No.260 艱難と栄光

テキスト:ヘブル2:
5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。”

本日は「艱難と栄光」という題でメッセージをしていきたいと思います。終末の時に艱難時代があるということはクリスチャンなら誰でも知っていることです。「かつてなく今後も無い」艱難ということなので、正直、我々は戦々兢々となるわけです。「できればそんな艱難には会いたく無い」というのが皆の本音であり、そこを悪魔はついて、「艱難前携挙説」等の偽りの教えでだまして、人々の信仰をくつがえしているわけです。

さて、終末に関して、それこそあらゆる偽りの教えが既に林立しているわけですが、我々はその中で何が正しいことなのかを知らなければなりません。聖書が、明らかに述べていることは、終末の日に神に従おうとする神の民には「艱難がある」ということです。さて、ここで我々の疑問は何故、艱難が終末の日にあるのか、できればそんなものを受けたく無いのだがという疑問です。これはもっともな疑問なのですが、この件に関して上記ヘブル書のテキストは回答を語っているようです。

それを順に見ていきたいと思います。

”5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。”

神は、後の世を御使いたちに従わせることをしませんでした。

”6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。”

御使いたちが治めないとすれば、何が後の世を治めるのでしょう。それは人間だとこの箇所は述べています。
そして、これは栄光であり、神が顧みられた結果です。
さて、人間と御使いたちとどちらが能力があるかということを考えるなら、明らかに御使いたちです。
ですから、ここには、後の世における逆転があるわけです。逆転がある以上、そこには何らかの理由がありそうです。

”7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。”

主は人として来られ、「御使いよりも、しばらくの間、低いものと」されました。しかし、後で「栄光と誉れの冠を与え」られたのです。このことは、勿論主のことについて書かれています。
しかし、このことは、主お一人に限らず、主に従う「人」に関して述べているようにも見えます。

”9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。”

主イエスは「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受け」になりました。彼の死と「栄光と誉れの冠」とは合わせて1セットのもののようです。ですから、
私達が神から、栄光と誉れの冠を受けようとする時、殉教ということを考慮にすべきかもしれません。
これに関連して、教会時代最初の殉教者、ステパノの名前が「冠」という名前であることも示唆的です。

”10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。”

我々の救いの創始者は、多くの苦しみを通して全うされました。
創始者がそうなら、その救いを受ける我々も「多くの苦しみを通して全うされ」ることが暗示されます。

”11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。”

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」と聖書が言う時、隠された意味あいがあります。それは、すなわち、聖とする方も、聖とされる者たちも同じような道を通るということです。
このような歩みをする人びとに関して、「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」といわれているのです。
ですから、聖とする主が苦難の道を通り、聖とされる者たちは全く苦難を受けないとする艱難前携挙説は,はっきりいって聖書の教えにもとるいびつな異端的な教えであり、このような教えをぬけぬけと語る自己中なクリスチャンを「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥」とされるでしょう。

”12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
 

この節には隠された意味あいがあります。それは以下のこの節の引用元の箇所を参照する時、理解できます。

”詩編22:0 指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌
1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。
22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう”
 

ここには、「 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」というように
一連の主の苦難に関する予言的なことばが記されています。
そして、最後に22節で引用元の以下のことばが記されています。

”詩編22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう”

ですから、主の苦難の中でも、つき従う人々、また終末の日に神のみこころのゆえに苦難に会う人々、そのような人々こそイエスの兄弟なのであることが暗示されるのです。

さて、ヘブル書に戻ります。

13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。”

この箇所の引用元は以下のことばです。
 

”イザヤ8:12 「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。
13 万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。
14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。
15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられる。
16 このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。18 見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。”

ここには、「イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩」となった主イエスのことが預言されています。彼は、妨げの石とつまずきの岩となり、結果として人々には、正しく理解されず、誤解されたまま十字架につけられたのです。ですから、終末の日に主に従う者もこのような種類の苦難を受けることが暗示されるのです。

14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。”

しかし、主はこのような兄弟達、人間を顧みておられます。そして兄弟達と同じ「血と肉とを持」たれたのです。

”16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。”

何故主は御使いたちではなく、アブラハムの子孫、人間を助けられるのでしょう。
それは、御使いたちではなく、アブラハムの子孫こそ終末の日に苦難に会うからです。

18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。”

兄弟達は、終末の日に試みに会います。しかし、この方は、「試みられている者たちを助けることがおできになるのです」。

このように聖書は確かに主の後に従う者には、終末の日に苦難があることを暗示しています。しかし、
これらの「軽い艱難」は後に重い栄光をもたらすことを覚えましょう。

ところで、兄弟ということばを用いて聖書は何を我々に語ろうとしているのでしょうか。
これは私の思いつきですが、たとえば、こんなことかもしれません。
兄弟の一つの特徴は、「同じ家で同じ経験をする」ということではないでしょうか。ある人が雨漏りのするようなぼろ家に生まれたとします。その後に生まれた弟の兄弟もやっぱり同じような経験をします。
「何でこの家は雨が漏るんだ。冷たいじゃないか」という経験をするようになるのです。
しかし、「友人」なら、そうとは限りません。友人は彼と別の家、豪邸なりに住んでいるなら彼と、同じ経験をするとは限らないのです。

主の兄弟も彼と同じ経験をする人々ではないでしょうか。

それから、もう一つ、この「兄弟」を理解する事は、フイラデルフイア、すなわち、「兄弟愛」と呼ばれる教会を理解する鍵となります。終末のフイラデルフイアの教会とは、
終末の日に「主の為に苦難を受ける教会」と思われます。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー