NO.250 安息日

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ヘブル3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

本日は「安息日」という題でメッセージしていきます。神が十戒の中で「安息日を覚えてこれを聖とすべし」といわれた時、この安息日の原則が非常に大事なものであることが理解できます。

ところでこの安息日の教えとは一体何をさすものなのでしょう。安息日に仕事をしないということは理解できるのですが、この戒めをもってさらにたとえていることがあるのでしょうか。今日はそのことを見ていきたいと思うのです。

安息日に関して詳しく記してあるのが、上記ヘブル書のテキストです。本日はこの書の記述を通して、安息日に関するたとえを見ていきたいと思います。順に見ます。

8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」”

この箇所からわかることは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない」と書かれているように、
安息に入れないという類いの民と逆に安息に入れる民とがいるということです。
安息に入る方がよさそうだとはわかりますが、それ以上はわかりません。一体、安息に入るということばを通して主は何を語られているのでしょう。

このあたりは正直、推測の域を出ないのですが、安息に入るということがらを理解するヒントは上記テキストの以下のことばのように思えます。

”ヘブル4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。”

安息に入る人とは、すなわち、「自分のわざを終えて休」む人のことをさすようです。

休むこと、自分の手のわざをしないことがどうも信仰的に大事なことのようです。
自分の手のわざをしないということに関しては実は聖書はあちこちで記しています。
 

私たちが自分のわざを降ろし、主に働いていただく時、私たちは主の栄光を見ます。
このことを聖書は「安息に入る」と語っているようです。

このことがわかると上記ヘブル書で主のいわれていることが理解できます。

”彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。”

すなわち、彼らが正しく主の語られているクリスチャンとして歩む道を悟らず、この「安息に入る、自分の手のわざから離れる」という重要な科目を学ばなかった、そのことをさしているようです。

”12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。”

安息に入る、自分の手のわざを休むという時、裏返せば、わざをなされる方への信仰があるはずです。
逆に不信仰になる者こそ、いつまでも自分のわざ、行いにこだわる者なのです。
だからこそ、「悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないよう」勧められているのです。

”13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。”

「罪に惑わされてかたくなに」なる者はこの安息する、自分の手のわざをおろすということを理解しません。

”14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。”

働いて下さる方への確信を保つ者は、「キリストにあずかる者」となり、神の栄光を見ます。

15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。”

主のみ声に聞き従う人は、この安息、自分の手のわざを離れることを体験します。

”17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。”

罪を犯す人々は、この安息に入るということを体験しません。
しかし、安息に我々が入るかどうかは大きな区分を我々にもたらします。

”18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。”

不信仰な人々は、この安息に入りません。

”4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。”

約束を聞いてもこの安息に入る人と入らない人があります。その差は大きなものとなります。

何故なら、私たちの肉の手のわざは残らないからです。「 信じた私たちは安息にはいる」のです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。”

わざ(働き)と安息とは対比的なことばです。「みわざは創世の初めから、もう終わっている」のですから、私たちは主に信頼し、自分のわざを降ろし、安息すなわち休みに入るべきです。その時、神のわざを見るようになるでしょう。

”4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。”

神は7日目に休まれ、その日を特別な日として聖とするよう命じました。6日ある仕事の日を聖とは呼ばなかったのです。ですから、この安息するということに関して、神が特別な意味あいを与えられたことが推察できます。

”5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。”

安息に入ることは、クリスチャンにとり非常に大事な経験なのですが、しかし、これは神に目を開いていただいて、始めて理解することでもあります。神が「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」といい、我々の目を閉じたなら、決して入ることはできないのです。

"
6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、"

不信仰な人はこの安息に入りません。

ですから、安息に入る人、自分の手を降ろす人は主が働いて下さることを信じるべきだからです。

”7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。”

ここで聖書は「ある一日」について語っています。安息に入る、入らないということは別の表現では、ある日に関する論議なのだということがわかります。

”8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。”

安息について聖書は約束していますが、全ての神の民がこの安息を受けるわけではありません。
安息の休みは神の民のためにまだ残されています。

”10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。”

神の安息に入るとは具体的にいえば、自分のわざを終える、休むということです。
その時、神が働かれます。

”11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。 ”

全ての人がこの安息に入るということを理解し、そこに入るわけではありません。
落後する者もいるのです。しかし、ここに御心があります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー