No.244 サルデスへのことば

テキスト:”黙示録3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」
6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』”
 

本日は、サルデスへのことばと題して、黙示録のサルデスの教会への手紙を見ていきたいと思います。

サルデスとは多くの人がいうように「プロテスタント教会」の予表ではないかと私も思っています。
キリストはそのプロテスタント教会を何と「生きているとされているが、実は死んでいる。」
と評価されるのです。これは由々しき問題と思われるのですが、この教会の現状を見ていきたいと思います。順に見ます。

”1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。”

「神の七つの御霊」と書かれています。7は教会を示す数字です。教会は神の霊によってのみ保たれることを覚えましょう。この教会が「生きているとされているが、実は死んでいる。」
といわれるゆえんは、この神の霊の声に従って歩んでいないからでしょう。「七つの星」と書かれています。星はアブラハムの子孫であるクリスチャンをさすことばです。暗い夜に輝くのが星であるように、暗い罪の世界に義で輝くように我々は召されています。

「わたしは、あなたの行ないを知っている」

主は私達の行いがどのようなものかを知っているといわれます。
当たり前のことですが、人と異なり、神、キリストは私達の建て前や信条より、実際にどのように行っているかを御存じだということを思い出して下さい。

多くの間違った偽教師、偽預言者は、「救いは行いによるのでない」からと強調して、「どんな罪を犯しつづけても誰でも天国へ入る」ととんでもない教理を語りますが、主は私達の「行い」によって裁かれることを思い出さなければなりません。偽りに惑わされず、行いが正しいものとなるように私達は求めるべきです。

”あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。”

この教会の信者は、理論的、神学的には「生きているとされている」のです。すなわち、この教会は、神学者によれば、すばらしい命に満ちており、大いなる祝福の中にあり、栄光を受け継ぐ者であるということなのです。

そいういったすばらしい美辞麗句はあくまで人前のものだけであり、ただ盲人どうしの
ほめあいでは空しいものです。何故なら、キリストははっきりとこの教会に対して、「生きているとされているが、実は死んでいる」と断言しているからです。

いくら親や友達がほめそやかして、「貴方は天才」といわれてもいざ試験の評価が0点では意味がありません。結果として希望の学校にも入れないし、自分も大いに恥をかくからです。
回りの人の無責任なほめことばより、肝心なのは、判断する立場にある試験官の評価なのです。
同じようにいくら神学者が良いことをいったからといって、彼らは判断したり、裁く立場にはいません。全ての人を裁き、判断するのは唯一の方、私達の主、キリストだということを思い起こさなければなりません。そしてこの教会は、他でも無い、このキリストに「死んでいる」といわれているのです。

注目すべきことはここには2種類の異なった評価が暗示されているということです。

1. 一つは人からの評価であり、これは教師、預言者を通して来ます。彼らのこの教会に関する評価は、「生きている」という評価です。別のことばでいえば、命にあふれている、永遠の命にふさわしい、神に喜ばれているというような評価でしょうか。しかし、はっきりいいますが、こんなことをいう教師、預言者は「偽預言者」です。何故なら、これらの評価は主の評価とは全く正反対だからです。
彼らは「主からは遣わされていない」のです。

2. もう一つの評価はキリストからの評価であり、彼らは「死んでいる」すなわち、罪の中にいる、命は失われている、永遠の命は危ないというものです。これらの言葉は、人の耳には厳しいものであり、耳に心地よいものではありませんが、しかし、他ならない唯一正しい評価をされる方からのものであることを覚えて下さい。

ですから、結論としてこの教会、プロテスタントの教会に対して、その現状を警告する者は主から遣わされた者達であることがわかります。

死は罪と関係しています。この教会は罪とはっきりと決別していない教会です。

”2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。”

「目をさましなさい」と書いてあります。逆にいうと、この教会が眠った教会であることがわかります。
眠る人は無防備であり、回りで獣が歩き回ってもわかりません。

”そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。”

「他の人達」とは、他の箇所では「残りのもの」と訳されています。「残りの者」とは、聖書の中で特別な意味あいがあることばなのです。
これは、たとえば、バビロンの日にイスラエルへ戻ってエルサレムを再建した人々に通じます。
彼らは神のみこころの民です。しかし、この教会においてこの小数の「残りの者」さえ死にかけていると言われているのです。大変危機敵な状況であることがわかります。

わずかに残る「残りの者」でさえ、死にかけている、すなわち、罪に巻き込まれていく瀕死の教会、それがサルデスだというのです。

わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。”

今のキリスト教会では「信仰」さえあれば、行いなどどうでもいいことになっているようですが、
しかし、他ならぬキリストは「行い」について語り、叱責していることを覚えて下さい。

偽教師や偽預言者がどういったか知りませんがそんないい加減なことばに騙されずに、私達はその行いが「神の御前に全うされ」るよう求めるべきです。

”3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。”

このように語られているということは、この教会が、かつて受け、聞いたことばから離れているということを暗示するのでしょうか。
 

”それを堅く守り”

神のことばを守ることが大事です。

”また悔い改めなさい。”

悔い改めるとは「方向転換」をするということだそうです。方向転換せよということは、、この教会が間違った道を歩んでいることを暗示します。

ですから、もし私達プロテスタントのクリスチャンがサルデスならば、今のプロテスタントの教会の歩み、方向、方針を「遵守」することは正しくないことがわかります。
どの道が正しいのかということは私にはいえませんが、しかし、主は明確にこのサルデスの方法、歩み、
方針に対して、「悔い改める」ように、すなわち方向転換するように語られていることをとらえて下さい。

”もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。”
 

「もし、目をさまさなければ」というように、主はこの教会に対して「眠っている」ことを前提にして
忠告しています。私達が電話をかける時、それが昼の2時なら、「相手の人が寝ている」ことを想定する必要はまずありません。しかし、それが夜中の2時なら「相手の人は寝ている」ことを前提に電話をすべきです。それが常識というものです。それと同じ意味あいで、主はサルデスの教会に対して、
多くの信者が眠っていることを前提にしたかのように、「もし、目をさまさなければ...。」と語りました。

プロテスタントの人が聞けば異論があるかもしれません。「そんな馬鹿な」という人も多いかもしれません。しかし、どんな時でも私達の常識と食い違う時でもやはり主のいうことが正しいのです。
 

”あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”

ここにこの教会に関して以下のことが書かれています。

1. この教会は眠っている。だから目をさますようにいわれている。
2. この教会は主の再臨に遭遇するが、しかし、主がいつ来るか「決してわからない」

さて、同じようなことを警告されている人々がいます。それは、有名な「賢い花嫁、愚かな花嫁」のたとえに出てくる愚かな花嫁です。

彼女は以下のように上記に該当します。

1. この花嫁は眠っている。何故なら、このたとえの最後にこう書かれているから。
「マタイ25:13 だから、目をさましていなさい。」

2.この花嫁は主の再臨に遭遇するが、しかし、主との婚姻の席に入れない。
また、主がいつ来るか知らない。 以下のことばのように。
マタイ25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

ですから、他でもない「愚かな花嫁」のたとえはまさにこの教会の上に実現することが理解できます。
ですから、愚かな花嫁に語られた以下のことばはこの教会の上に成就するのかもしれません。

マタイの福音書 25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。”

主に「知らない」といわれるとするなら、それはどのような教会でしょうか。果たして、天国へ入れるのでしょうか。永遠の命を得られるのでしょうか。まことに危ない教会なのです。

4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。”

しかし、サルデスの全てが悪いわけではなく、「数人」の衣を汚さなかった者がいます。彼らは義人です。
彼らは「白い衣を着」ます。また、「わたしとともに歩む。」すなわち、キリストとともに歩みます。
彼らは主につく者たちです。

ですから、まとめると罪、死と関連してこの教会には以下の3種類の人々がいます。

1. サルデスの大部分を占める「生きているとされているが実は死んでいるもの」
すなわち、建て前はともかく、主の前には死人、罪人である人々。

2. 小数派である、死にかけている残りの者。彼らはまだ生きている、多少罪から離れている部分はありますが、「死にかけている」すなわち、ほとんど罪にまみれています。永遠の命を得るかどうかは定かではありません。

3. 更に小数の「衣を汚さなかった者」。彼らは主により白い衣を受け、義人として認められます。

ですから、サルデス、プロテスタントに関する主の評価は、彼らの勘違いと教師達の嘘とは対称的に非常に厳しいものであることを覚えて下さい。

決してサルデスの常識に従って歩んではいけないのです。逆に悔い改めるべきなのです。

”5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」”

「 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」と書かれています。ですから、上記、数人の白い衣を着た人々こそこの教会における例外的な「神のみこころにかなった人々」なのです。
彼らの数はそれこそソドム、ゴモラの町の中のロトの家族のように圧倒的に少ない人々でありそうだということをとらえて下さい。
彼らに関しては、「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」とのはっきりとした約束が与えられています。彼らは永遠の命を受けるのです。これは上記3種類の人々の中で3番目の人々のことです。しかし、それ以外の人々は一体どうなるのでしょう?

はっきりいいますが、それ以外の人々はあぶないことを覚えて下さい。何故なら、はっきりとした「いのちの書から消すようなことは決してしない」との約束が彼らにないからです。
 

ですから、今色々いわれている偽りの教理に耳を貸さず聖書の声に耳を傾けることはとても大事なのです。

わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」

また、この人々はキリストの前で「知らない」とはいわれません。私達が主の前でその名を言い表わしてもらえるかどうかはそれこそ永遠に至る区分をもたらします。
この言い表すということばは、愚かな花嫁に言われた以下のことばと対称的です。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。」

また薩INDER DAT"1o+カ\メ達へのことばと対称的です。

”マタイ7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”

知らない、名前を言い表してもらえないということが永遠に至る大きな裁きをもたらすことを覚えて下さい。

ですから、このサルデスの一部は賢い花嫁であり、また他の人々は愚かな花嫁です。
同じ教会に属するクリスチャンでもこような明確な区分があるのです。
今は同じ教会に属していても永遠の住まいは異なる事になるでしょう。

6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』”

主のみこえを聞いていきましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー