No.246 剣は心をさし貫く

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ルカ2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」"

本日は「剣は心をさし貫く」という題でメッセージします。
かつて、幼子イエスを前にシメオンはマリヤに向かって「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と語りました。そのことの意味を見ていきたいと思います。

このことばを文字通りとるなら、それこそ剣で刺し殺されるという物騒な預言ですが、しかし、剣には、
たとえの意味あいがあります。それは、「御霊の剣、すなわち神のことば」と書かれているように、
神のことばをさすたとえだということです。

もしそうなら、上記の「多くの人の心の思いが現われるためです。」とのことばは、この剣、すなわち、
神のことばの前に「多くの人の心の思いが現われる」、すなわち、多くの人の心の奥底がはっきりとあらわにされることを述べているのです。

例えば、手術のメスで人の体を切ると隠れている胃が見え、見えなかったガン細胞患部が現れてきたりします。このように剣は中に隠れているものを外にあらわします。神のことばはそのようなことをするというのです。具体的にどのようにこのようなことを神のことばはなすのでしょう。
それを見ていきたいと思うのです。

このことは「ことばなる方」イエスがイスラエルに現れた時、成就しました。
ガリラヤの漁師である、ペテロ、ヨハネがどのような神への信仰をもっていたのかということは、当人はともかく、他の人々には、伺いしれないものでした。

しかし、彼らの前に「ことば」なる方、イエスが現れた時、彼らが真理に従う用意のある人々、また
真に「ことば」なる方に従うため、自分の職業や家さえも捨てる用意のある、人々であることがはっきりと判明しました。彼らにはもともとそういう隠れた志があったのですが、その日、このことははっきりと明確になったのです。
同じことは、逆の意味で律法学者、パリサイ人達の上にも成就しました。彼らは聖書や宗教の専門家として、自他ともに認められた人々でした。しかし、「ことばなる方」ナザのイエスが彼らの前に現れた時、彼らのそのような表面、人前の評価ではなく、隠された心が明らかになってしまいました。

彼らは「真理」である方を受け入れることも認めることもできませんでした。それによって、
彼らは人前はともかく、神の前には、「盲人」であることがはっきりとしてしまったのです。

彼らの隠れた事実、「神の前には盲人である」という心の秘密はこの「ことばなる方」を前に明確に明らかになってしまったのです。

たしかに「それは多くの人の心の思いが現われるためです」とのことばは成就したのです。
更にこのこと、「神のことば、剣が人のこころをあらわす」ことに関連して、ヘブル書では以下のように記してあります。
 
 


ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。”

このことばを見ていきます。

12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。”

ここでは、「神のことばは...心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」と書いてあります。このこと、人の考えやはかりごとを判別するとは、具体的にどのようになされるのでしょうか。
これを考えてみましょう。

これはたとえば、このようにして判別するのかもしれません。

エデンの園で神はそのことばをアダム、エバに与えました。その時、この神のことばは、「剣」のように、エバの真の心を判別しました。
彼女は神のことばを受けた時、すくなくとも外面はことばを守るように見えました。彼女自身もそう思っていたのかもしれません。しかし、この神のことばは「剣」として用いられ、彼女の真の心をはっきりと表してしまいました。

蛇が神のことばを「剣」として用い、彼女にこう問いかけました。「園のどの木からも食べてはいけないと神が本当にいわれたのですか」

このことばに対する彼女の答えの半分は正しいものです。「私達は園のどの木からも食べて良いのです」

しかし、その半分は異なります。
「園の中央にある木に関しては、その実を食べてもいけない。触ってもいけない。死ぬといけないからだ」
などと神が当初語ったことばと異なることを言っています。そして、このように彼女が「神のことばー剣」に対して、答えた時、実はこの答えはそのまま、彼女の真の心を表していたのです。

「触ってもいけない」などと神がいってもいないことを付け加えた時、彼女は自分の「神のことばを忠実にことば通り受け取る」気持ちのないことをはっきりと表してしまいました。

またはっきりと神が「この実を食べると死ぬ」と断言した言葉に「死ぬといけないからだ、死ぬかもしれない」というようにあいまいなことばに変えていったとき、「自分の都合しだいで、神のことばを薄めたり、変質させる」という彼女の隠れた心があらわれてしまったのです。

自分にそんな心があることさえ、実は彼女自身さえ気がつかなかったのかもしれません。彼女は「自分は神の教えに忠実だ」と確信していたのかもしれません。しかし、神のことばは、剣として用いられ、明確に隠れたものをあらわしてしまったのです。

13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。”

我々クリスチャンの「本当の心」は神のことばを通して、はっきりとあらわにされてしまうのです。

かつてエデンの園の中でエバの心があらわにされた様に、今も私達の心は神のことばの前に明らかにされます。

たとえば、この終末の時代に蛇は明確に主が言われた「終末の艱難な時代に備えるように」「世の終わりには(クリスチャンには)かつてなく、今後もないような艱難がある」とのことばに反対を唱えました。

蛇として用いられた教師、聖書学者達は、「2段階携挙説」を始めとする偽りの教えを「女」すなわち教会へ提示し始めました。この蛇に用いられた剣は、この終末の時代のクリスチャン達の「隠れた心」を表すのに用いられました。

エデンの園のエバが愚かにも「神のことばと全く正反対の教え」を受け入れたように、終末の人々は、
キリストが終末について語ったことばと全く正反対の教え、「艱難の前には挙げられる、教会は艱難に会わない」との教えを愚かにも受け入れるようになったのです。

エバが蛇の偽りを受けたことで、彼女の真の心があらわになったように、この偽りの教えを受け入れたという事実は終末のクリスチャンの「真の心」を明確に表しているということを覚えて下さい。

このことには、建て前はともかく、「キリストの為に苦難なんか会いたくない」との彼らの心が現れているのではないでしょうか。

また、私達が仏教徒も救われる、ヒンズー教徒も救われる、キリストを信じない人でさえ救われる(?)
などという偽りの教えを受け入れる時、すなわち、「この方による以外、救いはない」という明確な聖書のことばを否定する時、このことばに対する態度を通して、私達の心は明らかになっています。
要するにそのように主張する人々は「聖書のことばや教えなんか守りたくない。世の中の人のようにこの世と歩調を合わせてうまくやっていきたい。しかし、天国にはやっぱりいきたい」という身勝手な考えを持っているのです。彼らの心があらわれているのです。しかし、
「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されてい」ることを知るべきです。

私達は神のことばにどう対するかを通して裁かれるでしょう。その日、「私たちはこの神に対して弁明を」しなければならないことを知るべきです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー