NO. 259 兄弟

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ヘブル2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。”

本日は「兄弟」という題でメッセージしたいと思います。
ヘブル書は、「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と書いていますが、その主が恥としない兄弟について見ていきたいと思います。

”5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。”

この箇所の中では、人間と御使いとの対比があります。そして御使いよりむしろ人を神が顧みられることについて語られています。

”7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。”
 

主はしばらくの間、御使いよりも低いものとされました。人間は、御使いよりも低いものであるが、いずれ全てのものが人間に従わせられるとの約束があります。

”9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。”

イエスはその「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました」。ですから、
私達が主と同じように栄光を受けようとする時、苦しみ、苦難を通る事が暗示されるのです。

”10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。”

我々の救いの創始者である主は「多くの苦しみを通して全うされ」ました。そして、それにより多くの子たちが「栄光に導」かれました。苦難と栄光とがここでも関連して述べられています。
これは主の生涯において事実でしたが、主に従う私達においても事実であることを知るべきです。
神のために苦難を受ける人は、後に栄光を受けるのです。

11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。”

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」すなわち、聖とする主も聖とされる私達も一つだというのです。一つだということは、どちらも同じ経験をすることが暗示されます。また、「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と書かれています。主はどのような兄弟をさして「恥としない」といわれたのでしょう。

”12 「わたしは
御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」”

この節は何を語っているのでしょう。この「わたしの兄弟たち」とはどのような兄弟達なのでしょう。
それを見ましょう。
このことばは以下の詩編の箇所からの引用です。

詩編22:0 指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌
1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。
22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう”

この引用元の箇所は何を語っている箇所なのでしょう。順に見ていきます。


1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。”

ここでは、主が十字架上で発せられた「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」とのことばが記されています。この方、十字架で苦難を忍ばれた方の「兄弟」とは誰でしょうか?
他でも無い、主の苦難の道を拒まず、宣教のゆえに投獄されたペテロ、ヤコブそしてパウロのような兄弟のことなのです。
 

”2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。”

主は神のみこころを行ったゆえに「人のそしり、民のさげすみ」となりました。
そして、主のみことばのゆえに彼と同じ苦難を受ける全ての人びとは彼の「兄弟」なのです。
 

”7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。”

イエスは「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
とのあざけりを十字架上で受けました。神の為に苦難を受けたのですが、周りの人はそれを認めず、彼を嘲笑したのです。そして、同じ様な嘲笑を終末の艱難の日に受ける人びとはこのイエスの「兄弟」です。
 

”14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。”

「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
とはまさに主が十字架につけられた日のことがらです。主は神のみこころを行ったゆえにこのような目に会いました。そして、主は終末の日に同じような環境を通る全ての人びとの「兄弟」です。

”19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。”

「私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。」と主イエスは祈られたのでしょう。牛、羊はクリスチャンのたとえです。同じ神の民からの苦難について述べているのです。
そして、終末の日に神のみこころを行い、同じような祈りをする人びとは全ての彼の「兄弟」なのです。

22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう”

このように見ていく時、上記、「御名を私の兄弟たちに語り告げ」との引用句の中で語られている「兄弟」ということばの意味あいが見えてきます。この「兄弟」とは主の道、神の御心を行うための苦難を恐れず、主と共に歩む人びとのことをさすのです。

また以下の箇所に「御名を私の兄弟たちに語り告げ」と似た表現が出てきます。これらの節と関係のあることばのようです。

”ヨハネの福音書 17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」”

この箇所を読む時、上記のことばが明確に理解できます。聖書のいう主が「御名を知らせ」た
兄弟とは要するに主の苦難に最後迄、歩みを共にしたペテロ、ヤコブのような弟子のことをいうのです。彼等に主は御名、すなわち神の本当の姿、を知らされます。

また、彼等について主御自身が復活の後、「兄弟」と呼んでいます。彼等こそ、また彼等のような人びとこそ「兄弟」なのです。以下の通りです。

”ヨハネの福音書 20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」”

ですから、主がある人を「兄弟」と呼ぶ時、その言葉には重い意味あいがあることを知るべきです。
ヘブル書に戻ります。

”13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。”

このことばの意味あいを見ていきましょう。このことばはこの箇所だけを読んでもはっきり言って何もわかりません。しかし、この箇所の引用元の聖句を見ていくとき、この節に隠された意味あいが見えてきます。

この箇所は以下からの引用です。

”イザヤ8:12 「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。
13 万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。
14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。
15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられる。
16 このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」
17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。
18 見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。”

順に見ます。

”12 「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。”
 

今の時代にこの民が謀反と呼ぶことは何でしょうか?終末の大切な教理、「キリストが2回に渡って再臨して、艱難の前に引き上げて下さる」という有り難い艱難前携挙説、2段階携挙説に異をとなえることでしょうか。
しかし、主に示され、これらの偽りの教えに異を称え、堅くみことばに立つようすすめる人びとを謀反と呼ぶなと主は言われます。

またこの民の恐れることは何でしょうか。人びとから異端視され、仲間はずれにされることでしょうか。
しかし、「キリストの復活話はおとぎばなしの類い」などという冒涜きわまりない「異端」的な説をありがたがって拝聴している愚かな人びとに異端視されたからといって、恐れるには足らないと主はいわれるのです。

主イエスは伝統的なパリサイ人、律法学者達を攻撃し、偽りをあばいたからこそ彼等に憎まれたのです。
ですから、今の時代、この主の道にならう人びとは全て、現代のパリサイ人、律法学者から攻撃されることを覚悟すべきです。攻撃はあるでしょうが、しかし、主は彼等を「兄弟」と呼びます。
 

”13 万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。

今の時代は、人の賞賛、人のおもわくばかりを気にして、主のみからの誉れを求める人の少ない時代です。
しかし、主のことばに堅く立ち、この方のみを恐れとするひとびとにみこころがあります。

”14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。”
 

この主イエスは「イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩」でした。また、「エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴」でした。

わな、落とし穴は思いがけないものであり、その結果、知らないでつかまったり、落ちこんでしまいます。同じようにこのナザレのイエスはダビデ王朝の子孫、「国を治める王様の到来」を期待していた人びとにとっては、まったくのわな、落とし穴でした。

15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられる。”

その結果、「多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられ」たのです。
彼等はこの方を正しく受け入れることができず、その結果、自分の身に裁きをもたらしたのです。

さて、このことはもちろん一面、主イエスの身の上に起きたことがらの預言とその成就でした。
しかし、もう一面があります。それは、終末の日にも「妨げの石とつまずきの岩」となる人びとがあらわれるということです。彼等は、神によって遣わされたのに、それにもかかわらず、その民に受け入れられず、逆に排斥されます。あたかも主イエスの時と同じようにです。そして、それゆえに主は彼等を「兄弟」と呼ぶのです。

16 このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」”

このことは、主イエスの上に成就し、そして主の終末の弟子の上に成就することがらです。だからこそ、
「このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ」と語られているのです。

”17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。”

「主を待つ、この方に望みをかける」という時、主を待たなければならない、また主に望みをかける以外、他には何の方法も無いような状況、また苦難が暗示されます。主もその兄弟もそのような苦難を受けるでしょう。
 

”18 見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。”

ここでは、「私と、主が私に下さった子たちとは」というように、主イエスと彼に付き従う、苦難の道においても従う弟子とのことがらが書かれています。ですから、これらの節は、勿論主イエスに関する預言なのですが、それだけでなく、「主が兄弟と呼ぶ人びと」に関しても書かれた預言なのです。それらの人びとがどのような人びとであるかが書かれているのです。

主イエスの数々のちからあるわざは、神の国が近付いたこと、また神がともにはたらいていることのしるしでした。同じように主の終末の弟子達も終末の日に神のはたらきがあること、また裁きが近いことの
確かなしるしとなります。

さて、ヘブル書に戻ります。

”14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。”

私達が終末の日に苦難に会うとしても、主が「アブラハムの子孫を助けてくださ」ることを忘れてはいけません。
 

”17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。”

ここで「兄弟」ということばが特別に使われています。上記で見たように、聖書が兄弟という時、「主と苦難をともにする」というニュアンスがどうもあるようです。そして、主はその兄弟のために「あわれみ深い、忠実な大祭司」となられました。

”18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。”

この試みには「終末の試みの日」の試みをも意味しているのかもしれません。しかし、主はその艱難の中にいる兄弟を救う、「試みられている者たちを助けることが」できる方であることを知りましょう。

結論として、主が「兄弟と呼ぶことを恥としない」人びととは、主の苦難においてもつき従う、
主の道を選びとる人びとであることを知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー