No.261 人の言い伝え

”テキスト:マタイ15:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
4 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」  ”

本日は「人の言い伝え」という題でメッセージしていきたいと思います。

主の時代の神の民にとって大きな問題は、彼らの教師が「人の言い伝え」を重用視して、神のことばをないがしろにしていることでした。彼らは実質神のことばを無効にしていたのです。このことはその時の時代、神の前に大きな問題でした.。そして、
このこと、人の伝統的な解釈により、神のことばが本来語ろうとしていることを無効にしてしまうということがらは、終末の日において更に大きな規模で私たちの歩みを妨げています。このことを見ていきたいと思います。
 

順に見ます。

”1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」”

この時、パリサイ人や律法学者たちは、わざわざエルサレムから来て、弟子達が「昔の先祖たちの言い伝え」を守らないといって非難しました。

このことを考える前にユタヤ人達の置かれていた状況、背景を考えてみましょう。
この当時もそして今でもそうなのですが、正確にいうと彼らは2種類の聖典を持っていました。
書かれた聖書の律法、そして口伝律法、第2の律法といわれる、タルムード等です。

これらは、人の書いた注解書です。注解したラビ、賢人達は無知な人々の助けになる、光になると思って、これらの注解書を書いたのでしょうが、しかし、現実はこれらの注解書、ここでいう「言い伝え」は
神の民に誤りをもたらすつまずきになっていました。そして、このこと注解書がかえって妨げになり、聖書の本質を見えなくすると言うことは、今でも、彼らユタヤ人にとってはそうなのです。
 
 

聖書はこれを行えば我々に命を与える書、神からの書ですが、これらのタルムード等の注解書は、
みごとに神の与えられた聖書を無効にしています。

この聖書箇所の中でも「父母を敬え」という明確な神の律法が彼らの言い伝え、すなわち口伝律法により、無効にされていることを見ます。

父母を敬えということの中には、たとえば、年老いた両親に食事、衣類等でケアすることも含まれているはずですが、どんな
食物でも衣類でも、何でも、「もうこれは神への捧げものになりました」との一言をいえば、
両親に何もあげなくてもよいというおそるべき「注解」を彼らの賢人はしたのです。
その一言さえつければ、たとえどんなに両親が困窮しようとも何ら、物質的な援助をする必要がなくなったのです。まことに彼らの言い伝え、口伝律法、具体的にいえば、タルムートなりは「神のことば」、律法を無効にしたのです。

彼らの教師が賢人と呼ばれることも納得がいくというものです。賢人の賢さは、エデンの園でもっとも賢いといわれた蛇、神のことばを曲げて、「必ず死ぬ」という警告を無効にして、人を滅びに追いやった
蛇は彼らの予表です。

特定の民族の悪口をいうことが本意ではありませんが、しかし、我々は旧約の神の民の誤りがいったいどこにあったのかを明確に理解し、その誤りを繰り返さないよう学ぶべきなのです。

この「言い伝え」すなわち、タルムート等の注解書が聖書の教えを実質無効にしてしまうということは、彼らユタヤ人の間にあって、年代とともにますますその程度を増し加えてきました。誤りがますます大きなものとなっていったのです。

そのため、彼らは多くの聖書のことばを無効にし、神の前にも、人の前にも役に立たないもの、いえむしろ有害な者になっています。

たとえば、彼らは「汝の隣人を愛せよ」とのことばを実践せず、それどころか、愛とは全く逆の行いを実践し、隣人パレスチナ人の土地を奪い、家を奪い、そして彼らの多くの命を奪い、虐殺してきました。
丸腰のパレスチナ人のデモ隊に銃を乱射し、そして、対した自衛の武器を持たない彼らに対して、
飛行機、戦車等、あらゆる過剰な武器で虐殺を繰り返してきたのです。

このことは何度も国連で非難決議がされた周知のことがらです。律法を知らない日本人でも自分の隣人に対してこんなに何十年も虐殺を繰り返していません。

彼らは「汝の隣人を愛せよ」との明確な律法を読んだことがないのでしょうか?

勿論読んだことはあるのですが、以下のタルムートの解釈により、彼らはこの明確な聖書の教えを無効にしています。

-確かに聖書には、「汝の隣人を愛せよ」と書いてある。
-しかし、この聖書の記事には、「人」を愛せよと書いてある。獣を愛せよとは書いてない。
-神を信じない異邦人は、獣であり、人ではない。
-従って、パレスチナ人、クリスチャン(彼らは十字架という偶像を崇拝するものであり、獣、すなわち人間ではない)を殺すこと、あわれみをかけないことは律法にかなっている。

以上のような考えは信じられないかもしれませんが、確かにタルムードに記述してあることであり、
研究者は皆知っていることです。宗教改革をしたマルチンルターが「タルムードを燃やせ」といったのも、この本のこの様な恐るべき内容のゆえです。また、かつて歴代のローマ法王達が、タルムードを燃やすよう、指示を出したのも、同じ理由からです。
ルターにしても ローマ法王達にしても何でもかんでも他宗教の聖典を燃やせと主張した人々だというわけではありません。ですから、彼らがイスラム教のコーランを燃やせ、仏教の仏典を燃やせと大いに主張をしたとは少なくとも私は聞いていません。しかし、彼らはタルムードに関してはそう主張しました。

このタルムードが特別な本、恐るべき本、特にクリスチャンにとって、そうであることが理解できるでしょう。

”3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。”

彼らの言い伝えは肝心な神の戒めを犯すと主はいわれました。この言い伝えは、たとえばこのようなものです。

マルコ7:4”また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。「「”

この彼れの言い伝えは一見、聖書から発生してきたもののように見え、聖書の教えを補足、発展させたものであるように見えます。しかし、これらの言い伝えは「神の戒めを犯す」と主はいわれます。
神の戒めを行わず、それを犯すものは、わざわいです。神のため、人のためと思われた言い伝えが何と
わざわいともたらしていたのです。これは今の我々にも、いいえ今の我々にとって特に大事なポイントです。

4 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。”

ここではっきりとした神の戒めがあります。『あなたの父と母を敬え。』とのことばです。
これは神の変わり無きことばであり、守るものには祝福があります。
父と母という時、もちろん自分を生んだ戸籍上の父母という意味もあるでしょうが、たとえの意味あいでは霊の父母、具体的には教会の牧師さんたちなどをもさすのかもしれません。

『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と書かれているように教会における牧師批判等は
決してその人によいことをもたらしません。正しいことをいっているようでも、結局、その人の信仰が消え失せて滅びに至ることさえあることを覚えて下さい。「死刑に処せられる。」とのことばは
だてに書かれているわけではありません。

もちろん、牧師にも間違っていることもあるでしょうし、主に召された働きの中で、どうしても語らなければならないこともあるかもしれません。しかし、その場合でも秩序と謙遜の中ですることをおすすめします。
 

”5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。”

さて、このような明確な神の教えに関して、彼らの「言い伝え」、注解書はよけいなおせっかいをして台無しにしています。「自分の父や母を敬え」ということの中には、当然ことばだけで敬うのでなく、行いをもって敬うことが入ってきます。具体的には年老いた両親に食べるもの、着るものなどを用意することが含まれるはずです。両親の面倒をみるのには、お金も時間もかかりますが、しかし、神の律法にはっきりと「父母を敬う」ことが明記されているので、皆それを守っているわけです。

しかし、ここに蛇の律法学者が考え出したうまい逃げ道というか、詭弁が生まれてきました。
父母に何かをあげるのが惜しい人は、誰でも「私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりました」といえばいいことになったのです。

そんな風にいう人が本当に神にその捧げものをするのかどうかはわかりません。何故なら、この節の後で、主は彼らに「偽善者達」と呼んでいるからです。むしろ疑問かもしれません。しかし、何はともあれ、
「供え物になったのだから」という人は両親に対して、物質的な援助をしなくてよくなったのです。

そしてここでも「自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」と書かれているように、彼らの言い伝え、口伝律法、タルムート等の「人間の教え」「人間の注解書」は、聖書のことばの理解を助けるどころか、神のことばを無にして」しまっているのです。

たとえば、一流の画家、ミケランジェロなりが絵を書いているとします。
それを絵の下手な人が「僕が手伝ってあげる」などといって、上から描きはじめたら、ろくなことは起きません。目が3つある顔や、太すぎる足が描かれてしまうかもしれません。
よけいな世話はしない方がいいのです。

彼らがよかれと思って書いているタルムート、「トラー(聖書の律法)を学ぶより、タルムートを学ぶ方が益になる」「第2の律法」などと彼らが誇りとしているこの書は人間の猿知恵によって書かれたものに過ぎず、
神にとっては、よけいなお世話、「神のことばを無にして」いることを知るべきです。
また、この書に何が書いてあるのかを知りながら、この書をキリスト教会に広め、宣伝しているめしやにっくじゆーとかいうクリスチャン(と自称している)は、何か隠れた意図があるのではと疑われても仕方がないのではないでしょうか。

また、さらにもう一つ知らなければならないことがあります。このような愚かな「人の言い伝え」の過ちに陥っているのは、旧約の神の民だけではないということです。新約の神の民もせっせと神学書だとか、注解書だとかいう名前の「人の言い伝え」を書きためており、その結果、「神のことばを無にして」いることを知るべきです。

聖書の多くの箇所は「終末の日の神の民の苦難」を述べているのですが、愚かな人々は、「艱難前挙説、2段階携挙説」などという愚かな「人の言い伝え」を優先して神のことばを無にしているのです。

彼らが後生大事にしている神学の世界はまさにタルムート的な手法で貫かれているのですが、愚かな盲人はこれを見ません。
 

”7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。”

彼らが何故、このように愚かな注解書、タルムートのような聖書と正反対なことを述べる書を書くのでしょうか。それは、彼らが偽善者だからです。彼らはただ、外側を
理解しているだけであり、真にこの方を知りません。だから、わけのわからない悪魔的な書を書くようになったのです。
 

”8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。”

これらの愚かな注解書のせいで、民は「口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れて」
しまいました。真の礼拝からずれていってしまったのです。
今の「人の言い伝え」、神学書やら、注解書も同じことです。
これらの注解書は人を真の礼拝には導きません。かえって「偽善」的な人々を多く生み出しているのです。

”9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」  ”

大きな問題は、これらの教え、人の言い伝え、注解書に説かれている教えが「人間の教え」、すなわち、人間的な考え、教えに過ぎないということです。
彼らの教えは盲人の教えであり、人間の教えにすぎません。

例えば、上記、水で手を洗うということについて考えてみましょう。
確かに聖書には、身を洗うこと、水で洗うことについて書かれています。
 

「水を洗うことが大事なら、毎回食事の前に手を洗うことが大事だろう」「他の噐も全くきれいに洗うことが大事に違いない。」「どの器も徹底して洗うこと、それに力を尽くすことを神が望んでいるに違いない」彼らの考えはこんな風に発展したのかもしれません。そして、結果として、食事の前に手を洗わない弟子達を非難したのでしょう。しかし、これは、単に人間的な考えに基づいた教えであることを知るべきです。

しかし、これは神の目の前には、たとえであることを知るべきです。
水は聖霊のたとえであり、聖霊こそ、我々の罪も汚れも洗われる方です。食事の前に手を洗うことがその人の罪や汚れを浄めるわけではないのです。
このことを理解しないで教える人びとは単に人間の教えを繰り返しているのにすぎないのです。

そして同じような「人間の教え」を今の教師達も教えているのでは無いでしょうか。

「終末の日はクリスチャンにとって、勝利の時であり、全てのクリスチャンは艱難の前に挙げられて
艱難に会わない。」などという教えはただただ、人間中心の教えであり、聖書の本質から遠く離れた
空想話です。

繰り返しますが、「人の言い伝え」ははなはだしく、聖書をゆがめ、助けになるどころか、全く反対の場所へ我々を連れていくことを知りましょう。
タルムートを始めとする「人間の教え」を聖書より、高い位置に置き、結果として、聖書の教えとほど遠いことを信じ、実行している旧約の民の愚かなわだちを踏まないようにすべきです。
しかし、残念ながら、新約の民も長い間、人間の教え、神学を聖書の教え以上のものとして、教えてきたために、今、我々は聖書が真に主張していることがらから、遠いところ、非常に遠いところに来てしまったことを理解しましょう。

黙示録は一つの試金石であり、またテストです。新約の神の民は聖書の教えを大きく誤解している為、結果として、最後の書、黙示録を理解することができません。

彼らが人の言い伝えを排除して、神の知恵により頼むことを学ぶ迄は、この書は彼らにとって、「閉じられた書」であることを知るべきです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー