No.241 盲人

”テキスト:ヨハネ9:
1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。
13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。
24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

本日は、「盲人」という題でメッセージをします。

主イエスが上記テキストの中で「盲人」「目が見えないこと」について語られた時、
その話の中にパリサイ人が登場して来ることは、注目すべきことがらです。
この時、目が見えないことと関連して「目医者」や「目薬の店員」は登場せず、また大工も
漁師も登場せず、かえってパリサイ人が登場して、「私たちも盲目なのですか。」と聞いたことには、
隠された意味あいがあります。今日はそのことを見ていきたいと思います。

当たり前のことですが、聖書は人が書いたものというより、「神御自身が著者」である世界で唯一の書なのです。それで、その何気ない記述、登場人物にも隠された意味あいがあります。必ずあると私あたりが断定することなどできないのですが、その可能性があるので、聖霊の助けにより注意して読むことが良いと思われます。

かつて主が金持ちの青年と語った時、その青年は「小さい時から、律法を守ってきたこと」を語りました。
ですから、聖書でいう「金持ち」と「律法に落ち度のない」人々とは関係がるかもしれないことが
想像できます。また、かつて主は「遊女や取税人」に関して、「蛇よまむしのすえよ」とはいいませんでしたが、律法学者、パリサイ人にはそういいました。ですから、「蛇」、エデンの園の蛇は
律法学者、パリサイ人と関係があることが想像できるのです。

さて、この時、何故盲人と関連して、パリサイ人が出てくるのでしょう。
それは、聖書でいう「盲人」とは、肉体の目が見えないということより、霊の目が見えないことに関連しているからです。具体的には、ここで「「私たちも盲目なのですか。」(そんなはずはない)と質問する
彼ら、パリサイ人、聖書や宗教の専門家こそ、「盲人」だということを語りたいのです。
盲人ということばは「見えない」ということと「たとえの連鎖」があり、
以下のイザヤのことばの「見る」ことと関係があるのかもしれません。

”マタイ13:4 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。”

聖書の専門家、宗教の専門家ということになっている彼らパリサイ人(すぐれた人の意味)が、
実は盲人だということなのです。そしてこれは終末の教会においても起こるのでしょう。
教会の専門家、聖書の専門家という人々が実は「盲人」であり、しかもここで「私たちも盲目なのですか。」(そんなはずはない)と質問した人々と同じように自分が盲人だということすらわからない自覚症状さえない重症の盲人になるそんな日が
来るのかもしれません。そのことを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」”

弟子達は盲人に関連して、罪について語っています。確かに罪とその人が盲目であることとは関係します。私達が罪を犯し続けるなら、決して聖書の真理、信仰の真理は私達に開かれず「見る」ことはできないことを知るべきです。聖書は世の中の歴史、数学や医学等と全く異なったことがらがあり、それは「罪を犯す者はその真理を見ない」ということです。

”3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。”

さて、この時迄、この人は盲目でした。しかし、この時、主は彼の目を開かれました。
それは、「神のわざがこの人に現われるため」なのです。終末にもそのような人々が現れて来るでしょう。
盲目で、ただただ、盲人の書いた「聖書解説書」に従って聖書を読むしかすべのなかった人々の中から、
真に見る人々、目の開かれる人々が現れてくるでしょう。それは、「神のわざがこの人に現われるため」なのです。そうです、終末の日の主の回復のわざがこれらの人々を通してあらわれるために彼らの目は開けられるのです。

聖書がわかるようになる、真理がわかるようになることが「盲人が目が見える」といえば、
「恣意的な解釈ではないか」「何でそんなとっぴな解釈になるのか」という人もいるかもしれません。

聖書のたとえの解釈の一つの原則、ヒントとして「その反対のものを考える」という原則があります。
ここで、パリサイ人、すばらしい人、聖書も神も何もかもわかっているとされているという人々が「盲人」だと暗示されているなら、「その反対のこと」、すなわち、「盲人の目が見える」ということは、
実は、「盲目になって今迄見えなかった真理が見えてくる」ことと理解しても大きな逸脱ではないでしょう。もちろんそんな風に書いてある「注解書」はないかもしれませんが、そんな書のことは始めから、考慮していません。

また、「生まれつきの盲人」という何度も繰り替えされるフレーズ(ことば)には隠れた意味あいがあるのかもしれません。教会はそれこそ長い間、盲目でした。正しく、聖書のみことばを理解し、正しく働いている霊を見分けることができない、すなわち盲目の日がずっと続いていたかもしれません。
しかし、終末の日に主の恵みの時が来ます。その時、主に触れた人々は長い間続いた「盲目」から解放されるのです。真理を見るのです。

”4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。”

終末には、誰一人真理について語れない「夜」がきます。その夜が来る前に私達はこのわざを進めなければなりません。

”5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」”

光は見ることと関係しています。懐中電灯の光がなければ、夜道を歩けないように、光がなければ、見えないからです。主を求める人は「見る」ことを得ます。

”6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。”

シロアム(遣わされた者)の池で洗って見えるようになるということは、すなわち、「主によって遣わされた者」聖霊によりあらわれるということなのでしょう。彼を通して見える人々があらわれるようになります。洗うとは水で洗うのです。聖霊により彼らは目が開かれてきます。

8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。”

彼はかつては、「すわって物ごいをしていた人」でした。教会ですわって、人の話をきくだけだったのかもしれません。自分の命の糧さえ稼ぐことができず、人から命のパンをもらうしかすべがなかったのです。また、信仰の歩みも無く、ただ「すわって」いたのです。
しかし、彼は今ものごいでもなく、すわってもいません。自分の足で立ち、真理に歩み出したのです。

また、彼は目が見えるようになったので、かつての彼とは見間違えるようになりました。
だからこそ、”ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った”のです。これは、彼の信仰の劇的な変化を暗示するようです。
そうです、もし私達が終末の日、主によって目が開けるなら、回りの人が驚くような変化が起こるでしょう。
また、ここで彼らはこのかつての盲人に「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
と質問しています。これはこの箇所の中で何度も何度も繰りかえされる質問です。
終末の日にも、盲人である神学者や教師と異なり、「目が開けた人々」に関して、同じ質問が多くの神の子から発せられるでしょう。「何故彼らはこんなことがわかるようになったのか。何故突然、彼らは見るようになったのか」それに対する答えは昔も今もたった一つしかありません。「イエスという方」が目を開いたのです。

”13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。”

彼らはこの人が突然、目が見えるようになったということが理解できないので、パリサイ人のところへ「かつての盲人、今はみえるようになった人」を連れていきました。終末の日にも同じように「目が見えるようになった人々、真理がわかるようになった人々」は教会の神学者や教師、牧師達のところへ連れていかれるでしょう。そしてこれらの「宗教の専門家」の結論は「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」ということでした。同じように終末の日に、「真理に対して目が開かれた人々」もささいな聖書の教えとの違いを理由に「神からのものではない」と結論づけられるでしょう。

しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。”

しかし、終末の日に、これら「宗教の専門家」の間にもこの「真理に目が開かれた人々」に関して、意見の分裂が起きるでしょう。彼らの働きに伴う「しるし」がその分裂の理由です。

”17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、”

この時、ユダヤ人たちは、「彼が盲目であったが見えるようになったということを信」じませんでした。目の見えるようになった人が目の前にいてもそれを信じなかったのです。同じように終末の日に確かに「真理に目が開けた人々、回復された人々、神により聖書に対して目が開かれた人々」は起きるのですが、終末の神の民は、「彼らの目が開かれた」こと、その事実そのものを認めようとはしないでしょう。
かえって、「変な終末の異端が出現した」とみなすようになるのでしょう。

”19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。”

今度は彼らは両親に尋ねています。ですから、「生まれつきの盲人が見えるようになった」ということがらがここでは大きな主題として取り上げられていることを理解して下さい。

そうです、生まれつきの盲人、教会の始まり以来、現在に至る迄、決して聖書の隠れた真理を見ることのなかった人々が真理を見る日が来ます。その日について述べているのです。

両親もこの生まれつきの盲人に関して、「どのようにしていま見えるのかは知りません。」と答えています。そうです、このこと、何故今迄決してみることのなかった人々が何故、終末の日に突然、真理を見るようになったのかは、その両親、教会の信仰の父である牧師達にもわからないのです。彼らはただ、「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。」
と答えることができるだけなのです。

”22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。”

この時代、「イエスをキリストであると告白する者」は会堂から追放されました。同じように終末の日には、このキリスト(受こう者)すなわち、油注ぎに関して、「これは神からの霊である」と公言する者は教会から追放されるでしょう。しかし、我々の目はまさにこの聖霊の油注ぎにより開かれるのです。

”24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」”

この当時の宗教の専門家は、彼らの結論として、イエスは罪人であると決めつけていました。他の選択肢はこの当時の人々にはなかったのです。そして、終末の日に、「この霊は悪霊である」と決めつけられる日がきます。しかし、まさにその終末に、その「霊」により見えるようになる人々があらわれるのです。

26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」”

ここでも彼らは同じ質問、「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」ということばをまたも繰り返しています。ですから、終末の日に「一体何故、彼らの目は突然、開き、真理を見るようになったのだろう」といぶかる多くの人々があらわれるでしょう。ここで弟子について書いてあるように終末の日に主の弟子の目は明らかに開きます。

”28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」”

彼らは自分達はモーセの弟子であり、由緒正しい正統的な教えに従っっていると語っているのです。
「ナザレのイエスなどというどこの馬の骨かわからない新参者の教えにはだまされないぞ」と語っているのです。しかし、実際は彼らは盲人であり、彼らは神から遣わされた方を認めることができなかったのです。終末にも同じことが起きるでしょう。

正統的、聖書的だと誇っていた人々が実は盲人に過ぎなかったということが判明する日がくるでしょう。

”30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」”

生まれつきの盲人、聖書も神のみこころも見えなかった人々の目が開ける日がきます。それは、罪や悪霊ではなく、神の霊、聖霊によるものです。

34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。”

かつては盲人であったが、今は目が見えるようになった青年はそのこと、すなわち、彼の目が見えるようになったこと、そして主に関する立派な証しのゆえに「外に追い出」されました。終末の日にも「その目が見えるようになった」ことのゆえ、そしてその証しのゆえに外へ、すなわち、教会から追出され、異端であるといわれる人々があらわれるでしょう。しかし、神の前には、彼らこそ真に真理に対して「目が開かれた者」であることを知らなければなりません。

”35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。”
 

もし、終末の日に教会により追出されたり、異端といわれたらどうなるでしょう。お先真っ暗、何の希望もないように思えるかもしれません。しかし、心配はいりません。主が私達を見つけだして下さるからです。教会と主とどちらかを選ばなければならないというそれこそ究極の選択をせねばならない日が終末の日には訪ずれることを私達は知らねばなりません。

”39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」”

このことを覚えて下さい。初降臨の主はさばきのためにこられたのです。さばきということばには、
決定するという意味あいがあります。すなわち、ここで主はあたかも主は試験問題のようなものです。主を正しく評価できるものは「見えるもの」であり、正しく評価できず、「あいつは罪人だ」などと間違える人は試験に失敗したものであり、実は「盲人」なのです。イエスを通して、それぞれの人が「盲人」かどうか決定されてしまうのです。人の前には「宗教、聖書の専門家」ということになっていても神の前には盲人なのです。
そして、終末の日にも全く同じことが起きるでしょう。多くの「宗教の専門家」が見間違える日が来るでしょう。

”40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

ここで主はパリサイ人達、宗教、今でいえば、教会の専門家が「盲人」だといっているのです。ここがこのたとえのポイントです。ここから、このたとえを考えてみなければなりません。彼ら、宗教の専門家が「盲人」だとしたら、その反対の立場に位置している「目が開けた生まれつきの盲人」が何をたとえているのか、理解できます。
この青年は「神に対して、聖書に対して、真理に対して目の開けた人」をたとえているのです。

ここで、主はパリサイ人達は『私たちは目が見える。』といっている、だから、彼らの目は開くことがなく、またその罪も残ると語っています。彼らは本当は聖書もまた神についても知らず、目が開かれていなかったのですが、それを認めることができず、それゆえ彼らは最後まで、盲目のまま残り、そしてついには「神の子、王として来られた方」を殺したのです。彼らの「盲目」は彼らに裁きを、永遠の裁きをもたらしたのです。

そして、終末においても話は全く同じです。
これから、終末にかけて、「目が開けた人、教会の回復を語る人々」が現れてきますが、しかし、「宗教の専門家」は決してそれを認めないでしょう。彼らは実は「盲目」だから、この働きが見えないのですが、彼らは決して自分達が盲目であることを認めないでしょう。そしてついには、「目が開けた人々」をキリスト教会から追出し、彼らを殉教に追い込み、彼らの霊を「悪霊」と決めつけるでしょう。
そしてそれらの行いは結局そのような専門家、そして、彼らに追従する人々に永遠のさばきをもたらすでしょう。

もうその時は来ようとしています。主に目を開いてもらうように求めましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー