NO.251 千年王国

テキスト:黙示録20:1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”

本日は「千年王国」という題でメッセージしていきたいと思います。
千年王国に関して色々な人が色々といいます。千年王国のたとえを理解する前に以下を念頭に置く事が大事と思われます。

1.千年という日のたとえを読み取る。

黙示録はいうまでもなく、黙示、啓示の書です。ですから、当然そこに記されている一つ一つのことばは、啓示、神からの啓示により解いていくべきです。何の啓示も求めず、そのまま文字通り
読んでいくことは、素直なようですが、しかし、無謀です。
雪山へ登ろうとするのに、シャツ一枚で出かけようとするのは、素直、率直といえば聞こえはいいが、その実、全く思慮に欠けています。防寒具を用意していかなければ、まともに進めないでしょう。
その場所にはその場所にあった用意が必要なのです。同じようにこの書、黙示録は啓示の書なので、
神の啓示を求めず、無謀にもただ文字通り読んでいく人々は危険なのです。

千年ということばには、たとえが隠されている可能性があります。何故なら、この千年王国は黙示録にしか記されていないからです。たとえの書、黙示録にしか記されていないということは、何かのたとえである可能性が非常に高いのです。

例をいいましょう。日本の名投手といえば、例えば、かつての江川投手でしょうか。彼は、後楽園球場で活躍し、また新聞にもTVにもラジオにも出る有名人でした。さて、他にも有名な投手がいました。星飛勇馬といいます。しかし、彼が現実の後楽園球場で活躍をしたのを見た人はいません。スポーツ新聞にも彼の成績が載る事もありません。何故なら、彼はアニメ、漫画の主人公でありそこにしか登場せず、実際の人物ではないからです。彼は架空の人物なので、実際の球場にはいないのです。

同じ意味あいで、たとえの書にしか出てこない千年王国は、実際に千年の間続く王国というより、何かのたとえである可能性が高いのです。

2. 第2の死の意味あい。

もう一つ覚えておかなければならないことがあります。それはこの千年王国の記述の中に
第2の復活、第2の死という聖書の基本概念とは異なることが述べられているということです。
ヘブル9:27には「人には一度死ぬことと、死後裁きを受ける事とが定まっている」と記されています。

ですから、聖書は基本的に人は一度死ぬことについて語っているのです。これが聖書の基本的なスタンスです。黙示録のことばと矛盾し、ここには矛盾があるように思えます。しかし、勿論私達の神は矛盾や混乱の神ではないのです。

そしてもう一ついえることは、この第2の死、第2の復活ということばも黙示録にしか記されていないということです。ここに何かのたとえが隠されている可能性が高いのです。
 

上記理解に基づき、テキストを見ていきます。

”1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、”

ここで千年の間、サタンが縛られることが、書かれています。この千年はたとえではないかと思われます。多くの黙示録の解説者は、この千年を文字通りの期間ととらえるようです。しかし、この書はたとえの書なので、たとえの意味あいを見ていきたいと思います。もしこの千年がたとえとするなら、「千年は一日のごとし」とのことば通り、ある一日をさしている可能性があります。千年は1週間のごとし、あるいは千年は1月のごとしということばがあるなら、1週間、1月について見ていくべきですが、そのようなことばはないので、ある一日のことをさしている可能性を見るべきなのです。

もし、千年がある日をたとえているとしたら、一体この一日はどの日なのでしょうか?

一つのヒントとしてヘブル書にはこう書かれています。

”ヘブル人への手紙 4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。”

ここで書かれている安息日がまさにその日かもしれません。

またここに「あの古い蛇を捕え」と書かれています。蛇は今迄何度も見てきたように、エデンの園の蛇、
神のことばを曲げて、人を命から外す偽りの働きをさします。
 

”3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。”

「千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。」と書かれています。これを文字通り読むなら、千年の間、蛇、サタンが縛られるとしか読めません。しかし、この千年を安息日のたとえとして読むなら、この記述は安息日という一日を指し、その安息に入る人と入らない人との間の差を描いたものと読めます。

すなわち、ここでは千年の前と後とでは、この蛇が諸国の民、すなわち色々な種類のクリスチャンを惑わすことが書かれているのです。千年がある一日、すなわち安息日をさしているなら、その前と後とは、安息日ではない期間をさすからです。すなわち、「千年の前と後の蛇に惑わされている民」とは神の定めた安息に入らない民のことをさすのです。ですから、安息に入る人、自分の手のわざを捨て、神の安息に入る人は、サタンの惑わしから免れます。このことを覚えて下さい。

”4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。”

ここで主につく民が「キリストとともに、千年の間王となった」ことが記されています。これは以下のことばと関連します。

”ペテロの手紙第一 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。”

私達はすでに主にあって王であり、祭司であるとの約束を受けています。しかし、これは聖書の約束ではあっても全ての人の上に実現されるわけではなく、「主にあって、安息する」人々の上にのみ成就することを知らなければなりません。その他の人々に対しては、「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。」とのことばが成就します。

「その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」は神の前に安息を得ます。彼等は安息に入るのです。

5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。”

そのほかの死者と書いてあるように彼等は神の前に生きた者ではなく、死人なのです。聖書でいう死は罪と関係します。彼等は死から自由になっていません。しかし、神の前に自分のわざをおろし、神に信頼する者は神jから与えられた復活を経験することを知らなければなりません。

”これが第一の復活である”

上記ヘブル書に書かれているように「人には一度死ぬことと死後にさばきを受ける事が定まっている」のです。ですから、文字通り、人間の肉体が一度ならず、2度も蘇るという意味あいでは、第一、第2の復活があるわけではないと思われます。人間の肉体は一度しか死なず、一度しか蘇らないのです。これは主イエスの時も同じでした。主は一度死なれ、一度蘇られたのです。それでは第一、第2の復活とは何をさすのでしょうか。

第一の復活に関して以下のことばを見ます。
 

”エペソ人への手紙 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。”

我々クリスチャンはすでに主の前にともに蘇った者なのです。
このキリストのわざはすでに終了したものであり、終わったものです。ですから、これを真に信じた者はこの復活のわざに入ります。しかし、一つ気をつけなければならないことは、誰にでもこの権利はあり、招きはあるのですが、しかし
全ての人がこの復活の命に入るとは限らないということです。

以下のようにヘブル書には記されています。

”ヘブル4:3
みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、”
 

ここに書かれているように神のわざはもうすでに終了しているのです。しかし、全ての人がこの安息に入るのではなく、不従順、不信仰な人は入れないのです。

ですから、上記エペソ書の「キリストとともなる蘇り」、すなわち第一の復活に全ての人が召されていますが、全ての人がそれを体験するわけではないのです。

”6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。”
 

1ペテロ2:9に「王である祭司」と書かれているように、主の安息にある者は祭司です。「第二の死は、なんの力も持っていない。」と書かれているように、この第一の霊的な復活、キリストにある安息に入っている人には、肉体の死は何の力もありません。恐れるに足らないのです。

この時、主の安息に入る事がいかに大事であるかわかります。

”7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、”

千年の終わりにサタンが解き放たれます。彼は千年の前にも解き放たれていました。
何をいっているのでしょう?
これはたとえなのです。安息日の前と後で悪魔が惑わす、すなわち、終末の日に主の定めた安息に入らない神の民は皆サタンに惑わされていくのだということを語るたとえなのです。
終末の3年半の艱難時代の後、また千年という長い休みがあるというわけではないのです。
千年という期間に関連して語られているたとえを読み取らなければなりません。

8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。”

ゴグ、マゴグはサタンにより召集されます。主イエスの時代、律法学者、パリサイ人また彼等に扇動された群集は大挙して、主イエスに立ち向かい、彼を十字架につけるよう要求しました。
彼等は神の前に自分では熱心だと思っていたのでしょうが、その実、主イエスを殺害したかった、悪魔サタンに召集され、彼の意を行ったのに過ぎません。

そして、これが悪魔の惑わし、蛇の惑わしというものなのです。エデンの園の時、また主イエスの時も、
主にかたくつかない神の民は惑わされ、悪魔に召集され、彼の道具となってしまったのです。
これは終末の日にもっと大規模な形で起きてきます。

彼等は神の安息に入らず、自分の手のわざに頼る人びとです。しかし、その結果は敵の手に用いられてしまうのです。このことについてヘブル書ではこう書かれています。

”ヘブル4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。 ”

彼等は不従順であり、落後した者たちです。
 

「海べの砂」はアブラハムの霊的子孫、 クリスチャンを暗示することばです。

”9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。”

「愛された都」とは新エルサレムのことであり、終末に主につく人びとの集まりです。その都、すなわち教会、集められた人びとを「惑わされた神の民」が取り囲みます。カルトを許すなというわけです。
しかし、その時、「天から火が降って来て、彼らを焼き尽くし」ます。この火は、霊、悪霊のたとえです。
すでにこの悪霊のリバイバルは広がりつつあり、主につかない神の民はこの霊で焼き尽くされつつあります。このことばは今から1000年も後、西暦3000年あたりに成就するのではなく、今私達の目の前で成就しつつあることを知るべきです。

”11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。”

天と地は、アブラハムの子孫である、星、砂があるところとして、教会のたとえです。それが御前から逃げ去るとは、教会が裁かれる日について語っているのです。

ですから、今どれ程大きい教会であろうと、世界中で何億という信者があろうと、なかろうと、その教会が神の語られたことば、律法の一点、一画でもないがしろにし、「進化論は科学的(神が動物を創造したとする創世記は神話)」「地獄はない」などという寝言を受け入れるようになるなら、その日には神のことばではなく、教会の方が逃げ去り、「あとかたもなくな」ることを知るべきです。

”12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”

死んだ人びとが裁かれることが書かれています。ここでいう死んだ人びとは以下のことばと関係するかもしれません。

”5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。”

第一の復活にあずかる者は幸いですが、この復活をクリスチャン人生の中で体験しなかった者こそ実は、その他の死者なのかもしれません。彼等は罪と死の中でクリスチャン人生を過ごしました。
そして、彼等こそ、その日裁かれるのかもしれません。

ですから、私達は今、主にあって、第一の復活に あずかることがいかに大事なことでしょうか。
この復活についてパウロはそれを得ようと「ただ、この一事に励んでいます。」と語りました。いかにこのことが大事なことでしょうか。私達はパウロの例にならうべきです。

”ピリピ3:
10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。”

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー