No.238 王殺し

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”ヨハネの黙示録 11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

本日は、「王殺し」という題でメッセージします。終末の神の民は、教会の王である「キリスト」を
王として迎えない、その為に裁かれるということを見ていきたいと思います。

さて、テキストの黙示録の箇所では、「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」で、私達の主が
十字架につけられることが書かれています。
ここでは、「十字架につけられた」と過去形で記されています。これは適切な訳ではありません。
何故なら、この時制は、ギリシャ語のアオリストといい、過去、現在、未来に訳すことのできる特殊な時制だということだからです。
ですから、このことばは、「十字架につけられる」という様に未来形で訳すことが可能なのです。
というより、黙示録の記事はどれもこれも未来に関する預言の記事ばかりなのですから、未来形で訳す方が妥当なのです。

ですから、ここでは、終末の教会ーそれは別名ソドムやエジプトと呼ばれるものですがーにおいて、
聖霊として来られた主は、「十字架」につけられるのです。それをこの黙示録の箇所は語っているのです。

さて、この「十字架につける」という表現で聖書は我々に何を語っているのでしょうか。
それを理解するためには、主イエスが十字架につけられた福音書の記事が我々の助けになります。
 

”マタイ27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。
12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(遣わす)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。”

この主イエスが十字架につけられる箇所を読む時、非常に特徴的なことは、彼らが実は、「自分達の王」を十字架につけたのだということを聖書は強調しているということです。以下のように、そのことに関する節が多く記されています。

「総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。」

「29 そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

非常に残念なことは、彼らは、彼らの国の王として来られた方をそれと知らずに十字架につけて
しまったのです。そして、それこそが、彼らエルサレムの住民が、この殺害の40年後に滅ぼされる理由なのです。エルサレムは紀元70年にローマ軍に包囲され、十字架は林立し、住民は滅ぼされたのです。
 

そして、このことは終末の時代の型です。終末の時代にこのことがらは、もっと大規模な形で
成就します。終末の日、聖霊としてこられた主を王として、受け入れることを拒み、十字架につけた
神の民は、裁きに入っていくのです。

上記マタイ27章を順に見ていきたいと思います。

”11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。”

「ユダヤ人の王」ということを考えてみましょう。ユダはその当時において、唯一神の民の住む地とされていた国です。(この時は北イスラエルは補囚とされ、存在しない)
「あなたはこの国の王なのか」というビラトの質問に対して、はっきりと明確に主は「そのとおりです。」と答えました。

ですから、この時、神を知っている、聖書を知っている、律法を守っていると自負していた民は何と、
自分の手で、「待望していたメシヤ、王」を十字架につけるという大失敗をしてしまったのです。
これは、大変などんでん返し、逆転、大失敗、大損失だといわざるをえません。

今私達がかつての彼らの失敗を笑うのは簡単ですが、しかし、終末の日にこれと同じようなことが起きないとは限らない、笑ってはいられないのだということを知らなければなりません。

”12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。”

さてこの国の真の王であるイエスは、「祭司長、長老たち」から訴えられました。

このことは非常に皮肉です。本来なら、聖書を知っているはず、わかっているはず、だから、最初に
「王である方」を認めるべき彼らが、率先して間違え、誤解し、あまつさえ王の命を奪ってしまったのです。このことは終末の日に全く同じように繰り返されます。本来、神を知り、王である「聖霊として
来られた方」を知っているはずの牧師、教師達が率先して、間違える時がきます。いいえ、もうすでに
来ています。偽りの教え段階携挙説に加担し、恥じようともしない教師達は、まさにこの方を十字架につけるべく画策しているのです。

これらの祭司長、長老たちの訴えに対して、「ことばなる方」イエスは一言も答えられませんでした。しかし、
これらの「祭司長、長老たち」はそれから40年後のエルサレムの崩壊の時、ともに滅ぼされてしまったのです。同じように今の時代も教会における、あらゆる偽りの教えに関して、聖霊御自身も
何も答えず、弁解もしないかのように見えます。しかし、それをもって図にのっている人びとには、いずれ必ず裁きの時が来ることを知るべきです。

”15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(遣わす)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」”

彼らは自分達の王である方を十字架につけ、そのかわりに「暴動と人殺しのかど」で牢に入れられていた男を自由にしたのです。これは非常に象徴的なできごとです。何故なら、終末の日にも神の子達は、
自分達の王である聖霊を十字架につけ、その代わりにあろうことか、「人殺し」サタンを解放するようになるからです。

このバラバは囚人でした。彼は捕えられていたのです。同じように教会時代の間、このサタンの働きには、制限が加えられていたのです。そして、だからこそ、我々クリスチャンは、どうにか間違えずにやってきたのです。しかし、終末の時代の恐ろしいことは、このサタンをとどめていた方、その方が教会から追出され、そのため、彼、反キリスト、サタンが自由に教会を荒し回るようになることです。このことに関して以下のように書かれています。

”テサロニケ人への手紙第二 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。”

バラバ、すなわち「父の子」という名前も象徴的です。聖書でいう父とは、「父なる神」という意味あいもありますが、もう一人の父「あなたがたの父は悪魔です」と主がいわれた「悪魔なる父」をさすこともあります。人殺しバラバは、どう見ても「父なる神」というより「悪魔なる父」の子の型でしょう。ですから、終末の日に、人びとは、
聖霊を十字架につけ、その代わりにサタン、反キリストの霊を解き放つのです。

彼は人殺しのかどで牢に入れられていたました。一方、サタンは「始めから人殺し」です。そういう意味でもバラバは終末の日に解き放される反キリストをあらわすかのように見えます。

”27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。”

さて、ここでイエスの着物に関する記述があります。その人の着物はその人が行くところ、どこでも行動を共にします。そういう意味で、着物は「イエスにつく人びと」をあらわすように見えます。この
着物に関して、マルコ15:24にこう記されています。

”マルコの福音書 15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。”

くじはエステルの時、ハマンがモルデカイにつくユタヤ人を殺害する日を定めた時に使われました。
ですから、殉教、迫害と関係がありそうです。

イエスの着物が脱がされたように、主につく人びとは主イエスからからひき離され、「あいつらは異端だ、キリストの教えとは関係ない」と全世界、全教会に向かって宣言されるのでしょう。逆に「緋色の上着」で象徴される人々こそが「真のクリスチャン、正しい、正統的なクリスチャン」であるといわれる時が来ます。この「緋色の上着」とは以下の人々を表すのではないでしょうか。

”ヨハネの黙示録 17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。”

この女はバビロンなる教会であり、彼女は、「神をけがす名で満ちて」います。
そして、終末の日に、「この教会こそ、イエスキリストの真理を保つ正統な教会である」と世界に
向かって宣言されるのでしょう。しかし、このようなことがらは、冒涜であると聖書は語ります。
 

蛇足ながら、現在、ある教会のお坊さんたちが緋色の上着を来ていることに注目しましょう。
また、この教会の長である「ローマ法皇」の数字は数秘学上、666であるとのことです。666とは、反キリストの数であり、まさに、そのものずばりではないでしょうか。

”29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」”

右手に持たせた「葦」に関しては、こう書かれています。

”イザヤ書 36:6 おまえは、あのいたんだの杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。”

葦は杖としては役立たないということをこの箇所は語っています。杖とは人の歩みを助ける者、今でいう教師をさします。ですから、ここで「葦」を持たせた彼らはイエスについて、「お前は我々の教師としては、役に立たない」と冒涜しているのです。

そしてこれは、終末の神の民に関する預言であり、
「地上の誰をも教師と呼んではいけない、あなた方の教師はキリスト一人である」と語られた主を冒涜する神の民の予表です。彼らは「創世記は神話だ」「進化論は正しい(創世記の記録はおとぎ話)」だと冒涜的なことを語る教師達を尊重し「真の教師」を捨て去っています。人間の知恵に満ちた解釈書を優先して、真の教師を軽んじています。また、真の教師に聞き従おうと語る人々を迫害しています。
彼らこそ、主イエスを十字架につけ、その手に葦を持たせた人々の子孫なのです。

ですから、今の時代、人の声に聞き従い、聖霊の声を退けることにはみこころがありません。

”そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」”

彼らはこの時、王として来られたイエスをあぜけったのですが、同じように、終末の日にも聖霊があざけられる日がきます。このあざけるとは、具体的には、どのようになるのでしょう。
恐らく、真に聖霊を受けた人々が、「悪霊つき、異端」と多くの「神の民」であるクリスチャンからあざけられるのでしょう。

かつて、真に神からの霊をその肉体に受けた方、主イエスはあざけられ、排斥されました。
同じように終末の日にも真に神の霊を受けた人々は排斥され、あざけられるのではと思われるのです。

「そんなばかなことが起きるものか」と思うかもしれませんが、あり得るべきでないことが
起きる、それが、「彼らの罪が満ちる時」終末なのです。

すでに多くの神の子は、「ことばは神である」といわれた方を冒涜し、そのことばに公然と
あざけりのことばを投げ付けています。主イエスの復活を「それは作り話だ」「民衆の願望がこのような復活物語を創造したのだ」などと恐れげもなく、言い放つ某教会の人々は、神のことばを冒涜し、「ことば」なる方を嘘つきだと決めつけているのです。
彼らはすでに命のパン、「神のことば」にこのようにありとあらゆる冒涜を繰り返しているのです。
もう一つの象徴、「ぶとう酒」であらわされる聖霊に対して、冒涜をしないはずはありません。

悪霊である「マリヤをかたる霊」や、獣の霊「トロントブレッシング」の霊を受け入れ、「これこそ、聖霊だ」などと冒涜的なことをいっている人々は、後の日にこの「ことがら」に加担するようになるでしょう。このことがらとは、終末の日に真に神の霊、聖霊を受けている人々が、「悪霊つき」「異端だ」と排斥されることをさしているのです。

30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。”

彼等は葦でイエスをたたきました。「葦」は杖、教師のたとえとして用いられています。ですから、教師として来られた方を
見分けることができず、口々に「あれは悪霊だ」と非難し、ばかにするときが来るのでしょう。

”31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。”

主が十字架につけられる時には、「緋色」の着物、バビロン化した人々ではなく、もとの着物、すなわち、主につく人々とともに十字架につけられたことがわかります。

ですから、真に主につく人々は終末の日に主のため、聖霊としてこられた方のために、苦難をうけることがわかります。

しかし、その苦難は、聖書によれば、「今の時の軽い苦難」であり、これは後の日に我々に「重い栄光」をもたらすことを知らなければなりません。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー