NO.267 悲しむ者の額に印をつける

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エゼキエル9:
1 この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」
2 見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のそばに立った。
3 そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、
4 主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」
5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。
6 年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。
7 ついで主は彼らに仰せられた。「宮を汚し、死体で庭を満たせ。さあ行け。」彼らは出て行って、町の中で打ち殺した。
8 彼らが打ち殺しているとき、私は残っていて、ひれ伏し、叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出して、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」
9 すると、主は私に仰せられた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。それは、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない。』と言ったからだ。
10 だから、わたしも惜しまず、あわれまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行ないを返す。」
11 ちょうどそのとき、腰に筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ているその人が報告してこう言った。「あなたが私に命じたとおりに私は行ないました。」”

終末の黙示録の時代に、14万4千人の人々に聖霊の印をつけられることが書かれています。

このこと、終末の日に聖霊の印を受けることは終末のクリスチャンにとって、大事なことのようです。
我々は聖霊の印を受けるためには、どうすれば良いのでしょうか。

そのことに関して、エゼキエル書にも同じく「聖霊の印をつけられる」ことについて記されています。
ここから、この件に関して学んでいきたいと思います。

順に見ます。

”1 この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」

ここで主の町を破壊することに関する命令を聞きます。神が「美のきわみ」と言われた町に関して、今、破壊の命令が出たのです。これは、終末の教会への裁きの命令の型です。
神のこの町への愛、恵み、助けを知っている当時の人々にとって、
エルサレム破壊に関して神御自身が命令を出されるなどということは
人々には、信じられないことでした。
だから、エゼキエルにしてもエレミヤにしてもそんな「とっぴょうしもない」ことを述べる預言者のことばは彼らにとって受け入れられなかったのです。

その結果、彼らエゼキエル等の預言者は、惑わす者、偽りを述べる偽預言者として、排斥されたのです。
しかし、事実はどうだったのでしょうか。事実は、これらの預言者は正しいことを述べたのであり、
確かに主はこの町に裁きを行われたのです。

同じことは終末にも言えます。神の愛された教会に裁き、破壊が来るなどという人々のことばを誰が信じられるでしょうか。しかし、事実神はこれらのことを語られ、終末の日に破壊は起きるのです。

2 見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のそばに立った。

エゼキエルの日に都を破壊する者がやってきました。同じように、終末の日にも神の都でたとえられる教会が破壊する者がやって来る日がきます。

彼らは「北に面する上の門を通ってやって来」ます。北は度々書いているように、南の国、ユダの北に位置する北イスラエル、今のカトリックの予表と思われます。

既にこのカソリックのすみずみまで浸透したあらゆる偽りの教え、惑わしの霊は終末の日に音をたてて、プロテスタントを侵攻します。これは、同じ聖書を読む民からの惑わしなので、非常に効果の強い惑わしとなるでしょう。

”3 そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、
4 主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」”

さて、ここで神の印を押される人々があります。また、それ以外の押されない人々もいるのですが、押されない人々の場合、それが、そのまま裁きに直結します。

何故なら、「年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。」と書かれているように印のついている者以外はみな、滅ぼされるからです。

これは、黙示録の「しるしをつける」記事を補足する記述です。ですから、終末の日に我々が万一、このしるしをつけられないのなら、大変なことになる、裁きと滅びに直結することを覚えて下さい。

この黙示録の「14万4千人のしるしをつけられる人」は大事な記事なのですが、またそれゆえに色々とやはりガセネタが横行しているようです。

1. その一つはこの14万4千人はイスラエルの人々だけをさすという考えです。しかし、黙示録を研究する人々は、この書に2種類の14万4千人が記されていることを知っています。だから、「しるしをつけられる」のはイスラエルの12部族だけではないのです。この件についてはいつか別途記述します。
 

2. そのもう一つはこの14万4千人は文字どおりの「14万4千人」の人数の人々をさすという物です。
しかし、この数字はたとえです。例えば、黙示録11章の二人の預言者が文字どおり「二人」ではなく、逆に2つの教会を指すものであり、そのため、人数的には二人よりは、ずっと多くの人をさすように、
この14万4千人の数字も文字通りの人数ではないと思われます。

さて、ここで神の前にしるしをつけられる人々の唯一の資格、条件が記されています。
それは、「この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々」なのです。

このこと、「忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる」ということばは、少しばくぜんとしているようですが、しかし、終末においても神の民を区分する唯一の理由となることを覚えましょう。
今の日、終末の日も、この町、この教会内で「行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々」はしるしをつけられるのです。逆に今、現代のキリスト教会内で行われている
「すべての忌みきらうべきこと」に対して、私たちが何の感覚もないなら、その時ははっきりいって、私たちはもう危ないのだということを知って下さい。

今の時代、かつて「剣に囲まれたイエス」の時代のように、「神のことば」なる方を囲む、あらゆる種類の「剣」が横行しています。主の12弟子として三年半の間、寝食を共にしたマタイ、ヨハネなどが書き記した福音書の記述を恐れげもなく、改ざんし、「復活の記述も神話、奇跡の記述も神話、これらは本来の福音書にはなかったものだ」などと見てきたような嘘をつく「Q資料」なる惑わしは、教会内の「蛇の神学者」達の間に流行しています。愚かで悟りのない人々は「うんそうかなるほど」などと、このような見え透いた惑わしにひきずり込まれています。彼らこそ、かつての日、律法学者達から送られ、恐れげもなく、「神のことばなる方」に剣を持って迫った愚かな群集のすえなのです。

この様な状況を見て、ただ傍観せず、痛みを感じ、嘆きも悲しみを感じるなら、その人は幸いです。
逆に何の嘆きも起きないなら、その時、その人は危ないかもしれません。

また、今、教会においては、偽りのリバイバル、悪霊のリバイバルが横行しています。あるビデオの中では、「神の噐、働き人」と称する人々が会衆に悪霊を注いでいます。
このような状態、悪霊が教会の聖会を支配しているのを見て、心の中で、嘆き、悲しみが起きるなら、その人はさいわいです。

ですから、このような表現も可能かもしれません。今の時代には、あらゆる種類の偽りの教え、偽りの霊が横行しています。これらの「この町(教会)で行なわれているすべての忌みきらうべきこと」は終末の日に「神からのしるしを受ける者」とそうでない者とを区分するために許されたテストだといえるのかもしれません。その為に今の時代にはこれらの冒涜が許されているのです。

かつてエゼキエルの時代、宮の中でも偶像礼拝が行われ、そしてそれを嘆き悲しむ人々がいました。
しかしそうでない人もいました。これらの2者の間は、しるしを受ける者と受けない者として明確に区分されました。

同じ様に、イエスの時代にも律法学者、パリサイ人の教えに対して、嘆き悲しみ、そして、警告を与えた、主イエスまたその弟子達がいました。そして、逆にこれらの偽りに何の疑問も感じず、イエスに反対する人々もいたのです。
これらの2者は、ペンテコステの聖霊の火により区分されました。
このしるしを受けた弟子達と異なり、かたくなになったエルサレムの人々は紀元70年にローマ軍により、最後の一人迄、打ち殺されてしまったのです。
このエゼキエル書の「打ち殺せ」とのことばは、この時、一つの成就を見たのです。

同じ意味あいで終末の日の今、教会内に横行するあらゆる偽り、忌むべき方法、霊に対して、
我々が
どのように対応するかで、この終末の日に我々の全てが決まってしまうことを覚えて下さい。

今、教会中に定説となっているかのような「2段階携挙説」に反対する人々など、全く愚かにしか見えません。むしろ、静観して、傍観していた方が賢いように見えます。
また、今このように世界中の教会を席巻しているトロント、ペンサコーラ、聖霊(実は悪霊)の第三の波に反対して立ち上がるなどと、そんな人々は愚かそのもののように見えます。
賢いクリスチャンたる者、そんなことには、手を出さず、もっと皆に一般受けすることをするものかもしれません。

しかし、人前に賢く見えるか愚かに見えるかはともかく、これらの「忌むべきこと」を嘆き悲しむ者にのみ終末の日の聖霊のしるしがつけられること、そのことを聖書は語っているということを覚えて下さい。彼等はその日、神のみからの報いを受けるでしょう。

逆にこれらの「忌むべきこと」を喜んでいる人々は、来らんとする終末の聖霊の大傾注に預かることは決してないでしょう。

”5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。
6 年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。”

この「神のしるしがつけられる時」はまた、それ以外の人にとり、裁きの日であり、死の日であることを聖書は記しています。そして、このことは終末の日にこれらのことば通り実現するでしょう。

ですから、この日は、他の多くの聖書の記述にあるように、2種類の神の民の永遠に至る大きな区分の起きる日なのです。

この記述、「年寄りも..女たちも殺して滅ぼせ」との記述は、他の終末の記述、たとえば、淫婦バビロンの裁き等の記述の別な表現です。

淫婦バビロンの裁きは、夫に忠実な新婦エルサレムと対称的に、この世と姦淫する教会という一面を表すものですが、この「打ち殺す」記述は、「聖霊に聞き従わず」その結果「終末の神への冒涜に関して何の痛みも感じない」神の民への裁きの一面をさすたとえです。

”7 ついで主は彼らに仰せられた。「宮を汚し、死体で庭を満たせ。さあ行け。」彼らは出て行って、町の中で打ち殺した。
8 彼らが打ち殺しているとき、私は残っていて、ひれ伏し、叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出して、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」”
 

この日、神はその愛された「エルサレムの上に怒りを注ぎ出して」、「イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼ」そうとされました。このことは終末の日再現されます。ですから、終末の日にクリスチャンの上に裁きなどないといっている人々はまさに聖書のいう「人々にほめられる偽預言者」なのだということを覚えて下さい。こんな人々にだまされてはいけません。かつて蛇にだまされ、死に至る実を「見るによく食べるによく賢からんとするにふさわしい」と全く逆の思い込みをしたエバは全くの愚か者でした。
同じようにクリスチャンが裁かれる終末の日を蛇にだまされて「すばらしい栄光の時」などと思い込んではいけません。
 
 

”9 すると、主は私に仰せられた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。それは、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない。』と言ったからだ。
10 だから、わたしも惜しまず、あわれまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行ないを返す。」”

この時代の人々の問題は、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない。』と言っているということでした。同じように今の時代のクリスチャンの問題は、「キリストは私たちの教会を見捨てた。キリストを我々を見ておられない」と言っていることです。そのようにことばに出して語ってはいないかもしれませんが、しかし、実際の彼らの行いはそう語っています。

何故、このお方のことばがあるのに、ヒンズー教徒や仏教徒の教えを聞きにいかなければならないのでしょう。彼らの行いは雄弁に「キリストは私たちの教会を見捨てた」との彼らのことばを語っています。
また、この世の精神分析やら、方法論なりを持ち出す人も「聖書のことばに従っていたのではらちがあかない」とその行いにより雄弁に語っています。

しかし、このような不信の人々にはみこころがありません。主に堅くつく人に主はそのみわざを表して下さいます。

”11 ちょうどそのとき、腰に筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ているその人が報告してこう言った。「あなたが私に命じたとおりに私は行ないました。」

この時、腰に筆入れをつけた人の仕事は神の命令通り実行されました。主は語られ、そのことばは空しく地に落ちず、実行されたのです。同じように終末について「書かれている全てのこと」は実行されることを覚えましょう。

これらの警告のことばはかつて語られ、実行されたのです。今、同じように裁きの時が来ようとしていることを覚えるべきです。

繰り返します。今の終末の日、「この町(教会)で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるし」がつけられるのです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー