No.254燃える天と地

”テキスト:2ペテロ3:
3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって
、6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。”

本日は、「燃える天と地」という題でメッセージします。

2ペテロ3章の燃える天とは何かを見ていきたいと思います。順に見ます。
 

”3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」”

「何事も創造の初めからのままではないか。」とは、自然の山や川の天地に関してもいえるし、また教会という意味あいでもえいるかもしれません。「教会は何も昔と変わっていないではないか、何も変化していないではないか」と見える形ではいえます。しかし、その実質は大きく変わってしまいました。
 

”5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって”

ここで神のことば、すなわちパンと、水、すなわち聖霊の象徴が登場します。いわゆる2つのトピックです。そして、この2つが世界、また天と地で象徴される教会の形成の基であったことが語られます。

"
6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。"
 

当時の世界は、水によりなり、またその同じ水により、滅びたことが書かれています。これは何でもないような記述ですが、隠れた意味あいがあります。水が霊の象徴であることを知るとき、その隠れた意味あいが理解されます。教会は水、すなわち、神の霊である聖霊により形成されたのですが、しかし、最後には、同じく水、今度は悪霊により滅ぼされるのです。
 

”7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。”

天と地は何度も書いたように、天の星、地の砂のようになると言われた、アブラハムの霊的子孫、クリスチャンの住む教会のたとえです。

ですから、「今の天と地」すなわち、教会は、終末の日に火、悪霊の火で焼かれるとここで書かれているのです。その日は、「進化論は科学的(創世記は神話)」「地獄はない」などとうそぶく、「不敬虔な者どものさばきと滅びとの日」なのです。

よく教会で説明されるまことしやかな「終末のできごとの説明図」に騙されてはいけません。
7つのラッパ、7つの鉢のできごとがが順番に起こり、その後、再臨があり、千年王国があり、その後やっと新天新地があるという例の図ははっきりいいますが、盲人の書いた案内図のような物であり、
こんなものを信じてこれを頼りに終末の世を歩む人々は「ともどもに穴に落ち込む」ことを知るべきです。

この天地が焼かれる、悪霊の火、霊で焼かれるということは、今、私たちの目の前で起きていることであって、この「まことしやかな嘘」の図のいうように、ずーっと先のことではないのです。彼らはこんな、嘘により頼み、「災いの日を遠ざけている」ようでも、実際は、「それを近ずけている」のです。

”8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。”

ここで聖書は終末に関連して「千年は一日のよう」であることを述べています。また次の節では、「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのでは」ないことが述べられています。これらのことを重ね合わせて考えると、神はここで、終末の裁きは我々が思ったより早いといわれているのです。、
終末の日には、「まだ千年ある」などと安心してはいけないことを述べているのです。

この「千年は一日のよう」との記述は例の黙示録に記されている「千年王国」のたとえに通じるように思えます。
この箇所から考えてみても、この「千年」が文字通りの千年というより、「ある一日」のたとえととる方が妥当に思えます。

”9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”

終末がまだ完全には実現していない理由はただ一つ、それは神が我らの滅びるのを望まず、悔い改めることを望んでいるからです。今、私たちは悔い改めなければなりません。

”10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。”
 

主の日が盗人のように来ると言う時、聖書は、何をいわんとしているのでしょうか。
いわんとしていることは、「誰もきづかない時」にその日は来るということです。

私のオートバイがある日、盗人、泥棒に会いました。夜中に鍵をこわして持っていかれそうになったのです。次の日の朝、いつものように通勤用に乗ろうとして、鍵がこわれていたので、始めて発覚しました
私も私の家族も誰もどのような盗人が来たのか、知りません。そもそも泥棒がきたことさえ、鍵がこわれていなければわからなかったのです。一人なのか、二人なのか、わからないし、男なのか、女なのかもわかりません。若いのか、中年なのかもやはりわからないのです。
盗人が来るとはこのようなものなのです。

そして聖書が「盗人のように来る」と書く時、「俺だけはわかる。勘がいいから」などと変な自信を持たない方が良いでしょう。むしろ大多数の人はわからない、もしそれに気付くことができたのなら、ただ、主の哀れみによリ目が開かれたのに過ぎないことを覚えましょう。

はっきりわかることは、今「地獄は無い」「キリストの復活はおとぎ話のたぐい」などと不敬虔なことを語る人々は誰もこの日を気付くことはないということです。

「天は大きな響きをたてて消えうせ」という時、飛行機やヘリコプターの飛ぶ空が火に焼かれるのかなどと思い込んではいけません。何度も繰り返しますが、これはたとえなのです。

「天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とは、教会の全ての人々は悪霊の火で焼けるということです。そして、その行い、奉仕もこの火で焼き尽くされていきます。

”11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。”

天地が焼かれることと関連して我々が、「聖い生き方をする敬虔な人で」あることが語られています。
飛行機の飛び交う天が焼かれる、焼かれないということと我々が「聖い生き方をする敬虔な人で」あるかどうかは直接関係はありません。火に燃えないように防火服でも用意する方が賢い備えでしょう。しかし、この天地は、教会のたとえであり、これらは「不敬虔、不義」のゆえに、教会が裁かれる日について書いてあるので、当然、我々は「聖い生き方をする敬虔な人で」あることが大事なのです。
私たちの行い、歩みを改めることがこの「日」に対するもっとも必要な備えなのです。
 

"
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。"

天の万象とは、具体的には、月、星、太陽等であり、これらは皆クリスチャンのたとえです。これらは、
悪霊のリバイバルの中で、「は焼け溶けて」しまいます。また、この日、天、教会は悪霊の火により、「燃えてくずれ」、

繰り返していいます。これらのできごと、悪霊のリバイバルは私たちの目の前ですでに起きています。
だから、「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます」とのことばは完全にとはいわないにしてももうすでに成就しつつあるのです。この日、ペテロの預言した「天地が燃え尽きる日」は今、この時代に成就しつつあることを知るべきです。新天新地の予言はずっと先のことでなく、今、この終わりの時代に成就しつつあるのです。

ねぼけた嘘だらけの例の「終末の図」をすっかり、本気にして信じこんでいる盲目な人々は、
「寝ている間に火事にあった人」のようにねぼけている内にその命を失うことを覚えて下さい。

「人から出たのではない」聖書そのものに組み込まれた「聖書の暗号」はキリスト生誕丁度2000年後
のまさにその年(1996/1997年=ユダヤ歴による)に「終わりの時代」に入ったと語ります。

もう私たちが眠りから目をさます日が来ていることを覚えましょう。

"13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。"

ここでも、「新しい天と新しい地」と、「しみも傷もない者」として励むこととが合わせて語られています。ですから、新天新地に入るその大事な備えは、「しみも傷もない者」なのです。

これが本当に文字通りの意味をさしていて、夜空が新しくなったり、この鳥や動物が住む地が新しくなるのだったら、その備えに必要なものは、新しい土地になったら、まっさきに自分の土地を確保するための、
スケールや巻き尺などかも知れません。しかしここには、そうは書いてありません。

逆に新天新地に備えるため、罪の「しみも傷もない者」になることを励むよう、それを大事なこととして、
勧めているのです。このことがたとえであることがわかります。

新天新地は新しい教会のこと、終末の日に回復されてくる教会をさしています。
以前の天と地は過ぎ去ったと書いてあるように、古い教会は神の前から、過ぎ去り、離れ、無縁のものとなります。何故なら、彼らは、天地(教会のたとえ)が過ぎ去っても過ぎゆくことがないといわれた、
このことばを恐れげもなく、変え、偽りをお互いに喜んでいるからです。

「地獄は無い」「復活はおとぎばなし、民衆の願望がこの復活の教理を生み出した」などと、
恥ずかし気もなく、「ことばなる方」を冒涜している教会は過ぎ去っていくのです。

ですあら、ここで書かれている「新らしい天と新らしい地」とはこの過ぎ去る教会とは反対の存在であることがわかります。

これは、終末の日に回復し、みことばに真につく教会のことです。
これらの教会の芽、働きはすでに起こりつつあります。私は知っています。私たちは、いずれそれを目にするようになるでしょう。

ですから、例の図、嘘八百の図にだまされて、後少なくとも1000年は過たないと、新天新地はこない、
などと誤解している人々は、偽りを信じこまされているのです。
また、新天新地と聞いて、夕焼け空なんかを見上げている人は、まったく間違えています。彼らの教師は、
「人間の教え」を教えているので、何一つ見ていないのです。ともども穴に落ち込むことになるでしょう。

5 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。

すでに悪魔の惑わしの霊は働いており、多くの人が惑わされていますが、しかし、まだ少しの時が残されています。これは主の忍耐がまだ尽きないからであり、「私たちの主の忍耐は救い」なのです。

復習しますが、現在の状態はどうかというと、古い天地と新しい天地とが混在している状態です。

圧倒的な数の古い天地(教会)がありますが、少しずつ、新しい天地(教会)の働きが広まりつつある状態です。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー