No.257 いくつもの3年半(2)

テキスト:

1)黙示録11:1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。”

本日は「 いくつもの3年半(2)」として聖書が3年半の艱難時代に関して語っていることを見ていきたいと思います。

黙示録のできごとは7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢のような記述の順番には起きないようです。
逆に、ペテロの手紙に「私的解釈(そのことばからのみ解釈)をしない」のことが書かれているように、
一定のキーワードで(そのことばのみでなく)他のことばを参照していく時、理解が進みます。
現代のことばでいう「検索」をすると流れが見えてくるのです。

さて、その検索に関連して、黙示録にはいくつもの3年半に関する異なった記述があります。いわく、3年半、1260日、42
か月、ひと時とふた時と半時等の表現です。それらの表現はこの同じ大艱難の時代に関する異なった面を説明し、あらわしています。それらを見ていきましょう。

上記テキストから見ていきます。

”黙示録11:1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。”

聖書の中で測られること、数えられること、名前を記載されることにはみこころがあります。
たとえば、12弟子は数を数えられ、イエスによりその名前をつけられ、(ペテロとは主が命名した名前)
呼ばれました。逆に群集は原則として、名前を呼ばれません。
またいのちの書に名前が記されることにはみこころがあるのです。ですから我々は「そこで礼拝している人を測れ」といわれた人びとの中に入れるよう力を尽くすべきです。彼等は選ばれた者達です。

”2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。”

異邦人は聖なる都を「四十二か月の間踏みにじ」ります。これは他でも無い大艱難の3年半の期間です。
ですから、教会は艱難時代の間、異邦人、クリスチャンでない人びとに牛耳られるのです。
もうこのことのきざしは起きつつあります。トロント、ペンサコーラ等の聖会で、「デーモン、デーモン(悪霊)」などと叫んでいる人びとは間違ってもクリスチャンではないでしょう。クリスチャンでなければ、それはすなわち異邦人なのです。クリスチャンのふりをした異邦人が聖なる教会を踏みにじっているのです。また、「進化論は科学的だ(創世記で神が動物を創ったなどと書いてあるのは嘘)」などという某教会のリーダー、また「私はイエスの復活を信じない(!?)」などと公言するカンタベリー大司教などもその類いの人びとかもしれません。ですから、多くのねぼけたクリスチャンが夢想しているように終わりはまだまだなのではなく、時代はとっくに終わりの時代に入っており、神の語られた「異邦人は...聖なる都を踏みにじる」という預言は成就しつつあるのです。

2)
”黙示録11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。”

次の記述を見ましょう。順に見ます。

”11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」”

このふたりの証人は、「聖書の2人または3人の証人」とのみことばと関連するのかもしれません。
彼等はバプテスマのヨハネのように「来らんとする神の御怒り」に関して証言します。

”4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。”

彼等は2本のオリーブの木です。オリーブの木はオリーブ油を産します。ですから、油注がれた者を象徴します。また、2つの燭台、すなわち2つの教会です。

次を見ます。

3)黙示録11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

順に見ます。

”7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、
彼らを殺す。”

この2人の証人は証を終えた後、殉教します。彼等の生涯は主イエスの生涯と似ています。

すなわち、
-どちらも3年半の間、証をする。
-どちらも油注がれた者である。
-どちらもその後、殉教する。
-どちらも復活する。
-どちらもその後、携挙される。

ですから、逆に終末の3年半の艱難時代の型とは、すなわち主の宣教された3年半なのです。
主の3年半の宣教の主な戦いはその当時の宗教の専門家、律法学者、パリサイ人、
またそれに扇動された人びととのものでした。
これが、主イエスの「艱難時代」における主な迫害者、敵対者でした。

このことは終末の艱難時代の3年半の期間に関しても通じることを知るべきです。
黙示録に書かれている、蛇やら、龍やら、獣やら、天と地が移るとか、太陽が暗くなるなどの
おどろおどろしい、たとえの描写に惑わされて本質を見誤ってはいけません。

終末においても主イエスの時と全く同じように、盲人であり、惑わされているる宗教の専門家、
そして彼等に扇動されている人びとが主につく人びとへの主要な敵対者、反対者になるのです。

”8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

この都は終末の堕落した教会です。そして彼等の主は今、聖霊となってこの教会(都)で十字架につけられているのです。

”9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。”

「三日半」といういかにも半端な数字にも隠れた意味あいがあるようです。三日半とはすなわち1週、7日間の半分であり、すなわち半週のことなのです。ですから、これも3年半の別の表現なのです。彼等の死体とは、
この3年半の間に殉教する人びとのことをいっているのです。

「死体を墓に納めることを許さない」とのことばを理解するには、以下のことばが参考になるかもしれません。

”歴代誌第二 24:25 彼らが重病の状態にあるヨアシュを捨てて、離れて行ったとき、彼の家来たちは、祭司エホヤダの子たちの血のために、彼に謀反を企てた。彼らは、病床で彼を殺し、彼が死んだので、彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった。”

彼等はヨアシュを王の墓に葬りませんでした。彼は王でしたが、王の墓に入るのにはふさわしくないと彼の家来たちは判断したからです。何故なら、彼が祭司エホヤダの子たちの血を流したからでしょう。

同じ意味あいでこの油注がれた者たちは終末のクリスチャンの間では、殉教者、主のしもべ、キリストに忠実な者としての評価を受けることはないでしょう。

”10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。”

この贈り物を贈り合うという表現は以下のエステル記の記述と関連があるようです。

”エステル記 9:22 自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。”

この日はエステル達を殺そうとした敵を除いたことを祝した日のことです。しかし、このことは暗示的です。彼等は「自分達の敵を除いた」と思って贈り物を贈り合うのですが、実は、その後で彼等自身が「除かれて」しまうからです。

”11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。”

3日半、すなわち半週の後、すなわち艱難時代の3年半の後、復活があり、この教会に属する人びとは皆、蘇り、栄光の姿に変えられます。以下のことばの通りです。

1テサロニケ5:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

この教会に属する全ての人が殉教するわけでは生き残る人もいるのですが、何しろ死んだ人も生き残った人も一瞬に変えられるのです。

”12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

この後、この2つの教会に属している人びとは携挙されるのです。3年半の大艱難時代の後のことです。
ですから、今多くの人びとが主張している2段階携挙説だとか、艱難前携挙説だとかの教えはいかに聖書の主張と懸け離れた、人びとを惑わす教えなのかを知るべきです。

次を見ます。
 

3)”ヨハネの黙示録 12:14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
15 ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
17 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
18 そして、彼は海ベの砂の上に立った。”

ここでも同じ艱難時代の3年半に関して、別の表現で説明を加えています。

順に見ます。

”14 しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。”

女は主に従うみこころの教会です。彼女は「荒野に飛んで」いきます。
荒野とは何をさすのでしょう。私の今の理解では、この荒野ということばは、都ということばの反対語ではないかと思われます。都、エルサレムは教会をさします。荒野はその教会、公認の教会を
追い出される人びとでしょうか。追い出されることはうれしいことでは、ありませんが、
しかし、結果として、この女は蛇の働きから逃れることになります。蛇はエデンの園でみことばを曲げた蛇に通じます。ですから、偽りの神学、教理とかかわりをもたなくなるということでしょう。

”15 ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。”

この川は悪霊の川です。

17 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。”

終末の悪魔の戦いの標的は、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」です。

18 そして、彼は海ベの砂の上に立った。

砂は「砂の上に家を建てた愚かな人」に通じます。また、みことばを行わない人びとに通じます。これらの人は洪水で流されます。

次を見ます。
 

”4)黙示録13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。”

順に見ます。

”黙示録13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。”

この獣は、政治的な存在のようです。ですから、世界的にみこころの民を迫害する42ヶ月があるのでしょう。

”6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。”

天に住むものは、天国に住む人びとをさすのではなく、地に住む者、この世につく者の反対のことばです。
彼らはこの国において、中傷、批判され、排斥されます。

”7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

ここで言う「あらゆる部族、民族、国語、国民」とは、キリスト教会の各宗派をさしているようです。
ですから、キリスト教会は獣的な政治支配の下にゆだねられます。
 

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以上見てきたように黙示録は同じ期間、3年半に関して何度も表現を変えて、説明しています。逆にいかにこの時が大事な時であるか推察できます。この時、こそが、終末の神の民にとって肝心な「試みの時」なのです。
偽りの艱難前携挙説などにだまされ、備えを奪い取られないよう、心していきましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー