No.242 啓示が与えられたら先の人は黙る

テキスト:
1コリント14:30 もしも座席に着いている別の人に黙示(啓示)が与えられたら、先の人は黙りなさい。”

本日は「啓示が与えられたら先の人は黙る」という題でメッセージをします。
ちょっと長い題ですが、この表現は上記聖書の中にそのまま出てくることばです。

この箇所は教会の中で「預言」することについて書かれている箇所です。
ですからこの箇所の第一義的な意味あいは教会の中で「xxさんに主はこういわれる」とか「明日は雨」だとか晴だとか「預言」のたまものを使用することがらについて語っているのです。

しかし、それにとどまらず、多くの聖書の箇所がそうであるように、この箇所には「二重の意味あい」があるように思えます。

というのは、この箇所は、聖書のいわゆる「預言」、特に「終末の預言の啓示」について語っているようにも思えるのです。上記聖書の箇所には「預言」及び「啓示(黙示)」について語られています。

聖書に記されている黙示録を始めとする終末の預言に関して、多くの人が多くの解釈、多くの解説をしています。しかし、聖書がこれらの預言に関して重要視しているのは、「啓示」であることを知らなければなりません。

そして、聖書ははっきりと終末の預言は、終末の定められた時に至る迄は「啓示ー封印を開くこと」は与えられず、その預言は「封印」され、閉じられていること、それゆえ誰も見ることはできないことを語っています。

例えば、「黙示録(原意は啓示録)」ということば自体、そのような意味あいがあるのです。

黙示録ということばは、「覆いを外す」という意味あいであり、終末の預言に関しては、
主の定められた時までは覆いがかかっている、その為、誰も彼もはっきりと見ることはできない。
主がその覆いを取り除かれる時迄は、誰一人見ることも理解することもできないことを暗示しているのです。

また、ダニエルに対して以下のように語られた時、やはり「終末の預言は定められた時に至る迄、
誰も開くことができない」ことを聖書は語ったのです。

”ダニエル12:44 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」”
 

また以下の箇所も同じく、終末の時に至る迄、この預言の書が閉じられていること、「誰も開くことも
見ることもできない」ことを語っています。

”黙示録5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」”

繰り返します。終末の時に至るまで、この終末の預言は決してその封印は開かれず、誰も見ることも
読むこともできないのです。そのように神は語り、聖書は述べているのです。

しかし、大変残念なことには、この明白な聖書の主張を受け入れない教師達がキリスト教会には多いのです。彼らは「もう黙示録は開けた。」「私はそれを開いた。何もかもわかっている」と主張するのです。ある人々はあろうことか、自分が開いたと主張する「解釈」に基づいて、他の人々を「私の解釈に合わないから異端だ」と断罪するしまつです。

彼らの聖書の解釈書を読むと、まことしやかに「この7つの封印は..を示しており」とか「この4頭の馬は..をさしており」などといった説明がいかにも本当らしく書かれています。そして、人々はこの黙示録に関して、もう正しい定説の「解釈」が存在するのだとさえ考え、誤解しているようです。

しかし、これらははっきりといわせていただけるなら、「全くの間違い」です。
何故なら、神がその権威をもって、「封印」した書が人間の猿知恵で
簡単に開けるはずがないのです。いいえ主が定めた時までは、ほんの少しも封印は開けるはずもなく、少しも読めるはずがないのです。ですから、終末の「その時」に先駆けて今語られている「黙示録の解釈」はただ、人間の知恵や思い付きを書きつらねてあるものにすぎず、はっきりいって、ただの空想話にすぎないのです。100年も200年も前から語られている「黙示録の解釈」を持ってきて、何だか分かったようなことを言っている人々はこのこと、神の定めた時迄は決して封印が開かれないこと、を理解していません。これらの古くからの解釈は、多少参考になるかもしれませんが、まともに信ずるには足りません。

これらの解釈書の一つの特徴は、人間の知恵に満ちているかもしれません。しかし、聖書は黙示録に関して「啓示ー覆いを取り除く」ことについて語っていることを知らなければなりません。
神が啓示を与えられる迄は決して誰も封印を開くことはできないのです。

啓示、終末の預言の封印が解かれることは「時」に関連していることをはっきりと知らなければなりません。
何故なら、「ダニエルよ。あなたは終わりの「時」まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。」と「終わりの時」というはっきりとした時が来るまでは封印するように命じられているからです。
 

だから、終末の預言はタイムカプセルのようなものなのでしょうか。タイムカプセルは例えば、
「西暦2000年1月1日に開けよう」と定めたら、その時迄は開かれないのです。金持ちだとか、成績がよし悪しに関わらず、1998年でも1999年でも開かれないのです。しかし、2000年1月1日になれば、皆がそれを開いて中にあるものを見ることができます。時が関係しているのです。

同じように終末の預言に関してもその解釈は
解釈者が頭の悪い、良い、とか、知識があるなしとか、信仰がある、なしということがらでなく、ひとえに「時」に関係しているのです。神の定められたその「終末の時」になれば、このように難解な黙示録がすっきりと明確に開かれるようになるのです。

多くの解釈者はこの「神の定めた時」を尊重しようとしません。神がその封印を開く前からもう何もかもわかっているようなえらそうな態度をとります。しかし、私達においてはこの「神の主権」を尊重すべきです。

さて、冒頭のテキストを見ていきましょう。

”もしも座席に着いている別の人に黙示(啓示)が与えられたら、先の人は黙りなさい。

黙示録に関して、長い間、主は決して黙示(啓示)を与えられなかったので、人々は、
色々、自分の考えで思い付いたことを語ります。それぞれの人がそれぞれ色々語ります。
これが上記の「先の人」です。自分の考えや、研究成果を語るのは(終末までは)決して禁じられているわけではありません。何故なら、神が啓示を与えられない以上、我々の方で色々推測したり、考えを巡らすしか方法がないからです。

しかし、終末のある定められた時に突然、神はこの終末の預言に関して「黙示(啓示)」を下します。
それが、誰に対して、どのようにということは私にはわからないのですが、しかし、主はその定められた時に約束どおり、「啓示」を与えるのです。さて、もし万一我々がその時代、「啓示が開かれる時代」に、生きるようになるなら、一つ気をつけなければならない大事なことがあります。それは上記のように「先の人は黙」ることなのです。

この「先の人」に関しては、「先に黙示が与えられた人は」とは書かれず、ただ「先の人は」と書かれています。ですからこの「先の人」には啓示が与えられていないことが暗示されるのです。

「先の人」とは要するに「神が啓示を与えられる前に存在する全ての終末に関する解釈、解説、教師、神学者」のことかもしれません。彼らは学識があり、多くの人に認められ、正統派であるかもしれませんが、しかし、彼らに「啓示」がないのなら、彼らは黙るべきなのです。

このような考え、終末に啓示が与えられるとか、その時、先の人は黙るなどというと、「とんでもない、曲解」「聖書の教理の逸脱」のように見えるかもしれませんが、そうでもありません。
実にこのことはイエスの時代、また使徒達の時代に起きたことなのです。

新約聖書の中でもっとも多くの書簡を書いた、すなわち、教会の教理の土台を築いたのはいわずとしれたパウロです。そして彼は自分の教え、解釈に関して、「猛勉強の上に理解した」とはいっていません。逆に彼はたびたび「啓示」について語っています。以下のとおりです。
 

「ガラテヤ人への手紙 1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」

「ガラテヤ人への手紙 1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、」
 

「ガラテヤ人への手紙 2:2 それは啓示によって上ったのです。」

「エペソ人への手紙 1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」

「エペソ人への手紙 3:3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。」

またある箇所でパウロはこうも記しています。
 

「エペソ人への手紙 3:5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」

ですから、「以前には啓示はなかった、(しかし、今はある)」とパウロは語っているのです。
そして、終末の時も同じなのです。それ迄は開かれないのです。しかし、この時、神が「啓示を開く」と聖書の中で明言している以上、
終末にこのことばは啓示され、(今迄と異なり)開かれてくるはずなのです。

しかし、このような「啓示が開かれる時」に起きる一つの問題があります。
それは「先の人」が黙らないことです。逆に大声で反対するようになるということです。
しかし、「先の人」は終末に「啓示が与えられる」迄は語ることが赦されていますが、「啓示が他の人に与えられた」なら、黙るべきなのです。
 

「啓示が開かれたパウロ」に対して「先の人」であるユタヤ人、律法学者、パリサイ人達が
いかに執拗に頑固に反対したかということは使徒行伝を読めばよくよくわかります。

彼らはこのパウロを「ペストのような存在だ」「世間をさわがすものだ」「異端、セクト」であると
確信し、大声で反対していたのですが、しかし、神の前の事実は何とこのパウロは「神から啓示を受けていた人」だったのです。

いかに人の考え、理解と神の方法とが異なるかがよくわかるというものです。
そして、このことは終末においても全く同じです。

愚かで曲がり切った聖書解釈や神学といった「偽りを喜んでいる」「先の人」達は決してこの「終末の啓示」に関してまた「この啓示を受けた人」をも認めないでしょう。逆に彼らを「教会を騒がす者」「異端、セクト」として排除するでしょう。彼らは黙るどころか、大声で排除するようになるでしょう。
「初代教会時代には啓示は与えられたが、もうそれ以降、啓示はない」などと聖書と真っ向から
対立する偽りの教理を掲げる人々はその先頭に立つでしょう。

彼らはダニエルに対して「このことばは終わりの時まで秘められ、封じられている」ダニエル12:10
といわれたことばを読んだことはないのでしょうか。世の終わり迄、神のことばが封じられているという以上、当然、世の終わりにはそれが開かれる、啓示されるのです。
ですから、「世の終わりには啓示が開かれる」と主張する人々のどこが「聖書的でない」のでしょう。
わけのわからない偽りを標榜する人々こそ盲人であることを知るべきです。

しかし、私達にあっては、このような誤りに入らないように気をつけましょう。

主イエスの時代においては、神の啓示は主イエスそしてペテロ、ヨハネ、パウロ達に開かれ、そして彼らはその啓示に基づき、奉仕をしました。

終末の時代に主がどのように働き、啓示を開くのかは我々にはわかりません。しかし、
神は確かに終末に「啓示が与えられた人」が立つこと、その時には「先の人」すなわち啓示が与えられていない人は黙ることについて語られています。

主のことばを尊重しましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー