No.249 ラザロの復活

テキスト:ヨハネ11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。 ”

本日は「ラザロの復活」という題でメセージします。

ラザロ(「神が助ける」の意味)の復活は、福音書中の有名なできごとです。しかし、この物語は単に一人の死んだ人の蘇りというにとどまらず、もう少し深い意味あいがあるように思われます。それを見ていきたいと思います。

これは、死人の蘇りについての話ですが、死人の蘇り、復活に関してパウロはこのように語っています。

”ピリピ3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。”
 

ここで、彼が、「死者の中からの復活」と語る時、直接的に墓の中に入って、その後、棺桶の中から生き返るという意味あいのことがらを語っているわけではないことは明らかです。むしろ、彼は、
罪の結果としての死、罪や肉のしがらみからの復活について語っているのです。

実は聖書の中で復活という時、このような意味あいが大きな意味を占めます。

以下の箇所でも死、復活が罪、義とされるということがらと関係していることが記述されています。

 ”ロマ4:23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。”

我々が義とされることは、主の復活と関係し、罪と死とも関係があるのです。

この視点に立って、上記テキストを見ていきたいと思います。

18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。”

死は罪と関係があります。勿論、このラザロが罪を犯していた、ということをいっているわけではありません。しかし、聖書でいう死は罪と関係しており、この箇所の主題は「罪に沈んでいる者、死んでいた者をキリストは生かすことができるのかどうか」ということがらなのです。

”23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。
」24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」”

主が「「あなたの兄弟はよみがえります。」と語った時、マルタはそのことは自分は知っていると思いました。それで、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えました。この彼女の反応は、人の前には、理性的であり、妥当であるようですが、神がまた主が言おうとしていることとは、異なっていました。

何故なら、ラザロは、「終わりの日のよみがえりの時」ではなく、今、主の目の前で蘇ったからです。

ですから、聖書で我々の復活に関しての記事を読んだ時、ただ「終わりの日のよみがえりの時」のことしか、思い浮かばない人々は、主のいわれたことと、違ったことをいっているのだということを認識しなければなりません。

”25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。”

主を信じる者は死んでも生きます。これは、肉体の命のことのみを語っているわけではありません。もし、私達が罪のゆえに死を経験するとしてもしかし、キリストを信じる者は生き返るのです。
 

”26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」”

これも肉体の命を語っているわけではありません。何故なら、主イエスの時より今に至る迄、どのように敬虔なクリスチャンであっても、誰も彼もその肉体の死を経験してきたからです。ペテロもパウロもその肉体の死を経験しました。肉体の死をいうなら「決して死ぬことはありません」との主のことばは成就していません。

しかし、肉体でなく、霊のことを考えるなら、彼らの霊は決して死ぬことはありませんでした。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」とのことばは彼らの内なる人に実現したのです。

”27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

彼女が「信じております」と答えた時、彼女がキリストを「今すでに死んでいる自分の兄弟を蘇らせる方」として信じていたのかどうかは定かではありません。しかし、キリストはまさにこのような方であり、
既に罪の中で死んでおり、何の望みもない罪人を生かし、義にあって復活させる方であることを我々は、知らなければなりません。
 

”28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。
」35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」”

イエスが涙を流した時、ユダヤ人たちは誤解しました。キリストがラザロの死を悲しんで泣いたと思ったのです。しかし、これは完全な誤解です。逆に聖書は、主が「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」たことを記しています。

この「憤りを覚え」とのことばは以下のマルコ14:5のことばと同じです。
「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女を<きびしく責めた>。」

ですから、この時、主は同情、悲嘆して涙を流したのではなく、憤りを覚え、憤慨して涙を流されたことがわかります。

何を憤ったのでしょう。恐らく、彼らの不信仰を憤ったのです。
ですから全てのクリスチャンは知らなければなりません。主は死人、罪に死んだ人を生かすことのできる方であり、それを信じる事をしない人びとの不信仰をあきれ、憤慨し、憤られるということをです。

私達はいわなかったでしょうか。「もう私のような罪人はだめだ。いくら神様、イエス様が全能でも、私だけは、腐れきったものだからだめなんだ」
私達は、自分が死人である事を認め、いくらキリストでもこの私、罪に死んだ私だけはだめだと言っているのです。

しかし、そのような不信仰に主は憤り、涙を流しておられることを知るべきです。
 

”37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。”

「あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」すなわち、キリストには、死人、罪により死んだ人を生かすことができないとの発言は、主の「心のうちに憤りを覚え」さすことを知るべきです。
これは、不信仰なことばであり、主はこの不信仰に怒りを覚えられるのです。

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"39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」"

4日もたち、臭くなっている全くの死人ラザロであっても私達が信じるなら、死人の蘇り、すなわち、何の望みもない者の霊の生き返りを体験することができるのです。
そして、この死人の蘇り、昨日迄、罪にあって、死んでいた者の蘇りを通して、私達は栄光を見ることができます。

私だけはだめだ、この罪から、死から解放されない、と私達は不信仰の中にいるかもしれませんが、主はその死人の私達を生かして、神の栄光を見させて下さいます。
 

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41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。 ”
 

主が命令された時、死んでいた人は蘇りました。
同じように私達がどのように罪と罪科の中で死んでいたものであったとしても主が命じる時、
何日もの長い死の状態から生き返ることを知るべきです。
これは私たちの願いや力ではなく、ただ主の力によるのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー