No.239 王殺し(2)

"テキスト:ヨハネ19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」"

本日は「王殺し(2)」としてもう少し、聖書が王について語っていることを見ていきましょう。

繰り返して語るようですが、聖書は主が十字架につけられたことに関する一つの意味あいは
「王殺し」なのだということを明確に語っています。

ですから、イエスキリストが十字架につけられたという事実の意味あいは、単にひとりの預言者、教師を殺したというより、この神の国「ユダ国」を統治している「王自身」を殺したと語っているのです。

神がこの国を統治するということに関しては以下のようにサムエル記で語られています。

”1サムエル8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。”

これは、イスラエルの国の人々が「自分達にも王が必要だ」といい、この国に最初の王
サウルがたてられる前の話です。この時、神御自身は明確に「彼らを治めているこのわたしを退けた」と語っています。ですから、目に見えなくてもこの国、神の領地であるイスラエル、ユダの真の王はただ一人、神御自身なのです。

王の支配、統治に関して、聖書は他の箇所で以下のように注目すべき期間を述べています。

”イザヤ書 23:15 その日になると、ツロは
、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。”

ここで聖書は「ひとりの王の年代」は70年であると述べています。しかし、不思議なことがあります。
聖書の中に記されている多くの王の中で70年の間、統治した王は見当たらないのです。
ダビデにしてもソロモンにしても70年もの長い間、統治した王とは歴史に見当たらないのです。
それではこの王とは一体誰の事でしょう?

これは、明らかにこの国の唯一の王、神御自身をさすと思われます。
ですから、ダニエルの「70週の預言」とは、実は「神御自身の統治」に関する預言なのです。
そして、70週の終わり頃、「油注がれた者が断たれる」とは、他でもないこの「神の国」で、
「王殺し」が起きると述べているのです。

油注がれた者とは、旧約聖書をよく読むならわかることですが、王の別名なのです。何故なら、イスラエル、ユダの国においては、どの王も「油そそぎ」を受けて始めて王に即位するからです。

普通の人を殺しても大変な罪ですが、まして王を殺して無事にすむわけがありません。
この「王殺しに加担した世代」は丁度1世代、40年後にローマ軍によるエルサレム攻撃の中で皆殺しに会いました。

歴史においても「王殺し」に加わった人々はその報いを受けています。イギリス「ピューリタン革命」で王をギロチンにかけた人々、フランス革命でルイ16世や王妃マリーアントワネットをギロチンにかけた人々はその後で自分の命を失っていきました。彼らは「王殺し」という大罪の報いを受けたのです。

さて、終末に生きる私達にとっての問題は、終末の日にこの「王殺し」が再現する、いや終末においてこそ、この「王殺し」の本番があると聖書が述べていることです。

この警告を正しくとらえて歩まないならば我々はかつて「王殺し」に加担して裁きに入っていった人々と同じ過ちを犯す危険があることを覚えて下さい。

終末に王殺しが再現するといえるいくつかの理由は、以下のようです。

1 ダニエルの70週の預言が完結 するのは、終末の日であり、その日に聖書が言う意味での「王殺し」が成就すると思われる。

2 黙示録11章にはそれを裏ずけるように「終末の日に都で十字架につけられる主」について記されている。

この終末の王殺しは具体的にどのように行われるのでしょうか。

結論からいうなら、終末の日に神の民が「聖霊を殺すこと」、それが終末の日の「王殺し」となると思われます。

「霊である聖霊を殺す」という概念は現実的でないように思えるかもしれませんが、問題は聖書がどういっているかということです。以下のように聖書は確かに聖霊と「王殺し」とを関係ずけているように思えます。

1 イエスの生涯は明らかに聖霊の予表と思われる。「助けぬし」「もう一人の助け主」という表現を
始め、多くの主イエスの生涯は「聖霊なる方」の予表のように見える。

2 70週の預言は「油注がれた者」が断たれることに関する預言である。「油、油注ぎ」とは、「神の油」聖霊に関するたとえである。

70週、すなわち教会時代の始めから終わり迄、教会の真の王であった聖霊御自身に対する「王殺し」は、具体的には、黙11章の二人の「油注がれた」預言者(2つの教会)を殺すことにより行われます。
この時、多くの「油注がれた聖徒の殉教」が起きるでしょう。彼らの肉体が殺され、血が流されるのです。

これは、旧約の神の民を統治した神御自身への「王殺し」が肉体を持たれた「油注がれた方」主エイスの十字架の死によって実現したことと同じです。

どちらの時においても、彼らを殺す者達は、「自分達はただ、カルト、異端を処分しただけだ」と思うのですが、実際は彼らを殺すことはそのまま「王殺し」に通じることになるのです。
聖書の中には、この聖霊なる王への「王殺し」を暗示する箇所はいくつもあります。7つの教会の最後の教会、すなわち教会時代の最後を暗示するラオデキヤの教会には、家の外、すなわち教会の外へ追出されている聖霊なる主御自身の姿が描かれています。また、テサロニケの手紙には、反キリストをとどめる方、聖霊御自身が取り除かれる(追出される)ことについて書かれています。王はあるべきところから追出され、そして最後は「王殺し」に至るのでしょう。

繰り返すようですが、この「王殺し」の罪は決して、決して軽いものではなく、「この世でも、後の世でも赦されない」ものとなることを覚えて下さい。歴史がこの「王殺し」について語ります。

フランス革命で自らの王を殺したフランスの国民はその後、壊滅的な状態に陥ります。この革命の中で死刑、暴行、流血、テロが横行し、千、万という人々が殺されていきました。教会は閉鎖され、神父達は「信仰放棄」を宣言させられ、ノートルダム寺院では、主なるキリストの代わりに「売春婦」が「自由の女神」として、礼拝されました。人々は、「理性の神、徳の神」と呼ぶ、ルシフアー礼拝をするようになりました。

20世紀の始めにロシア革命の中で自らの王である、ツアー(皇帝)一家を殺害したロシアも話は同じです。彼らは王を殺して何を得たでしょうか?平等な共産主義国家どころか、殺りくと暴力と圧制の
「収容所群島」ソ連を生み出したのです。この国はソルジェーニツインによれば、「国民の1/3を断頭台に送った」という恐るべき、牢獄国家です。彼等はかつての豊かなロシアを捨て、恐るべき、貧困と混乱の国を得たのです。これが彼らが率先して行った、「王殺し」の結果であり、報いです。

これらのことがらは悲惨ですが、しかし、それでも来るべき「真の王殺し」の型であることを知るべきです。本番はこれからなのです。

終末の王殺しは聖霊なる王を殺すことであり、そのための布石は着々とサタンにより打たれています。

かつての王殺し、主イエスの殺害のためにもサタンが用意周到に企みを企てたことを思い出さねばなりません。かつて彼はヘロデ王をたきつけ、「ベツレヘムの2才以下の男の子の皆殺し」を実行させました。
しかし、それでも殺害できなかったので、今度はイエスの公生涯を妨害し、律法学者、パリサイ人にイエス殺害の思いを与えました。そして、最後には、彼らに先導された群集を通してこの「王殺し」を実現したのです。

彼は今、終末の王殺しの準備を進めています。着々と進めているのです。主によって目が開かれた人はそれを見るでしょう。今、世界を覆おうとしている「獣のリバイバル」はその布石であり、この霊をその「右の手か額」に受けた人々は決して来るべき聖霊のリバイバルを認めることができないでしょう。

また、曲がり切ってしまった「神学」は獣のリバイバルを掩護し、聖霊による油注がれた者達を非難するために用いられるでしょう。

時はおおいに熟しています。「まだまだ」と思っている人はこの時代を見分けられないのです。

さて、これらの理解に基づき、上記テキストを見ていきましょう。

”19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。”

ここで主の十字架には、「罪状書き」が書かれていました。この「罪状書き」は、このイエスの死の意味、理由を語ります。彼は何故殺されたのでしょうか。このは罪状書きには、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」
と書いてありました。ですから、この主の死はダニエルがいう70週の間、神の民を統治した「王自身」を殺害したのだと聖書は語っていることがわかります。

”20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。”

おおぜいのユダヤ人、神の民はその理由を読み、知ります。終末の黙示録にも十字架につけられる主について書かれています。その十字架の理由もこの主イエスの死と同じ理由です。聖霊はこの「神の民」を70週、すなわち、教会時代の始めから終わりまで統治した唯一の方、王なる主イエスの霊であり、そしてそれゆえに彼は「かの都」すなわち、堕落した教会で十字架につけられるのです。また、この罪状書きは「ヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語」で書かれていました。これは何を意味するのでしょうか。
私の個人的な感想ではこれは、聖書に関することがらではないかと思われます。
聖書は御存じのように、旧約がヘブル語、新約がギリシャ語で書かれています。そして、またラテン語もまた聖書と関係の深いことばです。かなり長い間、私の記憶では、1000年もの間、聖書はラテン語に(のみ?)訳されており、どの国の人もラテン語が読めないと聖書が読めない、そんな時期が長く続きました。このことは結果として一般の人々から聖書を取り上げることになり、大きな損失を教会にもたらすのですが、しかし、良い悪いは別として、歴史的な事実であり、事実、聖書はラテン語と非常に関係が深いのです。

ですから、この3つの言語で「ことばなる方」主イエスの十字架の罪状書きが書かれていたということは、もしかするとこんなことをこの事実は語っているのかもしれません。すなわち、彼らは
「神のことば」そのものを殺したのだということを聖書は語っているのかも知れません。

"21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」"

ここで問題になっていることがらは、ユダヤ人は彼らの王を殺したのか否かということです。
当然ながら、ユダヤ人の祭司長たちは「自分達が王を殺した」という主張に同意せず、この罪状書きを書き改めるよう要求しています。しかし、結果はどうなったでしょうか。この罪状書きの訂正は行われず、このナザレのイエスの頭上には、「ユダヤ人の王」との罪状書きがその死に至るまで、かかっていたのです。そうです、その通りです。彼らがこの国を70週の間、統治したその王そのものを殺したのだということは今、人の前に神の前に明らかに書きしるされたのです。

私達は、終末に起きようとする「王殺し」に決して加担することがないように、むしろ今の時代の主のみこころを行なえるように祈りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー