No.247 4つの生き物

テキスト:”黙示録4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
7 第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。”

本日は「4つの生き物」という題でメッセージしていきたいと思います。
黙示録に記されている「4つの生き物」に関して見ていきたいと思います。

この黙示録の4つの生き物に関して、この箇所だけを読んでも理解不能です。
しかし、この4つの生き物に関する以下のエゼキエル書の箇所を読んでいくと少しずつ意味が理解できていくように思えます。

” エゼキエル1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
2 それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、
3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。
4 私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。
5 その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。
6 彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
7 その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。
8 その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。
9 彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。
10 彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。
11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。
12 彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。
13 それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた。
14 それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。
15 私が生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった。
16 それらの輪の形と作りは、緑柱石の輝きのようで、四つともよく似ていて、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。
17 それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。
18 その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。
19 生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。
20 これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
21 生きものが行くときには、輪も行き、生きものが立ち止まるときには、輪も立ち止まり、生きものが地の上から上がるときには、輪も共に上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
22 生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた。
23 その大空の下には、互いにまっすぐに伸ばし合った彼らの翼があり、それぞれ、ほかの二つの翼は、彼らのからだをおおっていた。
24 彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。
25 彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。
26 彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。
27 私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。
28 その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。”

この箇所を順に見ていきます。

”第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
2 それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、
3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。”

これはバビロンへのユダの捕囚後のできごとです。そしてこの捕囚は終末の神の民のバビロン捕囚、バビロン化に通じます。ですから、この記述を終末への予表として見ることは無理な解釈ではないと思えます。

"
4 私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。
5 その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。"

ここで4つの生きものがあらわれます。このテキストの一つの特徴は「4」という数字が何度も何度も繰り返して出てくるということです。
いわく、「四つの顔を持ち、四つの翼」「人間の手が四方に出ていた。」「四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。」「四つの輪」等等です。

ですから、この謎めいた生き物の隠れたヒントがどうもこの「4」という数字にありそうだということが推察されるのです。一体これは何を表しているのでしょうか?

終末の4という数字に関係あるみことばには以下のことばがあります。

”マタイ24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。”
 

ここに4方からその選びの民を集めると記載されていることばは、この4というエゼキエル書のことばと何か関係があるのではと私には思えます。
というのは、ここで記されている「四方からの選びの民」はエゼキエル書の4つの生き物と多くの共通、があるからです。それをさらに見ていきたいと思います。

四つの生きもの」

ここで記されている生き物ということばは何だか何の変哲もないようなことばに見えますが,
隠れた意味あいがあります。生きものの反対のことばは、「死んだもの」でしょうか。
死は罪と関係があります。ですから、生きものとは罪と反対のもの、義にある者達であることがわかります。彼らは聖霊により生きているもの、選ばれた民であり、罪、死にあるものではないのです。

「彼らは何か人間のような姿をしていた。

人間ということばにも何か隠れた意味あいがあるかもしれません。創世記によると神が人を創造された後、最後に御自分の息を吹き込まれました。その時は人は生きた人となったのです。

ということは、逆に神の霊を受けていない人は人の形はあるにしても神の前に人ではない可能性もあるのです。そうかもしれません。黙示録には、「小羊のような2つの角を持つ獣」について書かれているからです。彼らは小羊のようであり、いかにもキリストにつく者のようですが、その実体は獣であり、人ではありません。彼らは獣の霊を受けているのかもしれません。

しかし、ここに記されている4方から集められた選びの民は獣ではなく、人です。
彼らは終末の日に獣化する神の民とは異なる、むしろその反対の立場にいることがわかります。

”7 その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。”

彼らの「足の裏は子牛の足の裏のようである」ことが記されています。
子牛の足の裏?一体これは何をさすものでしょうか。

レビ記にきよい動物ときよくない動物の足の裏のひずめについて書かれています。
それによると、ひずめが完全に分かれている動物はきよい動物であり、逆に分かれていないものは清くありません。ここにはたとえが隠されています。

分かれているとはすなわち分離がはっきりとしていることをさし、この世、罪から明確に分離されているきよい歩みのクリスチャンをさすのです。

また「その足はまっすぐ」と書かれています。歩みが曲がっていない、2段階携挙説などの偽りに曲がっていかない者こそ、終末の日に神が選ぶ者達であることがわかるのです。

”9 彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。”

ここでも「彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。」ことが書かれています。

向きを変えない、まっすぐ進むことは、「道であり、真理であり、いのちである」方の道をまっすぐ進む、蛇の惑わしの道に入らない事と関係します。

10 彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。”

ここには、終末の日に選ばれた民の4種類の特徴が記されています。
「人間の顔」とは前述の様に、獣でない、神の「かたちにつくられた」聖徒を示すと思われます。
また「獅子の顔」とは以下のことばを見て下さい。

”歴代誌第一 12:8 また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。”

 このことばによれば、獅子は勇士をさすのでしょう。

牛の顔」

牛はレビ記によれば、ひずめ、歩みのわかれた、また反芻をする、すなわち何度も神のみことばを読む、聖い動物です。清い、分離と神のみことばに親しむ聖徒をあらわすようです。

「鷲の顔」

鷲に関しては以下のことばがあります。

「イザヤ書 40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

鷲は主を待ち望む聖徒を指しているのかもしれません。

”12 彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。”

彼等は正しい狭い道をまっすぐ進みます。そして、霊、すなわち聖霊の行かせるところに行くのです。
この世の常識や、人の定めたところでなく、今の時代に聖霊なる方の言われるところへ行くのです。
かつて、主イエスが来られた時、弟子であるペテロ、ヨハネ達が主の言われるどこへでもついていったように、彼等は終末の日に聖霊として来られた主のいわれたところに聞き従う、終末の弟子達です。

”17 それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。”

彼等は4方に向かいます。彼等は終末の日に4方から集められた選びの聖徒達だからです。

”18 その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。”

この生き物の一つの特徴は目がいっぱいついていたことです。目は見る事と関連します。終末の日に、かつての日に主に盲人といわれたパリサイ人、律法学者と異なり、彼等は見ることのできる者です。
終末の日、多くの人々の目は盲目となり、偽りの教理も偽りの霊も見分けることができなくなりますが、
しかし、この選びの民は見分けることのできる目を持つのです。
 

19 生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。
20 これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
21 生きものが行くときには、輪も行き、生きものが立ち止まるときには、輪も立ち止まり、生きものが地の上から上がるときには、輪も共に上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。”

この生き物、聖徒達は霊、聖霊についていきます。

24 彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた”

水は霊と関係しており、そしてここでの大水のとどろきは、かつてのノアの日のように裁きと関係します。

”27 私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。”

火もまた霊と関係しており、また裁きと関係しています。

28 その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。”

終末の日に雨の日が来ます。これは、かつて、ノアの日に大洪水と滅びをもたらした大雨と通じると思われます。終末には、天が裂けたような霊の洪水が来るのです。
しかし、その日主はノアと結んだ契約を思い出します。大洪水では滅ぼさないとの「虹の契約」を思い出すのです。それが「雨の日の雲の間にある虹」ということばのいわんとしている意味あいと思われます。

ですから、終末の日にノアの日に起きたような富士山やエベレスト山さえおおうような大きな水の洪水が起きることはありません。しかし、洪水が全くないわけではなく、「その日はノアの日のようだ」と書かれているように、霊の洪水は全世界の教会をおそいます。しかし、その日、神は終末のノア、選びの民を思い出されます。彼等との虹の契約を思い出すのです。そして契約の通り、彼等はこの霊の洪水から助け出されます。

終末の日に私達がこの選びの民の一人となることの大切さを知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー