No.237 バラバ

テキスト:マタイ27:”15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(遣わす)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」”

本日は「バラバ」という題でメッセージしたいと思います。
私達の主が当時の「神の民」の間で十字架につけられた時、彼らは預言的な行動をしました。
それは、自分達の王を十字架につけるとともに「バラバ」という名前の囚人を釈放するよう、求めたのです。

これは非常に意味のある「預言的な行動」のように思えます。何故なら、黙示録によれば、終末の日にも
聖霊として来られる主は、「ソドム、エジプト」と呼ばれる教会で再び十字架につけられるからです。
この時、恐らく、かつての「バラバの釈放」が再度行われることと思います。その意味あいを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。

”5 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。”

この囚人に関してルカ伝ではこう書いています。

”ルカ23:19バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。”

彼らは自分達の王である方を十字架につけ、そのかわりに「暴動と人殺しのかど」で牢に入れられていた男を自由にしたのです。これは非常に象徴的なできごとです。何故なら、終末の日にも神の子達は、
自分達の王である聖霊を十字架につけ、その代わりにあろうことか、「人殺し」サタンを解放するようになるからです。悪魔は人殺しであることを聖書は以下のように語っています。

ヨハネの福音書 8:44 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。
 

このバラバは囚人でした。彼は捕えられていたのです。同じように教会時代の間、このサタンの働きには、制限が加えられていたのです。そして、だからこそ、我々クリスチャンは、この時代をどうにか間違えずにやってきたのです。しかし、終末の時代の恐ろしいことは、このサタンをとどめていた方が教会から追出され、そのため、彼、反キリスト、サタンが自由に教会を荒し回るようになることです。
以下のように書かれています。

”テサロニケ人への手紙第二 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。”

この「不法の人」は、引き止める者、聖霊が取り除かれ(追出され)たゆえに、出現が許されることがわかります。
 
 

バラバは人殺しのかどで牢に入れられていたのですが、サタンは「始めから人殺し」であり、そういう意味でも彼は終末の日に解き放される反キリストをあらわすかのように見えます。
 

ですから、終末の日、彼らは命の君を拒み、人殺し、悪魔を解放する道を選ぶようになるのです。
このことに関して、使徒行伝には、以下のように書かれています。

”使徒の働き 3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、”

ここでは、正しい方、主を殺すことと、人殺しを解放することとが1セットで語られていることがわかります。そうです。この2つは1セットであり、一つの物事の表と裏のように関係があるのです。

終末の時代に「人殺し」悪魔が解き放たれたということは、単に目新しい聖書解釈とか、突飛な考えというのではなく、我々が真剣に考えるべき事柄であると、私は思います。

例えば、私達は動物園に行くと猛獣ライオンをみじかに見ることができます。ライオンは猛獣であり、危険な動物ですが、しかし、動物園で見る限りは安全です。何故なら、そこには檻があって、ライオンはそこから、自由に出ることはできないからです。

しかし、このライオンが檻から出て、しかも腹をすかしていれば、話は全然かわります。
我々など、いっぺんで餌食になってしまうでしょう。

ですから、終末の時代とは今迄の教会時代の常識が全く通用しない全然別の時代だということを知るべきです。何故なら、暴動、人殺しの専門家、悪魔が解放され、自由に我々を襲う時代になったからです。

"16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。"

バラバ、「父の子」という名前も象徴的です。聖書でいう父とは、「父なる神」という意味あいもありますが、もう一人の父「あなたがたの父は悪魔です」と主がいわれた父をさすこともあります。人殺しバラバは、どう見ても「父なる神の子」というより「悪魔の子」の型でしょう。ですから、終末の日に、人びとは、聖霊を十字架につけ、その代わりにサタン、反キリストの霊を解き放つのです。

"
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」"
 

キリストとは「油塗られた」という意味であり、これは、聖霊を予表したことばです。
ですから、ここでの「キリストと呼ばれているイエスか」というピラトの質問には、「あなたがたは、サタンの霊を解き放って欲しいのか、それとも聖霊をか」という予言的な意味あいがあるのです。

18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。”

この時、聖霊を受けたイエスはいやし、悪霊からの解放など、あらゆるすばらしい神のわざをあらわしました。これは、人々の賞賛を呼び起こしましたが、一方「他の神の子」たちからのねたみをひき起こすことになるのです。終末の日に、聖霊の油注ぎを受けた人々も同じようにすばらしい神のわざを拝するでしょう。一方、「他の神の子たち」からのねたみを買うことにもなるでしょう。

”19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」”

しかし、終末の日に「あの正しい人々にかかわり合う」ことにはみこころがありません。

”20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。”

この時、「祭司長、長老たち」すなわち、今でいう教会の長となる人々は、この「バラバを解放」するよう、説きつけました。同じように終末の「悪霊のリバイバル」に関して、「これこそ、神からのリバイバルだ。この霊をもっと解放し、受け入れよう」などという教師、牧師が多数あらわれるのでしょう。しかし、彼らは聖霊と悪霊の区別すらつかない盲人です。そして彼らはこれから起きる「神からの真のリバイバル」を悪霊だと決めつけ、迫害するように神の民に語り、説教するようになるのでしょう。「イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた」と書かれている通りです。

”21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」”

この時、2人のうちどちらかが釈放されるべきでした。二人同時の解放はありえず、どちらか一人だったのです。そして群集はバラバ、人殺しを選んだのです。同じことが終末の日に起きるでしょう。いわゆるクリスチャンの多くが盲人になり、あろうことか、
人殺し、サタンを選び、その霊を自ら、受けるようになる日が来るのです。いいえ、例の獣のトロント、ペンサコーラリバイバルでは、このことがすでに神の民の間で、実現しています。

”22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」”

ここで聖書は非常に単純な事実を語っています。すなわち、「バラバの解放を選んだ」群集はまた、「キリストといわれる方」を十字架につけることを選ぶという事実です。この2つも合わせて1セットであり、これらは一つの組み合わせなのです。

このことは確かに確かに終末の日に実現するでしょう。今、起きている獣のリバイバルに狂奔し、自ら、その霊を「右手か額に」按手されている人々は、後の日に必ず、「聖霊を十字架につけるようになる」のでしょう。

このことは具体的にどのように起るのでしょうか。
主イエスの時には、彼らは「聖霊をその肉体に宿した方」イエスをベルゼブルと呼び、最後にはその肉体を十字架につけて殺しました。同じように終末の日に下る聖霊により「油注がれた人々」も悪霊つきと呼ばれ、そしてその肉体が殉教するのでしょう。

繰り返しますが、今、獣のリバイバルにより「印」を受けている人々はこのことにきっと加担するようになると思われるのです。

ですから、今、正しく主に聞き、これらの霊を見分けることを求めることは何と大切なことでしょう。
このことは永遠に至る区分を我々にもたらします。そして、主にきく人々はこの霊を見分け、「悟り」ます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー