No.236 「70週の終わりの王殺し」

テキスト:”ダニエル9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

本日は「 70週の終わりの王殺し」という題でメッセージします。神の統治の末の時代に不法に陥る「神の民」は「王殺し」を行うということを見ていきたいと思います。

テキストはダニエル9章です。順に見ていきます。

”9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。

ここで聖書は、「あなたの民とあなたの聖なる都」、今でいえば、新約の神の民、クリスチャンに関して「七十週が定められている」と語りました。

実際の年月を考えるなら、この「エルサレムを再建せよ」との命令が出た時から、終末と思われる
現在の時まで、2千数百年、経っています。この数字は、決して、70週でもまた、70 x 7=490年でもありません。しかし、聖書はそのように書き、「終末のその時までは、70
週」なのだと強弁します。これを見ると、この「70週」ということばに何か隠された意味あいがありそうです。どうしても「70週」でなければならない理由が何かありそうなのです。

それを考え、70週の意味あいを見てみましょう。
70週の意味あいの
一つは、「兄弟の罪を許す」期間であるということです。以下の通りです。

”マタイの福音書 18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

「七度を七十倍(70の7)」までは神は忍耐されるのです。しかし、決して「無限に罪をゆるし、忍耐する」のではなく、この70週が過ぎれば「裁きの時代」にはいるのです。
70週の最後の半周(3年半)はよくいわれる大艱難時代です。この時、「真に主につく人々」への迫害が起きます。しかし、主が忍耐し、罪を赦すのは、「七度を七十倍するまで(70の7=70週)」迄であって、この三年半の「聖徒達への艱難の時代」が終了し次第、すぐに「裁きの時代」に入ります。
その時は、黙示録に記されている、「淫婦への裁き」の時なのです。

さて、70週(70の7)という数字を考えてみましょう。
聖書は「知恵ある方」が著者であるといわれている唯一の本なのですから、この書のあらゆることがらに神の知恵が満ちています。数字においてもしかりです。

聖霊にあって、これを見ていく人々はこれを悟ります。

70週(70の7)とは明らかに2つの数字からできている数字です。
すなわち70及び7です。まず始めに7という数字をみましょう。7とは黙示録に「7つの教会」と書かれているように教会と関係がある数です。

さて、70に関してみていきます。これに関して以下のような箇所があります。

”イザヤ書 23:15 その日になると、ツロは
、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。”

70年は「、ひとりの王の年代」なのです。

ですから、この2つの数字、70と7がかけあわされた数字である70週(70の7)とは、「一人の王が教会(旧約においては神の会衆)を治める統治の期間」であることがわかります。

この一人の王とは誰のことでしょうか。こんなに長い間、民を納める王とは誰のことでしょうか。
その一人の王についてサムエル書はこう記します。

”サムエル8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。”

この「一人の王」とは神御自身であり、教会時代においては聖霊なる方のことなのです。
そして、70週の終わりに神の民に裁きが下るとは、彼らがこの王なる方に人々が不従順であったことを
暗示します。

このダニエル書の箇所では、69週の後に、すなわち70週の終わり頃、すなわち、神の民を治める方、
主なる神の治世の終わりに「油塗られた方」が絶たれる、すなわち殺される事が記されています。
これは具体的には主イエスの十字架のことです。そしてこの主の十字架の死はこの70週の預言と密接に関連していることをこの箇所は述べます。ですから、いわんとしていることはこういう事です。
主イエスの十字架の死のもう一つの隠された面があるということをこの箇所は言っているのです。

この死は単にナザレの人が33年の人生を終えたということだけではないのです。そうではなく、70週に渡るこの「神の国」、すなわちこの地上において、唯一神が支配されるイスラエルの国の最後の最後になって、「神の民」はそのそむきのきわみに達して、あろうことか、その「王」を殺す、十字架につける、そのことをいっているのです。主イエスの死は、一面では人間としてナザレ人と呼ばれた人の死ですが、もう一面は70週
(70 x 7=490年)にわたって、この国を統治してこられた方、神御自身を殺すことをさすのです。

主イエスが十字架につけられる前にポンテオピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか」との問いに「その通りだ」と答えたことを思い出して下さい。彼らはこの「王」を殺したのであり、「神の国」を統治したまさにその王なる方を殺したのです。これを「そむきのきわみ」といわないで何というべきなのでしょう。

上記ダニエル書の「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ」という言葉も実は、「王殺し」を暗示することばです。

旧約聖書をよく読む人は「油そそがれた」とはある特定の人々と結びついた表現であることを知っているはずです。
たとえば、「秋葉原」といえば、暗黙の了解として「電気街」という連想があります。また、「霞ヶ関」と聞けば、「役人の街」というような連想があります。

同じように「油塗られた者」とはある特定の人々と関係しています。そもそも「油注ぎ」は旧約において、「王」が建てられた時に行う儀式なのです。サウル、ダビデ、ソロモン等、歴代の王は「油注ぎ」を受けて王としてその任につくのです。

ですから、「油注がれた者は断たれ」という時、実は「王殺し」を暗示した表現なのです。
そして、もう一つ暗示していることがあれば、それは神の油、聖霊に関することがらだということです。

さて、この70週の預言はこの主イエスの時だけに成就するのでなく、終末の時代にもっと本格的に成就することは多くの人が知っていることです。
そして、この時、この「70週の終わりの王殺し」ということがらはもっと明確に成就します。

それを成就することばとして、黙示録には「ソドム、エジプトと呼ばれる都で十字架につけられる主」について書かれています。この主とは聖霊としてこの教会という「神の国(王国)」を70週にわたって、統治した方のことです。新約の神の民もその70週の終わり、治世の終わり、そむきの罪のきわまった時、その象徴的なことがらとして、「王殺し」に加担します。

この時の王は
聖霊として70週にわたる「教会時代」を治めた方をさします。
聖霊は霊なので、霊を殺すとか、十字架につけるとかはおかしな表現と思う人もいるかもしれません。
しかし、具体的にはこのことは、「油注がれた者」達の殉教という形で起こるでしょう。
以下の黙示録11章の預言者で象徴される終末の神の民のことをさします。

”黙11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。”

これは単に二人の個人をさすのではなく、二つの燭台と書かれているように終末の2つの教会をさすのです。彼らの死、死体に関して同じ章にこう書かれています。

”黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

何故、彼らの死について書かれている箇所に「彼らの主もその都で十字架につけられた」ことが書かれているのでしょうか。聖書は神の知恵によって書かれているので、ほんのささいなことがらにも神の隠れた知恵が隠れています。それは、彼らを殺すことが実は、具体的には「聖霊なる方、王なる方」を殺すことになるからです。

これはあたかも2000年前、肉体をもたれた方、イエスを殺すことがそのまま70週にわたりこの国を統治した王なる神を殺すことに通じたことと同じです。
主イエスは「油注がれた方」であり、「王」に相当します。そして、この黙示録の2人の預言者もゼカリヤ書によれば、「油注がれた者」なのです。

ここには、「王殺し」という隠された意味あいが語られているのです。もちろん彼らは神でも、聖霊御自身でもないのですが、しかし、聖書はこの「油注がれた者たち」を殺すことがそのまま、教会を統治した聖霊なる方を殺すことに通じると語っているのです。主がそう語られるなら、我々はそう読むべきなのです。

ですから、この70週の預言には明らかに「神の民による王殺し」という隠された意味あいがあります。それを理解する時、この預言の語ろうとしていることがらが見えてきます。

次を見ます。

”25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。”

「引き揚げてエルサレムを再建せよ」とは、バビロンに捕囚された民に対して語られた命令です。
ですから、「エルサレムの再建」、教会の回復とは、70週の始め、それこそ教会時代の始めから、神が命令され、計画されていることなのです。今私達はこのことに関わろうとしています。神の大きな計画にあずかろうとしていることを知るべきです。

「苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される」と書かれています。広場は「人が集まる場所」としての教会のたとえでしょうか。ほりには、水があふれます。聖霊の働きが純粋なものへ、悪霊の働きの混ざったものから回復されることが伺われます。

”26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。”

油注がれた者は「断たれ」とは、以下の「断ち切られる」と訳されたことばと同じです。
 

「出エジプト記 31:14
この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」

要するに「油注がれた者」が「神の民」の間から、排斥されるということです。
このことは、主イエスの時、起こり、「油注がれた者」主イエスは民の間から、排除され、殺されました。同じことが終末にも起こり、終末の日に聖霊を受けた人々が、神の民の間から、排斥され、また殺される日が来るでしょう。

その結果、「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」ようになります。
この「来たるべき君主」とは、キリストすなわち聖霊の「油注がれた者」とは反対の者であり、悪霊の油注ぎを受けています。悪霊自身のことをいっているのかもしれないし、それを受けている人々のことかもしれませんが、何しろ、この霊は「町と聖所」すなわち、教会とその礼拝場所を破壊します。

「その終わりには洪水が起こり」ということですが、これはいわゆる水、H2Oによる洪水ではありません。何故なら、神は明白に、水による洪水を二度と起こさないことをノアに誓われたからです。
かえって、これはたとえであり、「水」により象徴される「霊」の洪水と思った方が正しいでしょう。
終末には、「霊の洪水」が起きます。「とりこにされるべき人々」はこれを「来るべきリバイバルが来た」と誤って呼ぶでしょうが、実際はこれは、「悪霊の洪水」です。

また「その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」ということです。
ですから、教会の荒廃は定められているのです。

その理由は何故でしょう。何故、70週の終わりに教会は荒廃するようになっているのでしょう。
それは、この「神の国(領土)」である教会を70週に渡って治められた方をその治世の終わりに殺すからです。かつてイギリスのピューリタン革命の時、イギリスの王が首を切られて殺されました。
その後、この「王殺し」に加担し、署名した多くの人々は死刑になりました。王を殺して、無事に済むと思ってはいけないのです。

”27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

彼、反キリストは1週の間、すなわち7年の間、多くのクリスチャンと堅い契約を結びます。
この「契約」ということばは以下で使用されていることばと同じです。
 

”出エジプト記 34:10 主は仰せられた。「今ここで、わたしは<契約>を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。

出エジプト記 34:12 あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と<契約>を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。

出エジプト記 34:15 あなたはその地の住民と<契約>を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。

出エジプト記 34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと<契約>を結んだのである。」

出エジプト記 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に<契約>のことば、十のことばを書きしるした。”

これらのどれもこれも「神と人との契約」をさすことがわかります。聖書は、人と神との間の信仰、契約について書かれた本であり、政治に関する本ではありません。

だから、「7年の中東和平が来る」とか、「中東のイスラエルが周りの国々と7年の間、和平の契約を結ぶ」などという人々は、新聞の読み過ぎであり、「聖書の原則、基本的考え」に基づいてもう一度聖書を読みなおすべきです。

彼らは神の知恵により頼むよりも、むしろ人の知恵に満ちた解釈書を頼りにする愚か者であり、それゆえに、こんな「ガセネタ」をまんまとつかまされているのです。

ですから、「聖霊を追出した神の民」が聖霊ならぬ悪霊を受け入れ、信じ、頼り、祈り「契約する」7年間があるのです。そして、その中でますますこの「(悪霊の)リバイバルのうねり」は高くなり、
その後半の三年半は「異端者」を排撃するようになるでしょう。
 

”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる”

聖霊に聞き従うことを禁止する三年半があります。

この三年半の「教会」の状態は、イエスの時代について語る以下のことばが説明していると思われます。

”ヨハネの福音書 12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。”

三年半のイエスの公生涯の中で、「油注がれた者」キリストへの信仰、告白は神の民の権力者、パリサイ人たちによって「禁止」されていたのです。また、彼らはイエスを信じる者を会堂から追放しました。
これは驚くべきことです。神の長年の約束とおり、また神の民の祈りに答え、福音を携えてついに天から下った神の子を信じると、するとその人は何と神の民の会堂から追放されるというのです!

これは驚くべきことですが、同じようなことが終末にも起きるでしょう。終末の日、聖書の約束通り、
後の雨は下り、約束の聖霊は下りますが、悲しいかな、その時、多くの神の民は「聖霊ならぬ」霊を受けており、その悪霊の惑わしにより、この「方」を受け入れることを公に禁止し、それでもなお、この方(聖霊)を受け入れる人々を「教会から追放」するようになるのでしょう。これが、”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる”と書かれたことの意味です。

そのような半週、3年半が70週の最後の最後にあるのです。

”荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。”

この部分は、KJV訳ではこうなっています。

「荒らす者があふれるために、彼はそれを完全に荒廃させる。定められたものが荒廃したものの上に注がれる。」

「あふれる荒らす者」とは洪水のような悪霊の注ぎかけであり、背信の教会は、この「リバイバル」の中で滅んでいくことがわかります。
 

ですから、「70週の預言」とは、神の国である「教会」を統治した王、聖霊の殺害を預言したものであることを知るべきです。

しかし、このような時代であっても私達はこの「王」なる方に忠誠を尽くしていきたいと思います。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー