け、彼らに預言して、”

終末の日は、ベールの下に隠された、封印された終末の預言が開かれる日ですが、それはまた、
偽りや誤りを語る偽預言者、偽教師の偽りがあらわにされる日でもあります。終末に関して、
彼らはただ、「自分の心のままに預言」しているだけに過ぎないのです。
「うなぎの特上と、上と並があるけど、君はどれを選ぶ?」などと聞かれれば、皆、自分の好きな、「心のままに」「ぼくば特上だ!」「ぼくも同じ」「ぼくも」などと、一番自分の都合のよいものを選ぶに決まっています。

それと似たように、彼らは聖書の解釈に関しても艱難前、中、後といういくつもの選択肢から、自分の好きな解釈を勝手に選んでいいのだと、「誤解」しています。
しかしそれは誤解です。聖書はうなぎのかばやきではあるまいし、自分の心のままに好きな説を選ぶべきものではありません。終末に関して、神のいわれたただ一つの正しい道があるのであり、後は皆偽りとすべきなのです。

聖書の解釈に関しては、いくつもの選択があるわけではなく、主の語った一本の正しい道とサタンの偽りの多くの道、広い道があるだけなのです。
艱難前、艱難中、艱難後、いくつもの解釈があるように見えますが、実際には正しい一つの種と悪魔が後からまいた多くの毒麦があるだけです。
彼らは、「終末の日にキリストのために苦難なんかに会いたく無い」という「彼らの心のままに」聖書を解釈しているので、「聖書のどっかにおとぎ話、キリスト様が2度にわたって再臨するという空想話」が書いてあるに違いないと夢想してこんなとんでも話にひっかかったのでしょうが、残念ながら、よく読めば、マタイ、マルコの昔から、聖書のどこにもそんなおとぎ話は書いてありません。

彼らは「サンタクロースがクリスマスの夜、プレゼントを持っって家にやって来る」と小さい時から、教えられて育った子供のようなものです。よくかんがえれば、トナカイに乗って、こんな東京のアパート迄、サンタがやって来るはずはないのですが、そう思いこんで育ったので、なかなか頭の切り替えが難しいのです。しかし、どんなに心の中に焼き付いた教えであっても、これらは「偽り者」から出た、空想話にすぎません。

”18 言え。神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たちにわざわいが来る。あなたがたは、わたしの民である人々をわなにかけて、自分たちのために人々を生かしているのだ。”
 

さて、ここで「ベールをつくる」というように「ベール」について述べられています。
ベールは黙示録(ベールをはがすという意味がある)、また終末の預言の啓示(ベールをはがすの意味)と関係しています。

この女達、すなわち教会、また預言者達、すなわち教師達は、「ベールを作って、人々をわなにかけ」ています。彼らはベールをはがしているのではなく、逆に作っているのです。ですから、この教師達は、終末預言の啓示を開くことに反対する、とどめている人々であることが想像されます。

主が明確に聖書の中で命じた、たとえを解釈しようとする人々に対して、「霊的解釈はよくない、危険だ」などと反対する教師達はまさにこのような人々です。
彼らは、「みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ」て、その働きをとどめています。また、「あらゆる高さの頭に合うようにベールを作」り、すなわち、あらゆる人々に対してもっともらしく、この啓示の理解をとどめ、反対しています。「人々をわなにかける女たち」と書かれているように、このような女、教会の教え、たくらみに惑わされる人々は、終末の日のわなを逃れることはできないでしょう。
この女にだまされる人々にとっては、終末の日は、それこそ、思いもかけず、わなのようにやってくるでしょう。

彼らの教理にだまされ、「まだまだ第三神殿もできていないから当分大丈夫」などと根拠のない、安心をしている人々はその日慌てるようになるでしょう。

これらの教会、教師達に対して、主は「自分たちのために人々を生かしているのだ」と語ります。
これらの自己中な終末論を
信望する教会にとって、「主に仕える教会、みことばに仕える教会」などということばは、ただの無意味なキャッチフレーズに過ぎず、彼らは自分の妄想を吹聴するために、信者を集めているに過ぎないと主は非難しているのです。

19 あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行ない、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。”

小麦、パンは神のことばに関するたとえです。彼らは終末に関してまやかしの教えを行います。「まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行な」うのです。その結果、「死んではならない者たちを死なせ」ます。死、生きるとは、聖書の中で罪と関係することばです。ですから、罪から解放されるべき人々は、彼らのまやかしの教えのため、命に、義に至らないのです。また、「生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。」と書かれています。
罪をはっきり指摘して悔い改めるべき人々さえ、「クリスチャンと名がつけば、どんな罪を犯し続ける者でも救われる」などというまやかしの教理のため、悔い改めようとしないのです。

20 それゆえ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す。”

しかし、それらの偽りが一掃される日が来ます。それは、以下の箇所で語られているように、
教会、みこころの教会から、蛇の偽りが一掃される日です。
 

黙示録12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。”

今、蛇のわな、教えのわなは教会を席巻、占領しています。神学校に行かなければ、教会の牧師にはなれず、その神学校では、Q資料だ、史的イエスだ、復活は民衆の願望がもたらした神話だなどと冒涜な教えがあふれています。そして、ここで育ったそれらの「健全な教理を持った」牧師達を通して、
「クリスチャンと名がつけば、裁かれない」「艱難の前に天に挙げられる」などという、おとぎ話としか思えない異端的な教えが教会を占領しているのです。

終末の日に教会が挙げられるから「艱難の心配をする必要はない、要するに艱難時代のために備える必要は無い」という「わなの教え」は、
「終末に第3神殿が復活する、これがマタイ24章でイエスが預言した宮の崩壊の預言だ」とか、
「中東の七年の平和条約がダニエルのいった1週の契約の預言だ」などという嘘とあいまって、
終末の民を惑わしています。また、わなとなっています。そして、人々がこれらの巧妙なわな、嘘を逃れることは、難しそうに見えます。

しかし、主は「わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。」と言われます。ですから、終末の日にこれらの嘘に気がつき、正しいことを見ていく人々があらわれるのです。

終末の偽りの教え、偽りの終末預言解釈は、まさにわなのように人々を納得させ、惑わしていますが、しかし、主は、「それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す」と言われます。

”21 わたしは、あなたがたのベールをはがし、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。わなにかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにいなくなる。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。”

さて、この偽りの教師達から、その民を救い出すことに関連して、聖書は、「ベールをはが」すことについて述べていることを覚えて下さい。ベールをはがすとは、「黙示録」と関係があることばであり、
以下のように、啓示を開くことを語っているのです。


コリント3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおい(ベール)を掛けたようなことはしません。
14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおい(ベール)が掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。”

イエスの時代はまさにこのベールがはがされ、人々が神の救いを見た時代です。
当時の律法学者、パリサイ人達による、「盲人を手引きする盲人」の教えを聞いていた人々は、
イエスにより開かれる、啓示により、聖書が真に語っていることを理解し、神の福音を聞いたのです。
この時、「わなにかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにいなくなる。」とのことばは成就しました。

同じことは、終末の日に更に大きな形で成就します。終末の日に主はベールをはがし、啓示を開き、
多くの「わなにかかった者たち」を救い出します。
サタンが終末の日に関してかけたわなはまさに大成功を収めており、多くの神の子は、だまされて、
「終末の日、黙示録の日はイスラエル民族の時代に移り、教会はその間、天に携挙される」などというほら話にすっかりだまされていますが、しかし、そのたくらみが成功する前に、主は啓示を開き、その結果、多くの人々が真実を、真理を見るようになるでしょう。

その時、多くの人々がこれらの偽り、誤りの教理を離れ、盲目になって、オームのように偽りを繰り返している、教師達から離れていくでしょう。もう人々は、彼らのことばを受け入れないのです。「わなにかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにいなくなる。」とはそのことを語ります。

22 あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった。”

イエスの時代の律法学者、パリサイ人達は、このようなことをしていました。神が「悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ」ていたのです。
彼らはヨハネ伝に出てくる「生まれつきの盲人の青年」を「お前は全く罪の中に生まれた」と宣言し、罪に定めていたのです。これは、イエス、「ことばなる方」の判断と異なります。同じことが今の時代にもあるかもしれません。

また、「悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった。」と書かれています。
このことは今の時代に起きていることです。主は聖書の中で確かに「主よ主よ」といいながら、不法を行う者は、神の国を見ないことを述べています。だから、行いが大事なのです。

それなのに、「何の行いがなくてもよい、そのままでよい(罪あるままで?)」などと惑わすことを述べて、罪の行いから立ち返ることを語らない者は、悪者を力づけているのです。

23 それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」”

それゆえ、偽りの教理をおうむの様に繰り返している教師達にこのことばが述べられています。
「もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。」と書かれているように、これらの
伝統的かもしれず、多くの神学校で教えられているかもしれないが、しかし、聖書の真理を曲げる教師達の教えに異義を唱える人々が出てくるでしょう。かつて聖書に熱心だと自分では思っていても、その実、「ことばなる方」に敵対していた律法学者、パリサイ人の教えから多くの人が離れていったように、必ずそのことは終末の日に起こります。

全ての人がそうなるとはいいません。しかし、「わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す」と書かれているように、終末の日、神が選ばれた民の間ではそうなると思われます。

繰り返しますが、聖書は、終末の日に、ベールをはがすこと、啓示が開かれることを明らかに述べています。
そして、その日は、教会の中に浸透したあらゆる偽りを主が一掃する日であり、大きな、教理の区分の日です。

その日、主のみこころを行なえるよう祈りましょう。

ー以上ー