No.233 空想話

”2テモテ4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。”

本日は、「空想話」という題でメッセージします。

終末になると人々が「空想話」に耳を傾けていく、そのことを見ていきたいと思います。

順に見ていきます。

”1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。”

キリストは「生きている人と死んだ人とをさばかれ」ます。その時、彼はその言葉、すなわち、
聖書のみことばに基づいて裁くことを知らなければなりません。その唯一の規範である、聖書のみことばを曲げ、恐れげもなく、「空想話」を教会に持ち込む人々の罪は重いことを知るべきです。

だからこそ、パウロは、「その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」と書いたのです。
主の前に決して持ち出せない偽りの教理にいつまでもこだわるのをやめて、悔い改めて正しい道に立ち返るべきです。

”2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”

主の正しいみことばを「宣べ伝え」ることにみこころがあります。偽りの2段階携挙説、艱難前携挙説
等の「空想話」の伝達者、「惑わす者」になってしまうのではなく、真理のみことばをまっすぐに語り続けるべきです。
「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と書かれています。
今が、「2段階携挙説、艱難前携挙説の偽りを警告し、正しい主の再臨説について語る」のに、適した時なのかどうかはわかりません。逆にあまりにも偽りが教会の内部にまで、いきわたっているので、もしかすると、現代はそれを語るのには、困難や苦労のいる時なのかもしれません。しかし、そのように時が良いか悪いかや、季節のことばかり、気にせず、語るべきことを語れと主は命じておられます。

また、「責め、戒め、また勧めなさい。」と書かれています。みことばの奉仕の中には、「正しくない道を歩む、偽りの教理に従っていく人々を」責めることも含まれていることがわかります。
これらの偽りを「責め、戒め」ることにみこころがあります。
 
 

”3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、”

何故、艱難前携挙説、2段階携挙説のような「クリスチャンにとっては都合のよい」手前勝手な教えがこれ程、教会の中に広がってしまうのでしょうか。しかし、ここにはっきりとその理由が書かれています。この教えは、クリスチャンにとって、「自分につごうの良い」教えだからです。

終末に関してキリストは、目をさまし、備えているように語っています。また、ダニエル書、黙示録を始めとする多くの書は、その日における神の民、クリスチャンの苦難を語っています。
これが、「健全な教えなのです」しかし、
艱難前携挙説、2段階携挙説はそれらの「健全な教え」、みことばをまっこうから否定する教えです。
しかし、そのような教えではありますが、みことばに適合しまいと矛盾しようと、「苦難なんか受けたくない」クリスチャンには、都合のよい教えなのです。

その苦難の時には、クリスチャンは地上にいないことになっているからです。
多くの人々は、建て前はともかく、本音では、「キリストのために苦難なんか受けたくない」と思っているのかもしれません。そしてそこを巧妙な蛇がついたのです。

”4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

しかし、この我々にとっては、結構きわまりない「艱難前携挙説、2段階携挙説」は単なる空想話にすぎないことを悟らなければなりません。

空想話ということを考えてみましょう。例えば、我々が、ヨーロッパなり外国へ行く場合、本当に行くつもりなら、お金もかかるし、時間も必要です。20万円でも30万円でもかかる費用は払わなければ、なりません。また、上司に渋い顔をされても、やはり有休なりをとって、会社の休みをとり、日数を確保しなければ、実際にその地へ足を運ぶことはできないのです。これは、大人の世界ならば、当たり前のことなのです。
しかし、子供の世界ではそうでもないかもしれません。「ドラエモンの『どこでもドア』を開ければ、ヨーロッパでもアメリカでもいけるよ」なんて答えが子供から返ってくるかもしれません。

しかし、大人ならば、誰でも「どこでもドア」なんて存在しないことを知っていますし、そんなものがあれば、望ましいけれど、実際は存在しないことを知っているのです。
そんな空想話は大人の選択肢からは外れているのです。

ヨーロッパへ行きたいけど、お金も時間もない。そんな時、お金も時間もいらない「どこでもドア」は、いい考え、アイデアではありますが、しかしこれは、あくまで「空想」の世界の話なのです。

「終末は何だか大変な時になるようだ」「何とか私だけはそんな苦難にあわないものか」そんな時、
その前にもう一回キリストの秘密の再臨があるという「艱難前携挙説」がやって来たのかもしれません。この教えは良い考えに見えますが、しかし、あくまで聖書に根拠を置かない「空想話」に過ぎないのです。どこでもドアのおとぎ話と大差のないものなのです。

角笛によれば、この教えは1830年頃、イギリスのマーガレットマグドナルドという霊媒が見た「幻」が発端だということです。J.Nダービーを始めとする人々が熱心に教会に持ち込んだ「誤った教え」なのです。
ですから、この教えは、聖書のみことばに根拠を置くというより、天使だか、悪霊だかの「幻」が、根底にあるのです。

聖書をそのまま普通に読むなら、この「結構な教理」は出てきません。その証拠にこんな教えは、
19世紀になるまで、教会に現れなかったからです。千何百年もの間、誰もそんな風には聖書を読まなかったのです。聖書を普通に読めばこんな教理は絶対に出てこないのです。そして、19世紀になって、突然新しい再臨に関する聖書の
読み方ができたわけではなく、彼らは「幻」に合わせて、聖書の読み方を変えたのです。
あくまで「幻」が先にあるのです。

この結構な教えに適合する聖書箇所を無理矢理引っ張ってきて、つじつまを合わせたのです。
これは、カソリックの人々が、聖書的には何らの根拠もありそうには思えないマリヤ礼拝を、その幻に惑わされて継続し続けていることに似ています。マリヤの幻は今もひんぱんに現れます。しかし、それは悪霊の働きです。

悪魔の一つの戦略として、「聖書的には、無理な教理を神の民に受け入れさせたい」という時、
よく「幻」を持ち込むようです。しかし、逆に「幻」で支えられなければ支持を得られない、持ちこたえられない教理などはそもそも怪しい教えであることを知るべきです。聖書は、これらの「幻」を持ち込む御使いに関してこう言っています。

ガラテヤ1:8「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」
 

「真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く」と書いてあります。ですから、この教えは、、
「主のために苦しむ」「終末に備える」という聖書の語る真理から耳をそむけた教えであることを知るべきです。

 ”5しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。”

しかし、そのような時代であっても、主のみことばに堅く立ち、その「務めを十分に果た」すことに
みこころがあります。これらの偽りに組みするものたちからの「困難に耐え」、正しいみことばの「伝道者として働」くことにみこころがあることを知るべきです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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