No. 266  群れと神の剣

テキスト:ヨシュア5:13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
15 すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

本日は、「群れと神の剣」という題でメッセージしたいと思います。

私達が属する群れ、教団、グループと神のことばとの関係について見ていきたいと思います。

順に見ます。

”13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」”

ヨシュアはエリコの近く迄来ました。
何気ない記述ですが、この時の状況を聖書の記述に従って、見ていくと我々に語りかけのあるものがあります。

ヨシュアは常勝イスラエル軍のリーダーでした。エジプト軍を紅海で滅ぼしたイスラエル軍は、荒野における他国の軍隊との戦いにおいて、連戦連勝でした。
そして、いよいよ約束の地カナンへ入ろうとして今、最初の都、エリコを望む地にこのヨシュアはやって来たのです。

他のどの国でもなく、このイスラエルこそ神が選んだ国、この軍、この群れこそ、神が選んだ民と彼は思っていたかもしれません。そこで、彼はひとりの人を見たのです。

戦いにいさむ彼、ヨシュアの関心事はこの人が「我々の味方か、それとも敵か」ということです。
このような 質問をヨシュアのような立場の人が発するのは一見妥当と思えます。彼のような立場、「神の軍、神のグループを」率いる者の口を出るのが妥当な質問のように思えます。

彼が他の人を判断するその基準は、「彼はこの群れ、この神の群れに味方するものなのか、それとも敵なのか」という簡単な2者択一の質問に尽きるようです。
回答に関する反応も簡単であり、味方する者、この神の群れを助ける者、批判しない者、受け入れる者は、「みこころを行う者」「神に喜ばれる者」ということになります。
逆に誰でも反対する者は「敵、サタンの働き」ということになるのでしょうか。

このヨシュアの持っている(と思われる)判断基準は、今、新約の神の民、教会の教団、グループ、群れに属するリーダー、またそこに属する人々が持ちやすいものです。

個人的なことをいいますが、私は自分のクリスチャン人生の中で、いくつかのキリスト教会、教団、グループを経験しました。自分からそう願ったわけではないのですが、結果としていくつかの教団に属した経験があるのです。

教理、組織はそれぞれ違うのですが、その中で共通していえることがあるとすれば、みんな自分のところが一番と思っていることです。ある意味、ヨシュアと同じような考えをしているのかもしれません。

さて、ヨシュアが思わず口にしてしまったことば、「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」とのことばはまことに彼の心を正直に表しているように思えます。
また、彼はこの判断基準に自信を持っていたのかもしれません。「我々が神の群れなのだから、我々が標準である」もしかするとそんな気持ちもあったのかもしれません。これは想像ですが。
 
 

”14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」”

さて、このヨシュアの自信に満ちた(ように見える)質問、問い掛けに対して、この抜き身の剣を持った人から、思いがけない答えが返って来ました。それは、「否」(文語訳)という答えです。
「私たちの敵か味方か」というヨシュアの詰問に対して、No.という答えが返ってきたのです。

そして、ヨシュアのこの(常勝軍、神の軍隊なるイスラエル軍に対してお前は)「敵か味方なのか」という質問に対して、この人は、「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えたのです。
この2者は、お互い、かみあっているようないないような問答をしているわけです。

しかし、どちらの認識が神の前に正しいのか、正しくないのかの判断は、明白です。何故なら、
その後、ヨシュアは、”顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」”と言ったからです。

当たり前のことですが、主のいわれたことが正しいのです。

繰り返してまとめると、ここには、2つのグループ、2つの軍に対する微妙な認識のずれ、違いについて語られていることがわかります。また、ヨシュアは「我々こそ、神の軍隊」と思い込みと確信に溢れて、「お前は我々の敵か味方か」と質問したことに対して、この主の使いは、「否」と答えたことがわかります。イエスではなく、 ノーと答えたのです。ヨシュアの認識に何か間違ったところがあることが推察されます。

しつこく書いているようですが、どうもヨシュアの認識、「我々こそ、神の軍隊(我々こそ基準)」との思い込みは、神の前に受け入れられないもののように思えるのです。

また、イスラエル軍=主の軍という図式はいつも必ず、なりたつとはいえないと語っているかのようです。

これは、旧約のイスラエル軍に関して語られていることですが、新約のどのような教団、教会に関しても同じことが語られることを覚えて下さい。

逆にこの神の使いは、抜き身の剣を持っていました。鞘に入った剣と異なり、抜き身の剣は、すぐにでも切る、刺すことを暗示します。

剣は、「御霊の剣、すなわち神のことば」と書いてあるように、みことばのたとえです。
また、みことばに関連する教理、神学をも含むでしょうか。

神のことばはすでに鞘を払われ、抜き身として用意されており、このことばを曲げる者、偽る者は、この剣で切られ、刺されることが暗示されるのです。それがたとえ「自分達こそ、神の軍、群れ、教団、グループだ」と自負している軍であってもです。

「自分達こそ一番」と思っていようといまいと、いつまでもしつこく、蛇の教理にこだわり、
「キリストがもう一回来る」という当のキリストが聞けばびっくりするようなおとぎ話を離そうとしない人々は、この剣に切られることを覚えて下さい。
彼等にはみことばが仇となるでしょう。

このことは偽預言者バラムが利得にひかれて出かけていこうとしていた時、その道に立ちふさがった、御使いの剣に通じます。

”15 すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 ”

ここに「主の軍」と書かれているように神の前に一つの軍隊があることがわかります。そして、それは確かに存在しています。
人の目の前に多くの教団、教会、グループがあるようですが、しかし、神の前に意味があるのは、この「主の軍」です。我々がこの軍に従うなら、祝福があるでしょうし、もし、敵対するなら、裁かれるでしょう。
我々は他の軍に関しては気にする必要はありません。
この軍が基準であり、この軍のみが基準なのです。

ヨシュアがいうような目に見える(常勝)「イスラエル軍」なりが基準ではないのです。もし、見える軍に基準を置くなら間違えてしまうでしょう。

人の目には人数が多くて、正統的といわれる、軍、教団が良いように見えるかもしれませんが、
そうとは限らないのです。

繰り返しますが、目に見えない唯一の主の軍があり、その軍の将がいます。我々はこの主、この軍のみを基準とすべきです。ですから、この軍に従い、将に従い、みこころを行って、「偽りの教理」に反対し、組みせず、その結果、よしんば目に見える軍、教団、教会から追出されたとしてもあまりあわてる必要はありません。

確かに人の軍、教団、教会からは、さんざん非難され、誰も味方する者もなく、全員一致で追出されたかもしれませんが、しかし、主の軍から追出されたわけではないからです。人に追出されたとしても主のみこころを行っているなら、主が御自身の軍の中で、用いて下さるでしょう。その時、「人に捨てられた石」に関するみことばが成就するようになるでしょう。

現実の教会には、目に見える軍や、将からの評価や評判のみが気になって汲々としている人々が多いかもしれませんし、またそんな人に「我々と意見が違う」と追出されることがあるかもしれませんが、
しかし、目に見えない「神のみからの栄誉を求める」事にこそ、みこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー