NO. 240 艱難とさばき

”テキスト:黙示録11:16 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
17 言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。”

終末についての記述を理解するのに必要なことはいくつかありますが、その中で大事なことは、
「艱難」と「裁き」とを区別することと思われます。

黙示録を読んだりするとあらゆる天変地異があり、それが大変複雑であり、何がなんだか、わからないような気がするのです。その一つの原因は、我々が「艱難」と「裁き」とをごっちやにして、区分することをしないからです。

しかし、明らかに聖書は「艱難」と「裁き」とを区別して記述しています。
以下のようでしょうか。

a)主のみこころを行う民は、「3年半の大艱難時代」を頂点とする「艱難」にあいます。
この時、殉教も起こります。
この時、この世についた神の民は必ずしも「艱難」にはあいません。むしろ、「平和無事なり」と
気楽にしているでしょう。彼らにとってはこの時は「怪し気なカルトが処分される輝かしいキリストの正義が表される時」というようなことになります。

b)この三年半の艱難が終了してダニエルのいう70週が完全に終了した後、直後に「裁き」の時に入ります。この世についた神の民が裁かれる時です。彼らは殉教に加担することにより、己を罪ある者と定めます。この三年半は70週の最後の半週のことです。
神は「7を70倍するまで(70の7=70週)、兄弟の罪を忍耐」します。それで、この間は裁きはおこなわれません。しかし逆に、この70週が完全に終了した時、裁きがはじまるのです。

この「艱難」と「裁き」の区分は主イエスの時代を考える時、明確に理解できます。

a)主イエスの三年半にわたる宣教の期間はそのまま終末の大艱難時代の型です。
主イエスとその弟子は「人の子は枕するところがない」という程、迫害と困難の時を経過しました。
祭司長、律法学者達に命を狙われ、彼らは「艱難」の時を迎えたのです。
 

b)しかし、そのように主イエス、及び彼につくペテロ、ヨハネ達、クリスチャン達を迫害した、
ユタヤ人達、「神の民」は、その後、神の「裁き」にあいました。
主イエスはその裁きについて、
マタイ23:36「まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」と述べました。彼は「この時代(世代)」というある特定の世代について語ったのです。
聖書のいう1世代とは40年のことです。そして確かに主のいわれた通り、主が十字架につけられてから、丁度40年後の西暦70年に、エルサレムはローマ兵に囲まれ、最後の一人迄、殺されてしまったのです。その回りには「逃げようとして捕らえられたユタヤ人の」 多くの十字架が林立したということです。
聖書によれば、クリスチャンは「迫害」を恐れて、エルサレムを離れていったようですので、
この「裁き」には、遭遇しなかったことが想像されます。

この「エルサレム陥落」のことがらが、主イエスの十字架の時から、39年目でも、41年目でもなく、まさしく40年目、1世代の後に起きたことには神からの語りかけがあります。
彼らは主イエスの「これらの報いはみな、この時代(世代)の上に来ます。」とのことば通り、裁かれたのです。

このように聖書の語る「艱難」と「裁き」とは、大いに異なることがらであるということを理解いただけたでしょうか。

さて、主イエスの時代は終末の時代の型であり、予表です。ですから、このように主の時代に起きたことは、もっと大きな規模で終末に繰り返されるのです。
すなわち大規模な「主につく神の民への艱難ー艱難時代」があり、その後、これらの人々を迫害する「神の民」への裁きが行われます。

これらが黙示録を始めとする終末の預言の中心であり、このことを正しく捕らえないとわけのわからない解釈になってしまいます。そして黙示録等が難しいのはこの2つがごっちゃに記述されているので、
何が何だかわからないように感じるからです。
以下に若干その区分を記します。

(艱難)
ヨハネの黙示録 6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

黙示録7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
 
 

(裁き)
ヨハネの黙示録 6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
ヨハネの黙示録 6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
ヨハネの黙示録 6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

黙示録11:17 言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
 

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「艱難」は主につく民と関係し、そして「裁き」はこの世についた民と関係しているのです。

終末に関して一つ明らかであると思われることは、我々終末に生きるクリスチャンはこれらの「艱難」が「裁き」か、どちらかを受けるようになるということです。

「艱難」も「裁き」もどちらも受けたくないというのは、人情ですが、しかし、聖書的にいうなら、どちらかを、程度の差こそあれ、受けるようになるようです。またこの世にあって、我々が敬虔に生きようとするなら、迫害、艱難は避けられないようです。何故なら、以下のように書かれているからです。


テモテへの手紙第二 3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。”

終末にも同じことがいえるでしょう。ですから今、主のため、そのことばのため、苦難を受けている人々は幸いであり、後の日には栄光を受けることを覚えて下さい。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー