NO.269 人間の教え

”テキスト:マルコ7:
1 さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。
2 イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、
3 「「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
4 また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。「「
5 パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
9 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。"
 

本日は、「人間の教え」としてメッセージしたいと思います。

かつて主はパリサイ人達に向かって、「 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」と言いました。

彼らの礼拝は神の前に意味がない、何故なら、それは人間の教えに過ぎないからだといわれたのです。

彼らは宗教的に熱心であり、聖書の専門家だと自分達は思っていたのですが、「それは人間の教え」に過ぎないと他でもない主御自身がいわれたのです。
それどころか、主は彼らについてマタイ伝では、「盲人を手引きする盲人」だとさえいわれました。
一生懸命神の前に仕えているつもりであっても、しかし、主御自身から、「盲人を手引きする盲人」などと厳しい評価を受けることがあり得ることをこのことは示しています。

さて、これらの記事は単に昔話を披露するために書かれているのではなく、「終わりの時代の」我々への警告として記載されていることを思い出して下さい。
過去とそして未来を知る唯一の方がこのことを記されたのです。終末に生きようとする我々はこの教訓から、警告を受けていくべきではないでしょうか。

今の時代、この「人間の教え」はますます教会の中に広がっています。そして、その教えが仇になり、また、その教えに毒されたため、多くのクリスチャンが真実を見えなくなっているようです。

さて、彼らは間違えて、神の教えを自分達の解釈で、「人間的な教え」に変えてしまったのですが、
どのように間違えたのかを見ていきましょう。

彼らの状態についてこう書かれています。

”3 「「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
4 また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。「「

彼らは手を洗わずには食事をせず、また、水差し、銅器を洗うことなどたくさんの守るべきしきたりがありました。
これらは、しかし、一面、聖書に根拠を置くしきたり、教えのように思えます。何故なら、以下のように
旧約聖書には「水で洗う」ことに関して多くの記述があるからです。
 

”出エジプト記 29:4 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。

出エジプト記 40:12 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、で彼らを洗い、
出エジプト記 40:30 また彼は、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。
レビ記 1:9 内臓と足は、その人がで洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
レビ記 1:13 内臓と足は、その人がで洗わなければならない。こうして祭司はそれら全部をささげ、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
レビ記 6:28 さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、で洗われなければならない。
レビ記 8:6 それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、で彼らを洗った。
レビ記 14:8 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営にはいることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。
レビ記 14:9 七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とす。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、をそのからだに浴びる。その者はきよい。
レビ記 15:5 また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。
レビ記 15:6 また漏出を病む人がすわった物の上にすわる者は、自分の衣服を洗い、を浴びる。その者は夕方まで汚れる。”

アロンやその子らが、祭司として神の前に立つとき、彼らは水で洗うように聖書に記されているのです。
どうも神様は不潔なのはお嫌いのようです。それなら、それをもっと徹底して、神の民として、市場から帰った後、水で体を洗うことは神に喜ばれることではないでしょうか。
また、青銅の噐がすりみがかれ、水で洗うことが命じられているのです。どうも、神様は、不潔な
噐はお嫌いなようです。それなら、もっと徹底して、どんな噐も水で洗うようにすれば、もっと神に喜ばれるのでは無いでしょうか。
私たちの目には、彼らの教えの発展、解釈は妥当のように見えます。
しかし、主イエスは、これらを「人間の教え」として、非難、排除しているのです。

では、彼らの問題、失敗とは何でしょうか。そもそも、神は「水の洗い」を通して何を我々に命じておられたのでしょうか。

水は今迄何度も見てきたように聖書では、霊、聖霊のたとえです。ですから、祭司の備えの為に、
「また彼は、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。出エジプト記 40:30 」という時、いわんとしている意味は明白です。神に会う者は、水の洗い、聖霊による洗いがなければ、祭司のつとめ、神に仕えることなどできないということをたとえで表現しているのです。

また、「それが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。」という時もそのいわんとしている意味も明白です。噐、神の器、働き人は、水、聖霊で洗われ、清められなければその用に立てないということをたとえで表現しているのです。

このたとえ、みことばの意味の本質を理解せず、何度も水浴びしたり、風呂にはいったり、
こまごまと噐を水洗いすることに精を出している彼らはただ、人間的な理解で聖書を読み、神の主旨を誤解し、結果として神の前にも人の前にも役立たない者になっているのです。確かに彼らは熱心なのでしょうが、しかし、パウロのいうよううに「その熱心は知識に基づくものではない」のです。

神は「風呂に何度も入ること」や、「食器をどれもこれもまめに洗うこと」などを強調しているわけではないのですが、彼らは間違えているのです。
かつて主が「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」といわれた時、弟子達は「自分達がパンを持ってこなかったからだ」と本物のパンのことだと、誤解しました。しかし、主は「パンのことなどではない」と語りました。
だから、この時、弟子達が文字どおりのパン、クリームパンやアンパンのようなパンのことを考えていたなら、それは、間違っていたのです。同じように、「水で洗う」と聖書で読む時、文字どおりの「水」のことしか見ていない人々は間違えているのです。

このように、この当時の人々は間違えて聖書を読み、その結果、神の意図と全く懸け離れた所で
無為に力を費やしていました。さて、問題は今の神の民も同じように聖書を人間的にしか読めないことであることを覚えて下さい。

聖書は「終末に生きる人々」に対して書かれたものであり、イエスの時代の人々の誤りは今の我々への教訓として書かれたものなのです。

はっきりいいますが、今の時代、「人間の教え」、人間的な理解で聖書を読んでいる人々は、たくさんいます。

上記で記したように「人間的な教え」の一つの特徴は聖書を「文字どおり」にしか読めないことです。
かつて聖書の「水」「パン」を文字とおり読んだ人が間違えたことは語りかけがあります。

今の時代の教えの一つの特徴は、「文字通りに読む」ことが強調されていることです。
ですから、たとえば、マタイ24、25章の終末の記事の中でエルサレム、宮について書かれていることも「文字通りの」エルサレム、宮であると理解するのが、「正しい、正統的な解釈」ということになっています。

しかし聖書は、「イエスは..たとえによらないで語ることはなかった」と書いていないでしょうか。
ですから、かつて「水やパン」を文字通りとらえていた人達が間違えており、また「人間の教え」として主に非難されたように今、文字通り、読む人々もそうである可能性があるのです。

これらのエルサレム、宮は「教会」のたとえであり、
終末の日に宮が崩壊するとは、終末の日に起きる教会の崩壊を預言しています。

人間の教えに従い、「これは中東のエルサレム、そしてそこに建設される第三神殿だ」などと教える人々、またそれに従う人々は、「盲人を手引きする盲人」であり、終末を正しくとらえることができず、「ともども穴に落ち込むこと」をとらえましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー