No.246 いのちへの門は狭い

テキスト:”マタイ7:13 狭い(まっすぐな)門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く(苦難が多い)、それを見いだす者はまれです。
15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”
 

本日は「いのちへの門は狭い」という題でメッセージします。

私達クリスチャンの一つの願いは、この地上の命というより、神から与えられる永遠の命です。
その永遠の命に関して上記テキストは明確に「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と書いています。このことを見ていきたいと思います。

上記テキストには順に3つのトピックが書かれています。
すなわち、

1. (永遠の)いのちに至る門は狭く、それを見い出す者はまれだということ。13,14節
2. 偽預言者に気をつけるということ。15-20節。
3. 勘違い、思い違いをして「自分は天国へ入れる」と思っていたのに、逆にその日『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』と主に言われる者が多いこと。21-23節。

これらの3つの話はそれぞれ関連があることをとらえて下さい。

すなわち、
1. (永遠の)命に至る門は狭くその道は狭いというはっきりした神の前の現実がある。これは、天地が去っても変わることのないキリストのことばである。
2. しかし、この変わることのないキリストのことばを曲げ、クリスチャンにうまい嘘の教理を吹き込む、偽預言者がいる。
3. 彼らにだまされた人々はキリストに会ったその日、「『わたしはあなたがたを全然知らない」といわれ、やはり永遠の命に至る道は狭かったことに気がつき、がくぜんとする。

以上のような構成になっているのです。

救われること、永遠の命を得ることは簡単であり、誰でもクリスチャンと名が付けば永遠の命を得られるとは多くのクリスチャンが聞く教理ですが、どうも聖書は永遠の命に関してそうはいっていないようです。
私達は正しく教理を見分けていかなければなりません。

これらの理解に 基づき、上記テキストを見ていきましょう。

"
13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。"

「いのちに至る門」という時、この「いのち」とは何をさすのでしょう。現在のこの世における命というなら、我々はすでにこの世における肉体の命は持っています。ですから、恐らく聖書でいう「永遠の命」に関することばではないかと想像されます。

「狭い門」という時の「狭い」ということばの原意は「まっすぐ」という意味あいがあります。

ですから、このことばは以下のことばと関係があります。

マタイ3:3「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

バプテスマのヨハネの時代、神へ至る道、キリストへ至る道は曲げられていました。だからこそ、
彼は『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と叫んだのです。

今も教会においてこの道は曲げられています。しかし、正しい道を見い出し、そこを歩む者は命、永遠の命を得ます。

かつて最初にだまされ、この道を曲げられ、その結果、永遠の命に至らなかったのは、あのアダムとエバです。神のいわれた道、「この実をたべるな」と言うまっすぐな道から外れ、曲がった道へと誘いだされた彼らは「いのちの木」から遠ざけられてしまったのです。彼らはもう命の木の実を食べることが赦されなくなったのです。

同じ意味あいで、今の時代に多くはんらんした「曲がった教え」「曲がった道」へ誘い出される
人々は決して永遠の命を得ることができないことを覚えて下さい。

「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。」

蛇が「この実を食べても決して死なない」と断言した時、アダム、エバにとって道は広くなりました。
禁止事項が撤廃されたのです。自由になったのです。
しかし、蛇の広い道を選んだ彼らは「滅び」に入った、すなわち、永遠の「命の木」からは遠ざけられてしまったのです。

今も蛇の子孫である現代の教師、牧師、神父は広い道、大きい門へと我々を導きます。

「地獄は皆さんの心の中にはあります。しかし、神は愛なので、人を苦しい目にあわせるということはないのです。従って来世に地獄はありません」などと説く人々は、すばらしく広い門を我々に開いてくれます。「地獄はない?何をしても裁かれない?」これは大変な自由であり、大きな教理上の「進歩」ですが、このような教えに関して主が「滅びに至る門は大きい」と語ったのだということを覚えて下さい。

「そして、そこからはいって行く者が多いのです。」

しかし、そのように警告がなされても聖書は「そこからはいって行く者が多い」と語っています。
偽りではあるが、しかし、自分にとって都合のよい教えを受け入れていき、あとでその日に「泣き、歯がみ」する人が多いのです。

"14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く(苦難が多い)、それを見いだす者はまれです。"
 

上記で「その道は狭く」と言われる、「狭い」ということばの意味あいは「苦難が多い」という原意があります。このことばは、以下で使われているものと同じ原語です。

”コリント人への手紙第二 4:8 私たちは、四方八方から<苦しめられ>ますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。”

ですから、ここでは私達クリスチャンに対して、主は「苦難の道」について語っていることをとらえるべきです。
ですから、はっきり知らなければならないことは、永遠の命を得る人とは、主とともに「苦難の道」を選ぶ人であり、それゆえ十字架を負って歩もうと志す人々は実は、「永遠の命」を得る人々なのです。

苦難の道を通って栄光を得られたイエスについて聖書はこう記しています。

ヘブル12:2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

また、この道は苦難の中で主のみことばに立ち続けたパウロやペテロ達の道でもあるのです。

しかし、全ての神の子がこの道を選ぶのではなく、「それを見いだす者はまれ」であることを
知るべきです。
このことばが「永遠の命」に関することばならば、いかに聖書のことばは我々がいつも聞いている教理と異なることでしょう。私達は、永遠の命は誰でも受けられる、それこそ永遠の命の大安売りのような教えをいつも聞いていないでしょうか。

しかし、どんな場合でも聖書のいうことが正しいのです。

”15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。”

この命、永遠の命への門は狭く、道が狭いことが言われたことが語られた後、にせ預言者について語られています。ですから、この偽預言者は直接的には、「門も広く、道も広い」ことをいう人々だということが推察されます。

天国の門は広い、永遠の命への道は広いことをいう人々が偽預言者だとしたら、私達の回りには
このような声に満ちているのではないでしょうか。そうです、今は偽預言者の声があふれた時代なのです。正しい預言者の声はかき消されており、永遠の命への道が狭く、門も狭いことをいうなら、「救いに関しての教理がおかしい」「異端的だ」「万人への救いを否定する恐ろしい教え」ということになっています。

そして「天国の門は広い、神は愛だから地獄は無い」「ヒンズー教徒も仏教徒も救われる」などという心も広く、道も広い人々が「異端だ」と非難されることは決してないようです。

しかし、主はまさにこのような人々に関して、「彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」と言われたのではないでしょうか。

”16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。”

実によって偽預言者かどうかを見分けることができると主は言われます。実は御霊の実に通じます。
これは、預言者そのもののことをいうでしょうが、それだけでなく、その預言者の教えを受けた人々をもさすかもしれません。何故なら、パウロは自分の働きの結果救われた人々に関して、「私の働きの実」と表現しているからです。

パウロの働き、教えにより救われ、成長した人々が、道徳的に退廃したクリスチャンばかりだとするなら、実から判断するに、「パウロは偽預言者だ」とそういうことになってしまうのです。(もちろん、そんなことはないのですが)

例えば、過去1-2世紀の間、「段階携挙説」を語った教師達がいました。これらの教師は正しい預言者だったのでしょうか、それとも..。
このことはその「実」が証明しています。この教えが全世界に広まった過去1-2世紀の間の教会の退廃、後退ははかりしれないものがあります。その結果、 例えば、今では私達は同性愛者であることを公言する 牧師迄、日本のプロテスタント教会に持つようになりました。

また英国国教会では、「イエスは復活しなかった」と公言するカンタベリー司教をその長として迎えています。確かにこの教え、「段階携挙説」の実は(悪魔にとり)すばらしいものであることがわかります。

また、例の獣のリバイバル、トロント、ペンサコーラ リバイバルを考えてみましょう。
このリバイバルの霊により、ある教会の牧師は自殺、また、他の教会の牧師は精神を病み、教会は分裂、
したということを聞きました。まことにこの教え、リバイバルもすばらしい「実」を結んでいることがわかるのです。

これらの教え、霊はいばら、あざみであり、決してぶどうもいちじくも生ずることはできません。

”17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。”

現代の時代の教会のクリスチャンの道徳的荒廃は目をおおうようなものであると聞いたことがあります。
何故、今の教会はこのような実を毎年毎年、むすばねばならないのでしょうか?何が悪いのでしょうか?
その理由は木が悪いこと、教会で現在教えられている教理、またそれを教える牧師、教師が「悪い木」だからではないでしょうか。

いいえそうなのでしょう。今、教会に悪い実がむすばれ、さらに結ばれていくのは、 その木が悪いことの何よりの理由ではないでしょうか。

”19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。”

木が切り倒されるなら、もう水を受けることも成長することもありません。神は忍耐の方ですが、
しかし、終末には、はっきりと「切り倒す」という決定的な時が来ることを覚えて下さい。
「光のある間に」光を信じなければなりません。「火に投げ込まれます」と書かれているように、 この偽りの教えを受けている人々の行き着く先は悪霊によるさばきです。

"
20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。"

実によって、偽預言者か、真の預言者かを見分けることが繰り返されています。
ですから、その教会、教団が、神の前に真理のことばを語っているかどうか、すなわち偽預言者かそうでないのかは、は、自称「聖書的信仰に基づく...云々」といったことがらではなく、その教会、教団の信者が結ぶ実であることがわかります。
かつての戦争中、教会、教団こぞって、キリストを否定するような「実」を結んでしまった教会は結局、
そのような「木」、そのような教え、偽預言者に過ぎなかったのかもしれません。

まして、今、復活はなかった、進化論は正しいという情けない信仰の信者を排出する教会にいたっては、まさに偽預言者の牧師、教会という以外、いうべきことばはないでしょう。

”21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

キリストを主と呼ぶ全ての者が天国にはいるとは限らないという驚くべき教理がここで述べられています。
これは、我々が聞かされている、「クリスチャンと名がつき、キリストを主と呼ぶ者は決して救いから外れない、すなわち天国へ入れる」という広い門、広い教えと全く異なる教えです。
しかし、当たり前のことですが、どんな場合でも主のいわれたことが正しいのであり、もし、教理や神学や教会が主のことばと異なる教理を述べていて、それがどれ程、圧倒的支持を受けていても、主の「律法の一点一画が過ぎ去るより天地が過ぎ去る方がたやすい」ことを思い出すべきです。

「父のみこころを行なう者がはいるのです」と書かれています。
行うことが書かれているのです。ですから、私達の「クリスチャンである」という名目が大事なのではなく、実際の行いを正すことがだいじであることがわかります。何とかして、「父のみこころを行なう」ことができるように求めていこうではありませんか。

”22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』”

ここで更にびっくりするようなことが書かれています。悪霊を追出し、奇跡を行った者達でさえ、主に「知らない」といわれ、天のみ国に入れないということが書かれているのです。

彼らはキリストを主と呼ぶのですから、当然、クリスチャンです。何故なら、仏教徒もヒンズー教徒も未信者もキリストを主と呼ばず、ただ、クリスチャンのみがそう呼ぶからです。
彼らはクリスチャンであり、しかも奇跡を行い、悪霊を追出す、力あるクリスチャンなのです。

彼らでさえ、「知らない」と言われる可能性があるのですから、まして何の奇跡も(今のところ)行っていない私達はもっと危ないと思うのがこの箇所の妥当な解釈です。

ですから、人々がいう程、命、永遠の命への門も道も広くはないことをはっきり知るべきなのです。
その日になって「そんなはずでは」といっても遅いからです。
私達の命は自分で確保しなければなりません。

かつて主が悪霊を追出し、喜んで返って来た弟子達に悪霊が追出されることより、「名が天に記されていることを喜ぶ」ように語られたようにこのことは決して、簡単なことではないのです。
 

”23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”

彼らが何故キリストに「知らない」といわれるのか、その理由がはっきり記されています。彼らは、
不法を行っているからです。ですから、私達は、たとえクリスチャンという名前があっても、
また大きな奇跡をかつて行ったとしてもその後、不法を行い、罪を行い、それから縁を切れないなら、主から「知らない」といわれることをはっきり理解しましょう。

当たり前のことですが、不法を行う者と主とは何の関係もないのです。

彼らはこの日、主に「知らない」といわれて始めて、ものごとの真実を悟ります。確かに永遠の命への門は狭かったこと、自分達が教会で教えられていた教理とは全然違っていたことを悟ります。
しかし、その日では遅いのです。

私達は今日、真実を悟らなければなりません。

何がもっとも大事なことなのかを悟りましょう。将棋の駒の中には大駒といって、大事な駒があります。
飛車や角は大事な大駒です。しかし、いくら大事な駒でも王手飛車取りの時、飛車を逃すようでは、王様がとられてゲームセットになります。

クリスチャンにとってもっとも大事なものは、たまものでも名声でもありません。
悪霊をいくら追出して、名声が高くなっても永遠の命をとられたら、王をとられた将棋のように、
終わりなのです。

肉を切らせて骨を切る、すなわち、悪霊追い出しができるぞと有頂天にさせて、こっそり、永遠の命への
道を遮る敵の働き、策略を見分けていかなければなりません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー