No.268 新しいぶどう酒

テキスト:ルカ5:30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
33 彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
34 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。
35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」”

本日は、「 新しいぶどう酒」という題でメッセージしたいと思います。

ルカ伝に書いてある「新しいぶどう酒」の意味あいを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」”

ここで「パリサイ人やその派の律法学者たち」、すなわち、その当時の宗教の専門家の人々が主に
異義をとなえ、批判していることがわかります。彼らの非難は、主イエスの方法、やり方が「我々の方法、神の前の常識と異なる」いや「間違っている」ということに基づきます。
罪人とは、距離を置くべき、離れるべきなのに、何故、親しく食事迄するのかという思いが彼らの内にあるわけです。彼らの方法、教義と、イエスのそれとがぶつかっているのです。
また、「古い方法」と「新しい方法」とがぶつかっているともいえるかもしれません。

彼らの非難は、必ずしも聖書から懸け離れたものではないことを理解して下さい。
逆に旧約聖書には、「罪人とともに歩まない」ことを奨励している箇所はたくさん存在するのです。
ですから、同じ聖書を読みながら、神の民としてとるべき方法が異なる、ぶつかり合う、そのような時が
「イエスの時代」なのです。そして、「イエスの時代」は終末の型であり、同じ問題は終末にも起きてきます。
 
 

”31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」”

彼らの非難に対して主イエスが答えています。主のみこころは、「罪人を招いて、悔い改めさせるため」であり、そのために古い彼らの方法、「罪人と一緒に食事をしない」との方法に従わず、逆に
「罪人と一緒に食事をすること」により、彼らを悔改めに導いているのです。

神のみこころは勿論、「罪人を招いて、悔い改めさせる」ことであり、聖書の字句にこだわらず、
ただしく律法を行っていたのは主イエスだったのです。

しかし、何はともあれ、同じ聖書(旧約)に基づきながら、これらの新旧二者の間には、方法に相違があることをとらえて下さい。

33 彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」”

今度は断食をしないということで主は非難されています。恐れげもなく主イエスを非難するとは随分大胆な人々だなと思うのですが、終末には、もっと大胆な人々が出てきます。

今は、「ことばは神である」といわれた方に対して、恐れげもなく、非難、変更を迫る人々が多くいます。「聖書の差別用語は書きかえろ」
「男女差別はけしからん」「聖書の男性形で書かれているところ(heとか)を女性形に書き直す」と主張する人々は自分が何をしているのかわかっているのでしょうか。

”34 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。
35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」”

断食に関しては基本的に「花婿」がいる間は、しないのです。ですから、花婿、今の時代では、聖霊となられた方が教会にいる間は、食べること、みことばのパンを食べることを禁じる必要はないし、また飲むこと、聖霊の水を飲むことを禁じる必要はないのです。しかし、「やがてその時が来て、花婿が取り去」られる時が教会に来ます。どのメッセージにも蛇の毒が混ざり、またどの聖会にも獣の霊が満ちる時が来ます。その時、我々は断食すべきです。
(悪霊)の水を飲む事を拒否し、毒のパンを食べるべきではないのです。

さて、何はともあれ、ここで主の受けている非難は、「我々の伝統的な方法に従わない、それは神の前に、また聖書的におかしい」というものであることを理解して下さい。
 

”36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。

さて、彼らのいわば、「何故お前は、我々の(古い)礼拝方法、手順、しきたりに従わないのだ」という
詰問に関して、主は着物に関連して答えています。

いわんとしていることはこれらの新旧2つの方法、着物を合わせようとすることは無理だということです。

着物とは主につく人々という意味あいのクリスチャンのたとえと思われます。

ここで、新旧の着物について書かれているように、主イエスの時代には、新旧の着物、新旧の神の民がいました。具体的には、旧とは、ここにいる律法学者、パリサイ人に代表される人々でしょうし、新とは、12弟子を始め、主につく弟子達です。

これらの二種類の人々を合わせよう、一つにさせようという試みは人間的には「一致」ということで、良さそうに見えるかもしれませんが、しかし、他でも無い、主御自身は、そうは語っていません。

「新しい着物の切れで古い着物に継ぎをする」とは、具体的には、たとえば、12弟子の一人なり二人なりが、
出かけていき、パリサイ人達を始めとするユタヤ教の会堂なりに常駐して、人々にキリストの教えをのべつたえ、彼らにその教えを守らせようとすることでしょうか。

しかし、そんなことを彼らが受け入れるでしょうか?使徒行伝に記されている、ユタヤ教徒のパウロやペテロ、ヨハネ達への迫害を見れば、そんなことは、実際的には無理だということがわかります。

「新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです」と書かれた通りです。
キリスト教徒に色々妥協させて、旧来の律法や、割礼を守らせて、中間点を見い出すという手を考える人もいるでしょうが、パウロが割礼に関してケパを非難したように、それもみこころとは思えません。
もし初代教会の彼らがそのような妥協を繰り返していたら、そのような方法は結局、初期のクリスチャンの一致や信仰を変節させたことでしょう。
まことに、主が「そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになる」といわれた通りです。

37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。”

さて、このこと、古いものと新しいものとを無理に共存、一致させるべきでないという原則は、ぶどう酒、すなわち、霊の働きに関してもいえることがここに書いてあります。

最初の教会時代、ペンテコステの時代を考えるなら、それは、新しいぶどう酒の時代であったことを聖書は述べています。以下のとおりです。

”使徒2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒(新しいぶどう酒:KJV訳)に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。”

ペンテコステの時、下った霊が新しいぶどう酒なら、当然、その対局に古いぶどう酒、古い霊があるわけです。古いぶどう酒、古い霊は、旧約の律法学者、パリサイ人達が受けていた霊です。
彼らはこの霊に従い、神に仕え、聖書を解釈し、そしてこのイエスという人物を吟味していたわけです。結果として彼らの判断は、ナザレのイエスとその教えは「異端」、その霊の働きは、「ベルゼブル」だということでした。そして、そのように彼らが判断することによって、結果としてそういう彼ら自身がどのような霊に導かれているのかを示していました。神から来たイエスの教えを受け入れられないということは、彼らが蛇の教えを受け入れていたことを示すし、ペンテコステの日に下った聖霊を受け入れられないということは、彼ら自身が別の霊、惑わしの悪霊に導かれていることを示すのです。

話は変わりますが、悪霊は、狂人や、犯罪人のみに働くと思ってはいけません。
逆に宗教的な人、宗教の専門家、高い地位の人々に巧妙に働き、サタンの意を行わせることを理解して下さい。
12弟子の一人ユダに入った悪魔はその一つの例であり、民衆を先導して、イエスを十字架につけるようたきつけた律法学者達もまた別の例です。
聖書を知っているから、教えているから、高い宗教的な地位にいるから、悪霊や悪魔に用いられれているはずはない、などという考えは誤りです。そして、この原則、宗教の専門家が悪魔に用いられるという原則は今でも、いや今こそ、働いていると言うことを覚えて下さい。
このことは神の前、また見えている人々にとっては霊的な常識です。

さて、ここでぶどう酒と皮ぶくろについて書いてあります。ぶどう酒とは、聖霊のことです。
それでは、皮袋とは何でしょう。これは恐らく、聖霊、ぶどう酒を入れる物という意味あいでの、
教会、神の民の集まり、また組織や方法をさすものでしょう。

そして新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるなと主は言われます。ですから、新しい霊、聖霊が下ったなら、その時、神の民の集まり、教会なり、組織なりが新しく変わるべきなのです。

実際、ペンテコステの日に新しいぶどう酒が下った日もそのようでした。この日は、教会といわれる、
神の民の新しい集まりが始まった日でもあるのです。確かに新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れられたのです。もし、このペンテコステのできごとが旧約のユタヤ教のシナゴーグ、律法学者、パリサイ人の間で、
起きたのなら大混乱になるでしょう。また、この聖霊の働きもストップしてしまったかもしれません。

「そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。」と書かれている通りです。

38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。”

ですから、新しいぶどう酒、聖霊が下ったのなら、皮袋、教会、神の民の組織や、方法も新しくなるべきなのです。

さて、以上のこと、新しいぶどう酒に関することがらは、ペンテコステの日においては、真実でした。そして、終末の大収穫、聖霊の大傾注の日にも真実であることを覚えて下さい。というより、ペンテコステの日は、終末のリバイバルの型であり、この主の新しいぶどう酒に関することばも、単にペンテコステの日のみならず、終末の日をも含んだ預言なのです。

何をいわんとしているのでしょうか。それは、終末のリバイバルの日にも、新しい着物、新しい皮袋が現れてくるということをいっているのです。今の教会、組織は全く古い物になっており、退廃のきわみの中で、創世記は神話だ、進化論は正しい、地獄はないなどというたわごとを繰り返しています。
これは、黙示録に書かれている過ぎ去るべき「古い天と古い地」なのです。

このみことばが正しいのなら、私たちは、終末のリバイバルの日にこの新しいぶどう酒を入れる新しい皮袋が現れてくることを知っているのです。

新しい教会だとか、新しい皮袋など、そんなことをいえば、かまびすしい人々に「そら異端だ」「その手にはのらないぞ」とか言われることはわかっています。

しかし、我々は人の目や評判や、人からの名誉を求めているのでなく、ただ、神のことばに忠実であるべきではないのでしょうか。

聖書のことばは確かに終末の日の新しい着物、新しい皮袋について述べているようです。
このことに目を留めましょう。

39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」”

さて、最後にさりげなく深い意味のあることばが記されています。
それは、古いぶどう酒を飲む人は「新しい酒」を望まないということです。

このことは、確かにペンテコステの日に実現しました。「約束の聖霊」が下ったペンテコステの時代に、全ての神の民がこのぶどう酒、聖霊を受け入れ、歓迎したわけではありません。

それどころか、このぶどう酒を受けて、力あるしるしを行うペテロ、ヨハネ、パウロ達に反対した人々がいたのです。それは、聖書を読み、神を礼拝するという人々です。具体的には、パリサイ人を始めとする人々です。

彼らは確かにこの新しいぶどう酒、聖霊を望まなかったし、歓迎しなかったのです。
逆にイエスとその弟子をベルゼブル、悪霊であると非難したのです。
神を知らないローマ、ギリシャ人さえこのペンテコステの霊を受け入れたのに何故、神を知っているはずの彼らがそのように、逆の反応を示したのでしょう?
このことは謎、本当に謎です。

しかし、上記、「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。」とのみ言葉はその理由を明確に表します。

その理由は、彼らが古いぶどう酒を飲んでいたからです。彼らは惑わしの霊の中におり、聖霊の声を退けていました。それゆえこの「約束の聖霊」を見分けることも受け入れることもできなかったのです。

そして彼らは、「『古い物は良い。」、すなわち、自分達が受けている霊こそ、正しい霊だと言っていたのです。どうぞ我々はこのことがらから、警告を受けなければならないことを覚えて下さい。何故なら、
同じことが、終末の日の「新しいぶどう酒」についても繰り返されるからです。
今、古いぶどう酒を受け、それに満足している人々はこれから起ころうとしている終末の聖霊、新しいぶどう酒を決して受けることはできません。

今、トロント、ペンサコーラを起点として起こりつつある、「笑いのリバイバル」は、
決して聖書のいう「新しいぶどう酒」ではありません。むしろ、「古いぶどう酒」、それも
とっておきの、古い酒、エデンの園以来の惑わしの霊なのです。

ビデオの中で語っているように彼らは悪霊を呼び起こしているのです。

かつてペンテコステの日にあったように終末のその日、約束の聖霊は下るでしょう。
しかし、古い霊を受けている人々は、この霊を見分けることができないでしょう。むしろ、
「おかしな霊、悪霊」として退けるのでしょう。「『古い物は良い。』と言うのです。」と
書かれている通りです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー