No.235: 聖霊の型としてのイエス

テキスト:”マタイ12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、
16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。
17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。”

聖書を通して主イエスの生涯を見る時、はっきりと教えられることは、主イエスの肉体をもった生涯は、後の日の聖霊の働きの「型」だということです。

このように考えることが今の神学にかなったことなのかどうかは知りません。しかし、「聖霊の型としての主イエスの生涯」は、確かに聖書が繰り返して語っているように思えます。それでそのことを今日は見ていきたいと思うのです。

イエスはこういう方だとか、聖霊はこうだとかの類いの話をすることは、今のキリスト教会ではなかなか難しいことのようです。何をいっているかというと、これらの話題に関して少しでも今までの神学と異なることをいうと「三位一体の教理と外れている」「異端だ」などといいだすヒステリックな人々が多いからです。しかし、そうではあっても、私達がこの時代に主のしもべとして立つなら聖書が明確に語っていることをないがしろにはできないのです。
 

主イエスの名前、イエスキリストという名前からして、聖霊を暗示する名前です。
キリストとはよく知られているように「油塗られた」という意味あいがあり、油とは、霊、聖霊のたとえだからです。ですから、この方の生涯を見ていく時、聖霊とはどのようなお方なのかということを理解することができるのです。

主はかつて自分と聖霊との関係に関して「助けぬし」「もう一人の助けぬし」と表現されました。
以下の通りです。

”ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。”

ですから、主イエスの生涯と聖霊との間には、特別な関係があるのです。
聖書は、モーセと聖霊の関係に関して、「助けぬし」「もう一人の助けぬし」とは書かず、またアブラハムと聖霊との関係に関しても「助けぬし」「もう一人の助けぬし」とは書かなかったのです。
それで、我々はこの目に見えない聖霊という方を理解するのに、目に見えた方、主イエスの生涯に注目すればよいことが理解できるのです。

また、聖書は、この聖霊が実は主イエス御自身の霊であることをも語っています。以下の通りです。

”ヨハネ16:
16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」
18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。”

ここで主が「わたしはもう一度あなたがたに会います。」といわれているのは、実は聖霊として来られる主イエスについて語っているのです。だからこそ、主は「世の終わりまであなたがたとともにいる」といわれたのです。

さて、以上のことを念頭に置き、上記テキストを見ていきましょう。

”マタイ12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし”

ここで主はいやしのわざをしました。

”16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。”

そして、その後、不思議なことをされました。人々に自分のことを「知らせないようにと、彼らを戒められた」というのです。

このことは不思議です。主イエスは無名の人になりたかったのでしょうか?誰にも知られたくなかったのでしょうか。しかし、それにしては、ナザレから出て、エルサレムをめざし、そして、多くの群集に歓迎された「エルサレム入場」を果たしています。これらの事実は矛盾しています。いったい、主は人々に知られたいのか、それとも知られたくないのか、どうしたいのかよくわからないのです。

しかし、このことは視点を変えて、「聖霊の型」としての主の生涯を考えるなら、理解できます。
何故なら
聖霊の一つの特徴は、「そのわざが人々に認められない、知られない」ということにあるからです。
聖霊はかつても今も多くのわざをなしています。しかし、この方はへり下った方であり、そのわざを主張しません。それで、多くの人はこの方に気付かないのです。

たとえば、このようなことがあります。
ある兄弟が職場でリストラされそうになります。それでその人は主に祈ります。「何とか、私の雇用を守って下さい。」それで、聖霊なる方は働かれ、その兄弟の雇用は守られます。
しかし、この時、確かに聖霊が働かれたのですが、こんな考えが心に入ってきて、この兄弟は気付きません。「自分の能力が優れていたから、会社が認めてくれたんだ」
このようにこの方の働きは人の目にとまらないのです。

”17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。”

私の霊とは、聖霊であり、ここには聖霊の性質について書かれているのです。

19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。”

「争うこともなく」すなわち、聖霊は、自己主張して、争うことをされない方です。
「叫ぶこともせず」、彼は自分のわざを吹聴しません。
「大路でその声を聞く者もない。」彼は、自分のことを声をあらげてアピールする方ではないのです。

”20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。”

私達がいたんだ葦のような者であり、傷ついていても彼はそれを折らず、癒してくれる方です。
また、「くすぶる燈心」すなわち、その心に聖霊の火が消えかかっているような者であっても、それを
怒ってすぐ消そうとする方ではないのです。むしろ忍耐をもって再び燃えるように計らってくれる方です。
私達のうちに「公義を勝利に導く」ようとりはからって下さる方なのです。

”22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。”

ここで主の前につれられて来た「目も見えず、口もきけない人」がいやされ、「しはものを言い、目も見えるようになった」ことが記されています。これは、勿論主イエスという個人がすばらしい方だということを示すのですが、それにとどまらず、「聖霊」なる方はどのような方かを示す箇所でもあるのです。
ですから、私達が「霊の目」が見えず、悪霊と聖霊の区別のつかない、聖書もどう読めばよいのか、わからない盲人であっても、聖霊なる方を求め、願うなら、その目が開かれることがわかります。
また、「おし」すなわち、神のことばの一言さえ、人前では言えないものであっても、それも聖霊にあって、いやされ、強められていくことがわかります。

2000年前、三年半の間、イスラエルの人々を助けられた「人として来られた」主イエスはすばらしい「助け主」ではありますが、年代的にも地理的にも我々とは遠い存在です。しかし、この方は「もう一人の助け主」「聖霊なる方」の型であり、その生涯は聖霊の働きを我々に理解させるためのものであることを知るなら、私達の目は開けるでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー