No.270人間の教え(2)

”テキスト:マルコ7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」”

本日は「人間の教え(2)」としてさらにこのことを見ていきましょう。
主はかつてイザヤ書を引用して、「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」と語りました。

ですから、人間の理解に基づく、聖書の解釈、教えは、むだ、すなわち神の前に意味の無い、礼拝をもたらすのです。

かつての神の民は聖書でいう「水」について、また「パン」について、人間的な解釈をしており、
真に神がいわんとしていることをとらえることはできませんでした。
 

さて、上記マルコ伝の「人間の教え」ということばの引用は以下のイザヤ書のことばです。

”イザヤ29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
10 主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。
11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。
13 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」”

この箇所を順に見ていきましょう。

”9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。”

聖書の中で、ぶどう酒、強い酒は、霊と関連して語られます。ですから、終末の日に人々が悪霊により、見えなくなることについて語られているのです。

たとえば、例のビデオの中では確かに悪魔的な異言が語られているのですが、この霊を受けた人々にはこのことは、全く問題のようには見えないようです。まさに「目を堅くつぶって見えなくなれ」と書かれている通りです。
 

”10 主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。”

預言者は、今で言う教師、牧師でしょうし、先見者は、教会の将来を語る人々でしょうか。
彼らの目が終末の日に閉じると語られているのです。
まさにこのことは終末の今の時代に起きています。例のビデオで語られているように、悪魔的な働き人が聖会の中で悪い霊を注いでいるのですが、しかし、これらの集会に牧師、教師が率先して参加しています。彼らの目は確かに閉じられています。

「深い眠りの霊を注ぎ」と書かれています。どんな注意深い人でも、電車でぐっすり寝ていたら、
誰が隣にすわったのか、何も気がつきません。同じように、今、教会に起きつつある、獣化にこれらの教師、牧師が気が付かないとしても驚くにはあたりません。彼らは「深い眠りの霊」を受けているのです。
ですから、私たちは人ではなく、自分が目をさまし、そして自分で自分の命を救うことを考えなければならないのです。眠っている人々にあわせていてはいけないのです。

”11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、”
 

来るべき終末に関して主はその聖書の中に細かく、警告を記しました。また、多くの幻を秘したのです。

しかし、終末の民にとっての問題は、これらの幻、警告が「封じられた書物のことば」のようになってしまったことです。
昔の羊皮紙なりの巻き物の書物は、その上に封印をします。缶詰めの中に入ったまぐろのフレークなりが、缶切りがなければ開けることができないように、この書物も封印を解かない限り、開くことができません。

多くの人々は、人間の知恵に頼った終末預言の解説書なりを読んで、もうこれらの内容がわかったかのように誤解しています。しかしそうではありません。彼らは見てきたような嘘を書きますが、実際は、彼らにとって、これらの預言は、幻は、「封じられた書物のことば」のようなものなのです。

「読み書きのできる人」とはこの書、聖書をそしてそこに書かれている終末の預言を読めるということになっている人々です。具体的にいえば、今の時代の神学者、教師達のことでしょう。

彼らにこれらの終末の預言を渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」というようになるというのです。

これは今の時代、確かにそうです。彼らは類推や思い付きで物事を語っているのです。
実際に読んでいるわけではないのです。

”12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。”

「読み書きのできない人」とはこの書、聖書の専門家ではない人々のことでしょうか。彼らに向かって、「どうぞ、これを読んでください。」、「この終末の預言を読みとって下さい」といってもやはり、「私は、読み書きができない。」、「私は終末の預言を読み取ることができない」というようになるのです。
 

すなわち、終末の日に聖書の専門家といわず、そうでない人にかかわらず、誰も彼も、
この書が読めず、この終末の預言が読み取れなくなるといっているのです。
何故そうなるのでしょう。
それこそ、彼らが「人間の教え」を積み重ねたその結果なのです。
お江戸日本橋は各街道の起点です。ここを西に下っていけば大阪に着くはずです。
しかし、最初を間違え、北に向かって歩み出してしまえば、いくら行っても大阪には着きません。
それどころか、歩けば歩く程、目的地から遠くなってしまうのです。

同じ意味あいでこれらの「専門家達」は始めから、間違えており、スタートから間違えているのです。
「たとえ」について語った主のことばに関して、「これは誇張的表現である」などと偉そうに講釈をたれているチェーンバイブルのように、彼らは「聖書は文字通り読むもの」「霊的解釈はいけません」
などと人間的な教えを積み重ねているので、結果として、終末の預言を読めない、理解できないようになったのです。
 

”13 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。”

ここで「人間の教え」(ここでは「人間の命令」と訳されている)について書かれています。
ですから、聖書は、「人間の教え」と「終末の預言が読めない、閉じられ、封じられたままである」こととは関係があるとここで暗示しているのです。すなわち、「人間の教え」に従う、教師、民にとっては、これらの幻、終末の預言は「封じられた書物」のようになると語っているのです。

これらの2つは関係があるのです。

また、「口先で近づき、...その心は神から遠く離れている」民もこの「人間の教え」に巻き込まれていくようです。

ですから、彼らが終末の預言を理解できない、封印を開くことができない2つの理由があることがわかります。それは、
1. 人間的な解釈、解説を優先して、聖霊の知恵を求めない。
2. 真の礼拝をしようとしない。

14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」”

その結果、終末の日は、彼らの「人間的な解釈、聖書理解」とはかけ離れた形で実現するようになります。

それがここに書かれている「見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。」ということばの意味あいです。
 

かつて、「不思議なこと、驚き怪しむべきこと」が起こりました。それは、「イエスの時代」のことです。「ダビデの子孫、王様としてのメシア、キリスト」を待望していた神の民の目の前に神はびっくりするような方法で「メシヤに関する預言」を成就しました。

これは人々の裏をかく、驚くべき方法であり、律法学者、パリサイ人達、いわゆる専門家は、みなことごとくナザレのイエスを見分けることに失敗し、彼を正しく認めることができませんでした。
またその当時の多くの神の民も同様だったのです。

しかし、神は前もってメシヤについて語られたこと、預言を成就しなかったのではなく、このイエスの生涯の中で300以上の旧約聖書の預言が成就していることを研究者は述べています。

いわく、「処女から生まれる」「ユダの部族」「ベツレヘムで生まれる」等の預言は皆、成就したのです。
そして、それにもかかわらず、専門家達は皆間違えたのです。

確かに、これは、「不思議なこと、驚き怪しむべきこと」だったのです。さて、主イエスの時代に起きたことは、いわば最初の「不思議なこと、驚き怪しむべきこと」でした。しかし、聖書は
「ふたたび」不思議なこと、驚き怪しむべきことを行うと述べていることに注目して下さい。
これは、終末の日に起きます。

主イエスの時代、「文字とおりの解釈」すなわち、人間の教えにこだわり、金科玉条のようにしていた人々は皆ことごとく失敗しました。「メシヤ」を正しく理解できなかったのです。終末の日にも同じことが起こるでしょう。
人間的な解釈にこだわり、聖書のたとえについて語った主イエスの教えを投げ捨てている人々は、
終末の記事に記されている「エルサレム、宮」等の記事に関して、文字通りの解釈にこだわります。
その彼らにとって、終わりの日に、「不思議なこと、驚き怪しむべきこと」が起きるでしょう。
 

”この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。”

主イエスの時代、神は人間の教え、知恵をうやまい、神の戒めを捨て去る律法学者達に怒りをあらわしました。彼らが「自分達が得意」としていた聖書の預言を理解できず、メシヤなる方を正しく受け入れることができかったことは実は神から出たことなのです。

今、同じことが再び繰り替えされようとしています。
人間的な知恵で、「進化論は科学的だ」「Q資料」などとわけのわからないことを語っている自称「知恵ある者」「悟りある者」が裁かれる日が近付いています。

彼らは決してこの終末に関する封印を開くことも読むこともないでしょう。逆にイエスの時代の学者達が自信満々で「間違えた」ように、彼らも終末の「油注がれた者」たちを正しく理解し、対応することができないでしょう。それは、彼らの裁きの日が近付いており、主が彼らの目をおおったからです。

その日、「知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される」とのことばは再び成就するのです。

しかし、私たちにあっては、主にあって、目を開いていただき、正しい終末の理解を求めていきましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。
 

ー以上ー