No.258サムソンのなぞ

テキスト:”士師記14:1 サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。
2 彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」
3 すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」
4 彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。
5 こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。
6 このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。
7 サムソンは下って行って、その女と話し合った。彼女はサムソンの気に入った。
8 しばらくたってから、サムソンは、彼女をめとろうと引き返して来た。そして、あの獅子の死体を見ようと、わき道にはいって行くと、見よ、獅子のからだの中に、蜜蜂の群れと蜜があった。
9 彼はそれを手にかき集めて、歩きながら食べた。彼は自分の父母のところに来て、それを彼らに与えたので、彼らも食べた。その蜜を、獅子のからだからかき集めたことは彼らに言わなかった。
10 彼の父がその女のところに下って行ったとき、サムソンはそこで祝宴を催した。若い男たちはそのようにするのが常だった。
11 人々は、サムソンを見たとき、三十人の客を連れて来た。彼らはサムソンにつき添った。
12 サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを解いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着をあげましょう。
13 もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせてください。」
14 そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。
15 四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「あなたの夫をくどいて、あのなぞを私たちに明かしてください。さもないと、私たちは火であなたとあなたの父の家とを焼き払ってしまう。あなたがたは私たちからはぎ取るために招待したのですか。そうではないでしょう。」
16 そこで、サムソンの妻は夫に泣きすがって言った。「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」すると、サムソンは彼女に言った。「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしてはいない。あなたに、明かさなければならないのか。」
17 彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はそのなぞを自分の民の人々に明かした。
18 町の人々は、七日目の日が沈む前にサムソンに言った。「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か。」すると、サムソンは彼らに言った。「もし、私の雌の子牛で耕さなかったなら、私のなぞは解けなかったろうに。」”

本日は「サムソンの謎」という題でメッセージします。

サムソンがかけた「獅子と蜜」の謎について考えてみたいと思うのです。

テキストを順に見ます。

”1 サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。
2 彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」
3 すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」”

ここでイスラエル人サムソンがペリシテ人の娘と結婚することについて書いてあります。
ペリシテ人は他の箇所でも見たように「み言葉の敵」です。
ですから、この謎が「みことば」と関連した話であることが推測できるのです。
さらにこの「獅子と密」の話が構成的に、このペリシテ人の女との結婚話の中に挿入された形になっています。このことからも、この謎はみことばと関連があることを覚えて下さい。

”4 彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。

そのころは「ペリシテ人がイスラエルを支配していた」と記されています。
「みことばの敵」が神の民の国を支配していたのです。今でいえば、教会のみことばの教理、神学が敵にすっかり支配されてしまった状況をさします。また、「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである」と書かれています。このような状況を主が良しとしていたのではなく、主はその回復のわざを起こしたいと願っておられたのでしょう。

5 こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。”

獅子がサムソンに向かってきました。サムソンもまた主イエスのある一面をさす型です。その彼に向かってきた獅子ですから、ここでいう獅子は以下の獅子すなわち悪魔の型ととれます。

1ペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

次を見ます。

”6 このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。
7 サムソンは下って行って、その女と話し合った。彼女はサムソンの気に入った。”

主の霊により、彼はこの獅子を引き裂きました。何の剣も持たず、サムソンはこの獅子を引き裂いたのです。これは、一ふりの剣もなしで、ゴリアテを倒し、その剣を奪ったダビデに通じます。
みことばの敵、また悪魔のわざはこぼたれるのです。
また、「自分のしたことを父にも母にも言わなかった。」ことが書かれています。
このことは秘密なのです。

8 しばらくたってから、サムソンは、彼女をめとろうと引き返して来た。そして、あの獅子の死体を見ようと、わき道にはいって行くと、見よ、獅子のからだの中に、蜜蜂の群れと蜜があった。”

獅子の体の中に蜜蜂の群れと蜜がありました。

密は以下のことばのようにみことばと関連します。

”詩編119:103「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。よりも私の口に甘いのです。」

黙示録10:10「そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口にはのように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」”

次を見ます。
 

9 彼はそれを手にかき集めて、歩きながら食べた。彼は自分の父母のところに来て、それを彼らに与えたので、彼らも食べた。その蜜を、獅子のからだからかき集めたことは彼らに言わなかった。”

この蜜、みことばの蜜は父母の腹を満たすのですが、サムソンはそれを「秘密」にします。蜜の出所は秘密なのです。このことには隠れた意味あいがあります。

”10 彼の父がその女のところに下って行ったとき、サムソンはそこで祝宴を催した。若い男たちはそのようにするのが常だった。
11 人々は、サムソンを見たとき、三十人の客を連れて来た。彼らはサムソンにつき添った。
12 サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを解いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着をあげましょう。
13 もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせてください。」”

サムソンは婚礼を持ちます。聖書でいう婚礼はキリストとその花嫁である教会との婚礼のたとえである場合が多いです。ここでも7日の祝宴と書かれています。神の7つの教会とキリストとの婚礼のたとえであることが推測されます。さて、ここでサムソンはその婚礼の客になぞをかけます。このなぞを解いた客は「亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着」を得る事ができ、そうでない客はそれを逆に失います。

「亜麻布の着物」は以下のことばのように主に迎えられる花嫁が着るものです。

”黙示録19:8花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」”

ですから、終末の日に私達がこの謎を解くか解かないかは、我々が花嫁として、その麻布を着る事がゆるされるかどうかに関係するようです。

14 そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。”

このサムソンのなぞは難しくて客は解きあかすことができませんでした。彼等は困ったわけです。
さて、このことは終末の日の我々も同じではないでしょうか。この謎ははたして何を語っているのでしょう。食らうもの、強いものが獅子であることは、甘い物が蜜であることはわかります。しかし、この謎は、さらに深い事を我々に語っているようなのですが、一体何を語る物なのか
我々にはわからないのです。

”15 四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「あなたの夫をくどいて、あのなぞを私たちに明かしてください。さもないと、私たちは火であなたとあなたの父の家とを焼き払ってしまう。あなたがたは私たちからはぎ取るために招待したのですか。そうではないでしょう。」”

謎が解きあかされないと花嫁が火でやかれることが書かれています。これは示唆的なことばです。
このなぞが解けないキリストの花嫁なる教会は、火、悪霊の火で焼き尽くされるようになるのかもしれません。
 

”16 そこで、サムソンの妻は夫に泣きすがって言った。「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」すると、サムソンは彼女に言った。「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしてはいない。あなたに、明かさなければならないのか。」”

父母にも明かしていないとサムソンはいいます。今の私達にとって、父母、信仰の父母、また、信仰の先祖にも明かされていなかったなぞについてサムソンは語っているのです。

”17 彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はそのなぞを自分の民の人々に明かした。”

さて、この謎は祝宴の7日目、最後の日、教会時代でいえば、7つ目の教会、最後の時代に明かされてくるのです。
 

”18 町の人々は、七日目の日が沈む前にサムソンに言った。「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か。」すると、サムソンは彼らに言った。「もし、私の雌の子牛で耕さなかったなら、私のなぞは解けなかったろうに。」”
 

「町の人々は、七日目の日が沈む前」すなわち、教会時代がもう終わろうかという時になり、この謎を解きあかすのです。その答えは何でしょう?「蜂蜜よりも甘いものは何か。」というものです。
蜜は先ほどの「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とのことばのように、みことばの甘さについて語っています。
 

さて、このなぞの答えは確かに難しいのですが、しかし聞いてしまえば何だという類いの答えです。
確かに蜜は甘いかもしれませんが、「しかし、饅頭だって、結構甘いぞ。俺はこっちの方が好きだ」という人がいるかもしれません。また、「確かに雄獅子は強いかもしれないが、それでは象はどうだ。
こっちの方が重いから強いかもしれないぞ」などという人がいるかもしれないのです。

しかし、このサムソンのなぞにはもう一つ深い意味あいがあるように思えます。
かつて私達は例のヨセフが見たパロ王の「7つの麦、7つの牛」に関して、もう少し深い意味あいがあることを見てきました。同じようにこの「蜜、獅子」のなぞにももう少し深い意味あいがあるように思えます。

神のみことばは、パンにたとえられます。パンは日本人の米のように常食の食べ物なので、「みことば=パン」とは、
「みことばは私達の命をささえる食べ物」という意味あいのたとえです。
さて、同じみことばは蜜にたとえられます。蜜はどのような意味あいがあるのでしょう。
それは、神のことばの甘いという部分をさします。食べ物にはそれぞれ味があります。苦いとか、辛い、甘いという味です。たとえば、ピーマンなんかは苦いので子供に嫌われます。
しかし、子供も蜂蜜入りのホットケーキとかは喜んで食べます。甘いからです。
甘さは人を引きつけます。
同じようにみことばの中には、人をひきつけたり、建てあげたり、感心させたり、教えたりする部分があります。それがみことばの蜜、甘さでしょうか。

さて、サムソンの謎は、この蜜、みことばの甘さが食らう者、牡獅子、サタンから出る事を語っています。

ですから、この謎の答えを文字通りとると「サタンから、みことばの教え、蜜が出る」というとんでもない結論になってしまうのです。この結論は何ともとんでもない結論であり、今の神学にはかれば、異端的な解釈になってしまうかもしれません。しかし、私達はまず神のことばを素直に聞いて、そこから、我々の考えを建てあげていくべきです。自分の先入観や、固定観念をみことばに押し付けるべきではありません。

もし神のみことばがそう言っているなら、とりあえず、みことばの主張に耳を傾け、そこから、
その解釈は事実とあうのかどうか確認すべきだと思われます。

さて、サタン、またその手先と思われる人びとから、蜜、すなわち、みことばのすばらしい教えや、
教理、真理があらわれるということがあり得るのでしょうか。

個人的な、結論としては、あり得るのではないかと思っています。

私は伝道を目的として、ものみの塔、統一原理等のいわゆる異端とされる教えを勉強したことがあります。彼等の教え、その結論は正しいキリストを伝えているわけではなく、勿論異端なのですが、しかし、その個々の教えの中には、いくつか深いもの、もしくは一般のキリスト教会でも聞いたことのないものがあります。

さて、このこと、「雄獅子の体から蜜が出る」すなわち、悪魔来の働きから、思いもかけない聖書の深い教えが出てくることがあり得ることを理解すると例のJNダービーの教えについても理解できます。
このダービーを始めとする「兄弟達」の働きについて、ウオッチマン ニー兄弟は、「すばらしい真理の光が兄弟達を通して与えられた」と書いています。確かに兄弟達が開いた教えのいくつかは深い霊的な有用な真理です。しかし、その反面、ダービーなりが説いた「艱難前携挙説」は終末のクリスチャンの備えを土台からつき崩す恐るべき悪魔来の教えです。
結論として、彼の働きには、蜜、すなわち、深い聖書の教えとまた、雄獅子すなわち、終末のクリスチャンを食い荒らすサタン来の教えとが混在しているのです。

彼の深い教え、すなわち、蜜にひかれていく人びとは、結果として強い者、雄獅子とえじきとなり、
終末の備えをくずされ、終末の日に命を失う結果となるのです。

確かに「食らう者から食べ物が出る」との預言は彼において成就していることを見ます。
 

これは現在でも同じ、いや現在こそ大きな意味あいで成就しています。

たとえば、例のトロントの獣のリバイバルを考えます。このリバイバルの起きたトロントの教会の源流になったのは、フラー神学校の教授ピーターワグナーそして、ジョンウインバーだとのことです。

このピーターワグナーは「霊の戦い」やら、「霊的地図」やら、「とりなしの祈り」など、”素晴らしい深い霊的な教え”を説いた人です。

「こんなすばらしい教えを説いた人が悪魔的な霊を解き放つことがあり得るのか?そんなことをいう人の方がおかしいのではないか」とはもっともな疑問ですが、しかし、上記「強いものから甘い物が出た。」とのみことばによれば、確かにあり得る、このことは聖書的であることを知るのです。

悪魔は聖書の知識にたけた専門家であり、彼の意に沿った働き人の教えの中には、確かにある種の「油注ぎ」があります。しかし、だからといって全てのことを信用せず、聖書のいう通り「吟味」が必要だということを知るべきです。

ですから、今さらのようですが、聖書を書かれた神は全ての未来、そして今我々の目の前で起きていることをも含め、全て始めから御存じであったことを知るべきです。

聖書は始めから今日の日について述べ、そして警戒をするように語っているのです。

この警告の声に耳を傾けていきましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー